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伊能忠敬『測量日記』

十一月二十二日

 冬至。曇天。手分けして先手は六っ前(午前7時前)に、後手六っ後(午前7時過ぎ)に矢上宿又町を出立した。

(本隊)
 後手は我等・今泉・尾形・箱田・甚七。矢上村。長崎街道の御料所日見村と佐嘉領矢上村の界の御料所界杭(現在は石柱であるが、当時は木柱)より初める。矢上村枝鳥合場。枝五次郎。枝東房(東望)。昨日海辺から打ち出した印に繋げる。一十二町九間一尺(1,325.76m)。

 目鑑橋(番所橋。当時は眼鏡橋であった)を渡り七間(12.73m)。枝矢上駅問屋場。二町二十六間(265.45m)。左に二町(218.18m)程引き込んで大王権現社(矢上神社)。左に二町ばかり(218mほど)引き込んで一向宗教宗寺(シーボルトの江戸参府紀行によると、オランダ人達はここで昼食を摂るのが通例であった)。字馬場、又は平野という。八竜川(八郎川)巾一十二間(21.82m)。枝平野。枝藤ノ尾。楠川(八郎川の中流域の名)巾九間(16.39m)、中央が界(川の中央が境で、天領と佐賀領との境)。高来郡御料所古賀村字広ガリ(広刈)。楠川を斜めに渡り一十二間(21.82m)。字洗切。字松原。字田畑(田端)。字向名。字遠干田(トボシダ・唐干田)。土橋三間(5.45m)。左に一向宗福瑞寺。字太刀(立館)。字軣。右は諫早へ出る近道で三里(約12q)という。枝田ノ頭。枝垂山(樽山)。鎧川三間(5.45m)。杭ノ平。字中野。字平松。立場。字ツキモウシ。字平木場。枝長里名。彼杵郡佐嘉領井樋尾(イビノヲ)村。井樋尾峠で先手が初めに残した印に繋げる。一里三十一町五十四間五尺(7,408.79m)。総測二里一十町三十間(8,999.99m)。それより先は測らない。

 小船越村(諫早市)へ八っ半頃(午後3時頃)に着く。本陣は庄屋の卯兵衛宅(現在の小船越町800番地付近と推定)、別宿は貞右衛門宅。当村詰で郡方の立川喜右衛門が出て来た。


(手分け)
 坂部・永井・門谷・保木・佐助は彼杵郡佐嘉領井樋尾村の井樋尾峠に印を付けて初めた。高来郡久(ク)山村(諫早市久山町)枝茶屋分。久山川巾三間(5.45m)。久山村で中食。

 赤谷坂(赤松坂)。貝津村双原(サウハル)(双場谷)。枝宿分。貝津川巾(東大川)五間(9.09m)印迄一里九町五十八間(5,014.54m)。これより海辺へ横切り津水村(諫早市津水町)を測るために印した。貝津川巾五間(9.09m)、小船越村。右諫早と左大村の追分け(現在、島原街道と長崎街道を記した新しい石柱が建っている)印を打って止める。四町一十六間(465.45m)、長崎街道が合計一里一十四町一十四間(5,480m)

 又、印より横切る。貝津川に添って海辺へ打ち下る。貝津村(諫早市貝津町。付近は工業団地となり街道の一部が無くなっている)。貝津川巾五間(9.09m)。真崎(マサキ)村。津水村。貝津川尻を渡る。巾三十間(54.55m)。又、貝津村の貝津川尻の入江の端に出て、印を残して横切りを打ち止める。横切り二十町二十九間(2,234.55m)

 貝津川は大村領と佐嘉領の界なので、一支(一本の支線)(今村川?)を渡って、印を残す。四十九間三尺八寸(90.24m)。総測一里三十五町三十二間三尺八寸(7,804.79m)

 それより測らずに真崎村(諫早市真崎本村名)へ八っ半頃(午後2時頃)に着く。止宿は百姓の六右衛門宅と吉右衛門宅。この夜は曇り晴れで、小船越村で観測する。

背景の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものです。
※国土地理院承認番号 平14総複、第253号 平成14年10月9日

領境石 (写真1)

藤棚 (写真2)

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