○高島 北渓井坑・グラバー別邸
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〔 北 渓 井 坑 〕
<2004年12月撮影> 北渓井坑の説明版です。
<2004年12月撮影>
《北渓井坑(明治2年着炭、明治9年廃坑)》
<「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)より、許可を得て掲載> <『長崎縣紀要』、第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎縣協賛會、明治40年、132~133頁>には、明治元年のこととして「字本村に於て初めて洋式の方法に依り深さ百五十尺の堅坑を開鑿」や明治9年のこととして「北渓井坑は潮水浸入の爲め採掘を繼續すること能はず猶巨額の炭量を貽し終に廢坑」の記載があります。
なお、北渓井坑の歴史については
こちらもご覧ください。
ちなみに、北渓井坑との明記はありませんが、<筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、64頁>には、「1868年 明治元年 高島炭坑にて人力,馬力による四輪車を使用,わが国最初の坑内炭車.」の記載があり、こちらの記載からも北渓井坑は近代化された炭坑であったことがうかがわれます。
<2004年12月撮影> 北渓井坑の拡大写真ですが、現在ではフェンスにて取り囲まれています。なお、<三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、p.712・713>では、北渓井坑のことが、深さ(m)45、大きさ(m)2.1×1.6木枠、掘鑿開始年月慶応4年5月、掘鑿完了年月明治2年4月と紹介されています。
<2012年10月撮影>
《北渓井坑石炭積み出し(明治6・7年頃)》
<「高島町の足跡」(平成16年12月高島町発行)より、許可を得て掲載> 地上に出た石炭を積み出す施設のようです。上段中央部に写っている島が飛島、左の島が伊王島、右の島が香焼です。
左画像と同じ光景と思われる画像が、「長崎大学附属図書館 幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース」では
「高島炭鉱石炭船積場」として紹介されていますが、「超高精細画像を見る」のボタンをクリックしますと、表示されるページにてかなり大きなサイズにて画像を閲覧できます。
2004年12月19日に高島町で開催された石炭感謝祭時に、上記写真と同じ光景と思われる場所を撮影したものです。
〔 北 渓 井 坑 模 型 〕
<2017年4月撮影> 北渓井坑跡地に模型が展示されていました。まだ、模型のみで説明版はありません。
<2017年4月撮影>
<2017年4月撮影>
<2017年4月撮影>
<2017年4月撮影>
<2017年4月撮影>
<2017年4月撮影>
〔 グラバー別邸 〕
《トーマス・ブレーク・グラバー 之像》 <2004年12月撮影> とある方から、記憶違いがあるかも知れないとのことですが、「昭和23年頃老朽化により取り壊された、グラバー別邸の建物の感じは、屋根は瓦葺き一部二階建て、飛島に向いたほうに幅一間半位、長さ建物いっぱいの濡れ縁があり、一時期高島神社の神主さんが住んでいた。二階建てのところは日本建築式、一階建てのところは洋館建てみたいになってて、小島公園に向いたほうに二階建てがあり、飛島に向いたほう(濡れ縁があるほう)が一階建て」とのお話しを伺ったことがあります。
また、昭和23年11月7日発行の「現勢要覧(西彼杵郡高島町)」には、高島における唯一の名勝は宮崎(別名小島と云う)なり。明治の初期英人グラバー氏炭坑開きのため来島せし際、住居を宮崎に求めて茲に二十餘坪の洋館を建築し居住、グラバー氏退島後は之を貴賓館として高島に来島する高貴の人の宿舎に富てたり。かつて青年團員並びに炭坑従業員の修養道場として用いられし洋館も六十餘年の星霜を経て荒廃し昭和20年に至り解體の旨の記載があります。
ちなみに、<興梠友兼著、「忘れ得ぬ其日」、『石炭研究資料叢書』(九州大学 記録資料館 産業経済資料部門)、第27輯、2006年3月、39頁>には、大正8年から満3ケ年間高島にて生活された著者のご経験として、「島の事とて、夏は海水浴が盛んであった。島の中央にある小丘を越えて裏側に昔から高島村と云うのがあった。小さな漁村で昔からのキリストの小さな礼拝堂もあった。其処は入江になって居て浅瀬であった。一寸した岬になって居る処に大きな松の木が生ひ繁り、其処に炭鉱の小別荘見たいな休憩所があって、夏はよく皆其処に集った。」の記載がありますが、「炭鉱の小別荘見たいな休憩所」とはグラバー別邸のことではないかと思っています。
《 (長崎港外)高島名所小島 Kojima Takashima, Nagasaki. 》 <所有絵葉書> 写真手前には石垣の堤防がありますが、堤防の付け根部分を見ますと、まだ、この頃には海沿いの道は出来ていないようです。なお、堤防の内側には小舟が見え、堤防の先には小島が見えています。 ちなみに、 明治7年頃の高島の思われる図を見ますと、左写真の「石垣の堤防」の位置に相当すると思われる箇所にも「石垣」の文字が書かれています。
《長崎港外髙嶋村小島海水浴場 昭和七年七月拾壹日長崎要塞司令部検閲済》 <所有絵葉書>
上段写真に写る石垣の堤防が半分ぐらい壊れていますが、検閲済みの日付からして、少なくとも昭和7年以前の姿のようです。また、小島と高島の間には橋が架かっており、小島の上には建物が見えております。
《左絵葉書の部分拡大》 小島の上の建物ですが、かなりの大きさのように思えます。
私も、昭和30年代の終わりか昭和40年代の始め頃に、小島の海水浴場にて泳いだ覚えがあります。うる覚えではありますが、確か砂浜もあって貸しボートもあったのではなかったでしょうか?。その後は、コンクリの岸壁に生まれ変わりました。
<2004年12月撮影> 島の形から、昔の高島と思える地図(写)があり、地図の北渓井坑と南洋井坑があったと思える部分には「坑口」と「工部省御用地」の文字がありますので、後藤象二郎に払い下げられる直前の地図かと思いますが、その地図には、小島の中央部分にも「工部省御用地」の文字があります。ついては、もしかしたら、グラバー別邸も一時期、工部省所有になったのではないかと思っております。
<2004年12月撮影> 写真右側にある建物は、グラバー別邸跡地に建てられた東屋で、発掘調査が行われていた時の撮影です。
<2012年10月撮影> 東屋も取り壊されて、更地になっております。
<2012年10月撮影> グラバー別邸についての説明板が設置されておりました。
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