○野母航路等情報(明治~昭和)

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写真
《 三山運輸合名會社 汽船航路案内 》
  <出典:長崎縣紀要(第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎縣協賛會・明治四十年)(所有資料)>

<以下、「野母崎町郷土誌(昭和61年改訂版、274~285頁)」より>

  • 明治16(1883)年 三山汽船(本社時津港)が長崎~野母航路を運航開始する。
  • 明治40(1909)年 明治40年刊の「長崎県紀要」の本文と広告から野母・樺島航路の定期航路が判明した。不足分を「明治維新以後の長崎」(大正14年刊)で補うと次の様子がわかる。
  • 長崎港出航~野母港行 毎日2回出帆
       寄港地 深堀~香焼~蚊焼~高浜~高島~二子島~端島~野母
  • 通称三山汽船の改新丸(28トン)岩崎権藤治所有の第二美志満丸(27トン)1回づつ。
  • 明治44年 三山汽船と肥後汽船は合併して新会社の九州汽船会社となる。
  • 大正5(1916)年 村木汽船部が発足、三山汽船から長崎~野母航路を受け継ぐ。後の野母商船。
  • 昭和4年 12月20日村木汽船部は野母商船に改称。長崎~野母航路を受けつぐ。毎日2航海半を運航。

※「長崎県紀要」本文には、長崎港=深堀=香焼=蚊焼=野母線との記載で高島・端島寄港についての記載はありませんが、<長崎市小学校職員会、『明治維新以後の長崎』、長崎市小学校職員会、大正14年、頁数471>において、「一、九州汽船会社の取扱に依るもの 同店は玉江町に在り明治十六年以来三山汽船部肥後汽船会社は本港を中心として航路を開きしが明治四十四年三月合同して九州汽船株式会社となる所有船三十四隻其の航路二十余線にして左の如し」の記載とその航路紹介に、「長崎野母線 深堀 香焼 蚊焼 高浜 高島 二子島 端島 野母(1日2回)」と記載されています。



<以下、「三和町郷土誌(町制施行三十周年記念事業、昭和六十一年一月吉日)」より>
  • 三山汽船野母航路の寄港地になっており毎日四往復あり、長崎まで一時間、(帆船では二時間半)で行けた。
  • 野母航路の寄港地は、長崎(大波止)から小ケ倉、土井ノ首、深堀、香焼、蚊焼、高浜(野々串)、野母であった。
  • 高島・端島(軍艦島)・安保・長浜(香焼)などの炭坑や、工場に行く日雇人夫を運ぶ運搬船も出された。これは「ブカタ舟」といい、午前六時出航し、帰港するのは午後六時ごろであった。


<以下、「香焼町郷土誌(町制施行30周年記念事業、平成3年10月1日発行、196頁)」より>

九州汽船(株)経営の野母通いと称する二隻(野母丸・端島丸)の船が毎日8回寄港している。長崎~香焼間の運賃は23銭で、香焼~野母間の運賃は40銭。香焼~深堀11銭。香焼~蚊焼16銭である。
※「八十年のあゆみ(九州商船(株)、平成3年)」では「第一野母丸(進水年月:大正5年9月、昭和11年6月売却、長崎-野母航路)」(p.98)や「野母丸」(p.111)の記載を見つけることができましたが、残念ながら「端島丸」の記載は見つけることができませんでした。なお、船名は同じでも別の船かとは思いますが、「創業100周年記念誌」の「野母商船 歴代所有船」一覧には「端島丸」(船質:木造、船種:旅客船、総屯数:29、進水年月:大正4年3月、造船所:鬼池、主要航路:長崎-野母)の記載があります。


<以下、「高島町の歴史年表(高島町教育委員会、平成15年3月31日)」より>

大正6年頃として、大正4年10月27日、会社は九州汽船と野母航路の高島寄港に関する契約を結ぶが、現在の状況、9時・9時30分・12時・15時の4便寄港。
航路・・・長崎~深堀~香焼~蚊焼~高島~二子~端島~高浜


<以下、「三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、580頁)」より>

野母商船(大正8年以後長崎~高島~端島~野母航路を経営)


<以下、「八十年のあゆみ(九州商船(株)、平成3年)」より>

大正12年頃とされる「船客運賃表」が掲載されていて、その中の「長崎野母線」と「長崎嶋原三角線」の寄港地に「端嶋」の記載がありましたので、以下に記載させていただきます。

◎長崎野母線

「毎日四回長崎野母発船」の記載がありますが、高嶋、二子嶋、端嶋に寄港するのは四往復のうち一往復のみとなっています。

長崎発深堀香焼蚊焼高濱高嶋二子嶋端嶋野母着野母発端嶋二子嶋高嶋高濱蚊焼香焼深堀長崎着
7:007:307:558:098:308:458:559:20
7:007:357:458:058:509:209:3010:0010:4511:0511:1511:50
9:3010:0910:1510:3511:2011:5012:301:001:452:052:152:50
12:0012:3512:451:151:251:502:203:003:304:154:354:455:20
3:003:353:454:054:505:20
本表ハ九月一五日ヨリ翌年三月十四日ニ至ル間ノ運行時刻ヲ示ス三月十五日ヨリ九月十四日ニ至ル間

長崎発野母着野母発長崎着繰下ゲ中間港発時刻逐次繰下ケ運行
7:009:207:009:20
10:0012:2010:0012:20
2:004:202:004:20
4:306:504:306:50

◎長崎嶋原三角線

「毎日長崎嶋原発船但シ毎週二回火、金曜日三角マデ運航水、土曜日三角発船」の記載があります。また、スペースの関係からか、端嶋は脇岬と同じ欄に書かれていて、掲載時間は端嶋のものか脇岬のものかは不明です。


端脇
嶋岬


脇端
岬嶋

8:3011:131:302:254:357:10
左表には、富岡以遠の寄港地及び時間の記載は省略させていただいてますが、富岡以遠の寄港地としては、二江、鬼池、口津、吉川、大江、浦田、田平、須川、小川、堂崎、布津、深江、枯木、嶋原、三角の記載があります。


<以下、「高島礦業所概要(大正15年10月発行)」より>

九州汽船会社野母航路往復四回寄港スルアリ又タ常ニ高島ニ小蒸気船ヲ碇繋シ交通運搬上ノ便ニ供セリ其他対岸地トノ間和船ノ往復頻繁との記載があります。


<以下、「香焼町郷土誌(町制施行30周年記念事業、平成3年10月1日発行、196頁)」より>

「昭和の初めごろになって、九州商船のほかに、長崎~香焼間の定期客船として通称「村木」(野母商船(株)の前身)と呼ばれる「長清丸・長信丸・太古丸」等が就航した。この客船は深堀の有海・同亀ヶ崎・江川・土井首・小ヶ倉を経由したので長崎まで1時間くらいかかった。乗客は「はしけ」といわれる小舟から乗りついだので、荒天の折は「はしけ」の船頭さんのご苦労ぶりは大変なものであった。同じころ、通称「西肥発動機」と呼ばれる「梅代丸・富丸」が就航していた。この2隻の定期客船は、三菱従業員送迎のため立神にも発着した。以上の3社は乗客にお茶までサービスする競争ぶりであった。」との記載があります。昭和の初めごろには、長崎~香焼間は一社による単独運航ではなく複数業者が携わっていたことも分かります。
※「八十年のあゆみ(九州商船(株)、平成3年、123頁)」の「第5梅代丸」の欄には、「昭和19年5月海運統制により西肥発動機船(株)を買収,取得昭和31年5月売却」の記載があります。


<以下、「のもざき 文化のかおり(平成4年12月発行)」より>

樺島-長崎間の昔の航路の説明箇所に、「野母からは長崎行きの蒸気船が出る、端島、二子、高島、蚊焼、香焼、深堀、土井の首、小ヶ倉と途中寄港して長崎大波止桟橋に着くまで二時間近くかかった。この蒸気船は、後に焼玉機関からディーゼル機関の発動機船に変わり速力も早くなり長崎までの所要時間は短縮された。」との記載があります。


<以下、「婦人之友(婦人之友社、第三十巻第十號、昭和11年10月発行)」より>

近海通ひの船の発着所らしい、ごたごたした大波止の桟橋から端島行のランチも出ます。もつと大きいあるのださうですが、時間外になつてしまつたので私たちはこのランチに乗込みました。


<以下、「八十年のあゆみ(九州商船(株)、平成3年、63~71頁)」より>

「航路の変遷」の一覧では、明治43年(1910)から昭和17年(1942)まで「長崎野母線」の航路が記載されていて、その後の昭和18年から昭和21年にかけては「長崎野母線」としてではなく全航路の情報として「昭和18年から昭和21年の間営業報告書に経営航路の記載がなく詳細は不明。恐らく戦争の激化により定期航路が維持できなかったと思われる。また、戦後もGHQの指令のより運行していたと推測される。」の記載が続き、昭和22年(1947)以降では「長崎野母線」の航路記載はありません。


<以下、「野母崎町郷土誌(昭和61年改訂版、330頁)」より>

昭和24年3月5日 野母商船が長崎~高島~端島~野母経由航路を就航


<以下、「1950年版 長崎県年鑑(長崎日日新聞社、昭和24年11月、153・154頁)」より>

昭和二十四年六月現在県下主要汽船会社及びその航路は大約次のとおりである。
野母商船株式会社
本社所在地長崎市本博多町
役員取締役社長村木信一郎
資本金一、〇〇〇、〇〇〇円
創立昭和四年十二月十九日
従業員数社員十五名、船員二十五名
取扱貨客共に取扱
定期航路長崎-野母(一日三往復)  長崎-香焼(一日五往復)   配船 長淸丸、長信丸、第十一太古丸
博多-郷浦   配船 第八太古丸
博多-靑方-福江   配船 第八太古丸


<以下、「国際文化都市 長崎年鑑(今村省吾、長崎文化出版協会、昭和25年、93頁)」より>

定期交通船経営者別航路調(昭和24年6月1日現在)
経営者航路名寄  港  地距離
(往復浬)
船名
屯数
馬力一月航
海度数
燃料
野母商船長崎~野母小ヶ倉 土井ノ首 深堀 高島 端島50長信丸389075重油
長淸丸4310075
福江~博多久賀 奈留島 若松 靑方 平戸 呼子340第八太古丸952709
靑方~平戸140第十一太古丸3712030
野母~脇岬樺島4運輸丸45210軽油


<以下、「野母崎町郷土誌(昭和61年改訂版、292頁)」より>

昭和25(1950)年 この年の野母航路(野母商船)
・寄港地 小ヶ倉-土井首-江川-深堀-香焼-蚊焼-高浜-高島-端島-野母(39.9km)
・長清丸(43.16屯t)定員122名、長信丸(38.25屯)定員 92名、第11大吉丸(37.24屯)定員102名
   「第11大吉丸」との記載がありますが「第11太古丸」のことではないかと思います。


<以下、「長崎港港湾計画資料(長崎港港湾管理者発行、昭和29年)」より>

「船名 つや丸、総噸数 53.00、速力 9.5」の記載があります。


<以下、「町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)(昭和30年2月10日)」より>

運輸機関の欄に、「三菱砿業株式会社(定期航路)毎日3往復、野母商船株式会社(定期航路)毎日5往復」との記載があります。


<以下、「野母崎町郷土誌(昭和61年発行)」より>

「合併当時の端島(昭和30年)に至る交通は炭坑社発の社船3便、大波止発の野母商船2便があった」との記載があります。


<以下、「朝日新聞(昭和35年1月16日発行)」より>

「雑貨は毎日二回、野母商船の平戸口丸(130トン)三菱社船夕顔丸(300トン)が長崎からチャッカー船大洋丸(30トン)が高浜から運んでくる。」の記載があります。


<以下、「『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、97頁」より>

(3) 長崎県旅客定期航路一覧表 (県南地区) (昭和36. 8. 1 現在)
経営者航路名船名屯数定員速力船齢
航行距離
km
1日運航
回数
野母商船(株)長崎-野母つ や 丸
外5隻
52.16
計190.77
81
計 384
10321313
野母崎町高浜農協高浜-高島-端島高 浜 丸
第2大洋丸
第2黒浜丸
13.70
13.41
4.98
47
27
16
6.5
7
6
8
25
5
7.5

2
1
1
蚊焼-高島第5鶴丸
かやき丸
18.59
13.97
36
20
8
6
10
15
6
6
2
2
 ※「蚊焼-高島」航路の経営者は個人名でしたので、表には転記いたしてません。


<以下、「軍艦島資料館(長崎市野母町)」より>

「長崎~野母航路 、(昭和)37年8月航路廃止」と説明書きがある写真が展示されています。
  ※現在は、展示されていないようです。


<以下、「長崎新聞(昭和49年4月21日)」より>

昭和49年4月20日の端島発最終日の記事の中に、「軍艦島の歴史とともに野母商船も大正五年から高島-端島航路に旅客船を就航させ、五十八年の間に代わった船は二十隻。」の記載があります。


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