○中ノ島炭坑7(その後5)
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
昭和37年に設置された「中の島公園」関係の光景です。「中の島公園」の場所は、その昔、「中ノ島炭坑」の建物があった場所の一つではないかと思っています。
<2010年撮影> 岬の方からの撮影です。昔は、火葬場があった高台から山の上の公園まで、階段で繋がっておりましたが、その階段もところどころで崩壊し今では使えないようになっております。
<2010年撮影> 火葬場がある高台付近からの撮影です。写真中央には、昭和30年代に出来た山頂付近の公園まで行く時に利用していた階段が写っております。
<2010年撮影>
今回は、火葬場がある高台の反対側にある階段を利用しました。
<2010年撮影> 火葬場がある高台の反対側にある階段ですが、こちらも崩壊が進んでいます。
<2010年撮影>こちらの方が傾斜が緩く歩きやすかったようです。
<2010年撮影> 山頂に登る階段の途中ぐらいに黒い物が固まって散乱していました。
よく確認してみますと瓦が散乱していて、中には「巴紋」と思しき文様が確認できる大きさの瓦もありました。
おそらくは、明治の瓦がそのまま残されていて、昭和37年に中ノ島公園を造る際に支障になる瓦を道端にまとめて置いたのではないでしょうか?。
<2010年撮影>公園内の建物です。もしかしたら、休憩所だったのでしょうか?。
<2010年撮影>左構造物内部の光景と思います。
<2010年撮影>
ブランコの枠?も健在です。
<2010年撮影>
ベンチも健在のようです。また、今回も兎の姿を見ることができました。
今回は、桜と思われる木を見つけることもできましたが、島の先輩のお話しでは、端島・中の島が高島町に編入(昭和30年)される際に記念として、中の島では山頂やその下の段に90本、端島に10本(1本を鉱長社宅敷地、残りを山道)に移植したそうですが、山道の桜は何年かしか持たなかったとのことでした。
なお、<西山卯三・扇田信、「軍艦島の生活 -長崎港外、三菱端島炭礦の見学記-」、住宅研究、巻号4、1954、41-51>には「寺と墓地」の項目があり、その中で中ノ島について、「南面の渚近くに小さな小屋があり、これが焼場になつている。」や「中央の高い所に小さい墓地があり、桜が植えられている。春は美しいそうである。」の記載がありますので、昭和30年以前にも桜が植えられていて墓地もあったようです。
<2010年撮影> 滑り台を見上げる光景です。
<2010年撮影> 滑り台を見下ろす光景です。
<2010年撮影>
この建物は、なくてはならない建物だったと思います。
<2010年撮影>
この建物、遠い昔に見た記憶があります。
<2010年撮影> 島の最も高い部分にある大きな碑の写真です。今では、木が絡みついて何の碑だったのか、検討もつきません。
<2010年撮影> 碑はかなり大きな台座に載っています。
<2010年撮影> 頂上付近の光景です。