50号棟(昭和館)

 最終の50号棟 : 昭和2(1927) 鉄骨2階 映画館(昭和館)
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

  • 煉瓦造2階建てで約400席の映画館であった。2階席は固定椅子で段床の構成であるが、1階は土間コンクリート、モルタル塗り仕上げの平土間の可動座席で多目的用途に対応していた。昭和45年以降は映画館としての活動を止め卓球場として使用されていた。なお、舞台裏に木造下屋の楽屋があったが、昭和39年に隣接の公民館が建設されることにより撤去される。
    <阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.658>より
  • 収容人員600、入場者数(月)15,000
    <『町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)』(昭和三十年二月十日)>より


〇以下、昭和館以前の劇場等情報
  • 劇場改造費 三、二〇〇圓
    <「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 26』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3354頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 十二月二十五日 大正六年度各炭坑起業費」>より
  • 南部に「演劇場」の記載あり
    <国立情報学研究所の「CiNii 論文 - 9080 大正・昭和初期の高島炭坑端島坑社宅街の変遷(社宅,建築歴史・意匠)」に掲載されている「図2 端島坑外図(大正6年)」>より
  • 各坑に定設劇場を設け会社経営にて毎月土、月曜の両日各種の興業をなす。
    <『高島礦業所概要』 (大正十五年十月)>


内容《 (長崎港外)端島十二階の全景 Junikai Hajima, Nagasaki. 》  <所有絵葉書>
 日給は20号棟までが完成していますが、9階建てとなっているのは16・17号棟のみで、18・19号棟は当初建築部分の6階建ての姿で9階への建て増しはまだ行われていません。また、20号棟の上には、左から、端島神社、旧15号棟、旧14号棟が写っています。
 なお、絵葉書右端の旧14号棟の下の部分ですが、高台に手摺が見えていますが、 お寺の前の広場 に設けられた 手摺 ではないかと思います。ついては、手摺りの手前にある長屋の部分に、後年、50号棟(昭和館)が建つことになるかと思います。


内容《 長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景 》  <所有絵葉書>
 上段絵葉書には写っている15号棟がこちらの絵葉書では見えなくなっていて、神社の鳥居の形等と考え合わせますと大正後期から昭和初期の光景になるように思います。
 なお、こちらの絵葉書では50号棟(昭和館)が建つ部分の長屋がなくなっていて、絵葉書右端中段の高台部分にある手摺の直ぐ下ぐらいから、斜め下に向かってコンクリートを流す管のようなものや手摺の下の部分には足場らしきものが見えますので、もしかしたら、50号棟(昭和館)着工時ぐらいの光景かと思いますがいかがでしょうか?。


内容《 長崎港外端島名勝 コンクリー建ノ景 》の部分拡大
 上段の絵葉書から、19・20号棟手前にある長屋の上部分を拡大しました。私の間違いでなければ鯉のぼりと思いますがいかがでしょうか?。


写真
《長崎港外端島名勝 昭和館》  <所有絵葉書>
 建築当初の姿と思います。建物前のゲート?には祝開館と書かれているようです。

写真《昭和10年右卸五片爆発殉職者合同葬時》  <写真は島の先輩より>
 <三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、388頁>には、「災害発生年月日:昭和10. 3.26、災害の種類:ガス爆発、災害箇所:右卸右五片昇、死亡者数:25人」の記載があります。
 また、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 37』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、1003頁」の「社誌 昭和十年 三月二十六日 端島坑内瓦斯爆発」には、「三菱鑛業株式會社高島礦業所端島坑内ニ於テ瓦斯爆発シ参事○○○○以下死者二十五名、負傷者十数名ヲ出ス」の記載があり、続く、「高島礦業所端島坑々内變災」の詳細な説明の中から抜粋しますと、「三月二十四日自然発火ヲ起シ密閉ヲ行ヒ、二十六日午後九時半頃ニ至リ遂ニ爆発シ密閉ヲ吹破リタルヲ以テ幹部全員現場ニ赴キ密閉作業中ニ従事中俄然第二回ノ爆発アリ為メニ端島坑長○○参事ヲ始メ二十五名ノ生霊ヲ奪ヒ外ニ十数名ノ負傷者ヲモ出セリ 四月二日殉職者ノ合同葬行ハレ」の記載があります。
<注:氏名については○○と記載>


写真
《長崎港外端島昭和館
 昭和十六年一月十一日 長崎要塞司令部再検閲済  <所有絵葉書>
 こちらの絵葉書では、庇の下に、照明灯らしき丸い物が四個設けられているようですが、上段左側の絵葉書では見ることができません。ついては、こちらの絵葉書の方が、若干、後年の撮影と思います。
 ちなみに、その昔、このあたりは7軒ほどの家屋があり「寄合町」と呼ばれていたらしいとの話を島の先輩から聞いたことがあります。
 なお、映画館の右側に見える高層建物は20号棟と思いますが、非常に近くに見えます。また、20号棟らしきものの手前には木造家屋が写っています。


写真
<出典: 主婦の友・3月号((株)主婦の友社・昭和31年3月1日発行)>
 写真の説明には「昭和館=島の映画館で、都会の場末より新しいものをやつている。島一番の汐降りどころで、屋根にザンブと汐が鳴る。」とあり、また、本には「毎日替り二本立、30円」の記載もあります。ちなみに、長崎民友新聞(昭和24年4月6日付)に掲載されている端島の記事の中には「週四回かわり入場料も大人二十五円」の記載があり、昭和館最後の頃と思われる料金窓口の写真では「入場料 大人100円 小人50円 上映時間 昼十一時 夜六時」の文字が確認できます。

写真
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 時代は不明ですが、勤労文化部より各家庭に配布された予定表です。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 昭和館と48号棟の間にある長屋周辺の状況から昭和30年代の台風被災時の光景のようで、閉山時にあった公民館が建つ前の状況です。昭和館の壁に沿って見えている小さな建物が、前出の 「舞台裏に木造下屋の楽屋」 ではないでしょうか?。また、昭和館の海側にも小さな建物が見えてますが、昭和館の便所があった場所です。

写真<写真は島の先輩より>
 昭和館の屋根の様子です。31号棟、ボタ捨てのベルトコンベアー、また、遠くには三ツ瀬も見えています。
 なお、昭和館の護岸側には古い石積の階段があったかと思いますが、護岸で釣りをなさっていた先生とその階段を登って会話をしていた記憶があります。


写真
《昭和31年労組結成10周年慰安演芸会 超満員の会場》
   <写真は島の先輩より>

写真<写真は島の先輩より>
 二階の光景が懐かしいです。

写真<写真は島の先輩より>
 この時とは別ですが、手品師の方がこられたこともありました。


写真
写真<写真は島の先輩より>
 晩年は映画館ではなく、卓球場として利用された時期もあり、私も遊んだ覚えがあります。卓球台は3台で、卓球台から後ろの壁までの間隔が広かったので、空振りをするとピンポン球を取りに行くのが大変でした。


《 昭 和 館 今 昔 》

 前出の 《長崎港外端島名勝 昭和館》 より部分拡大
 冒頭の絵葉書から建物部分を切り抜きました。冒頭の説明と重複しますが、建物前のゲート?には祝開館と書かれているようですので、昭和2年の建築時の光景かと思います。なお、この時点では、下段の写真二枚にある入口付近の出っ張り部分はありませんので、出っ張り部分は、後日、増築された部分となるようです。


写真
《島内唯一の映画館「昭和館」。(昭和29年10月)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
写真
<平成25(2013)年撮影>
<長崎市の特別の許可を得て撮影>


 増築年月日は不明ですが、左側写真では当初建築部分の手前に出っ張り部分(映写機室)が増築されいて、冒頭の写真から正面の姿がかなり異なっています。ちなみに、建物が卓球場として使用されるようになった以降の映写機室は子どもが自由に入れる状態でしたので、中に入って遊んだ記憶が残っています。
 右側写真は閉山後おおよそ40年後の平成25年の撮影ですが、当初建築された部分は僅かな部分を残して倒壊しており、後日、増築された出っ張り部分が往事を偲ばせています。ちなみに、私が、子どもの頃に見た映画には、「大魔神」や「ガメラ」等がありますが、「大魔神」は怖くて夢の中にも出てきました。また、手品ショーの記憶もあります。


写真
←<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 上段右側写真にある昭和館の建物を裏側から見た光景です。写真左側の上には、お寺や12号棟方向の光景が、また、左側の下には建物内にあった階段らしき、斜めのコンクリートの痕跡が見えております。

写真
↑<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 現在も残る昭和館の一部を公民館の方から見た光景です。建物の手前に瓦礫が見えておりますが、倒壊した昭和館のものです。

写真
↑<2011年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 昭和館の公民館側の壁の一部です。綺麗な形で倒れています。


写真
←<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 31号棟の3階と4階の間にあった、お寺等への連絡橋を渡った付近からの昭和館の光景です。舞台や客席の部分は、ほとんどが倒壊しているようです。時の流れを痛感します。

写真
↑<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 赤い丸で囲まれた倒壊している構造物は「昭和館の最も高い箇所にあった飾り物(右端が玉の部分)」ですが、何と、その場所は昭和館の隣の石積上にあったお寺の部分です。「昭和館の最も高い箇所」はお寺があった場所よりも高い位置にありましたので、昭和館が倒れる際に「お寺があった高台」に倒れ込んできたものと思われます。


写真<2013年撮影>  <写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より>
 在りし日の昭和館の姿です。ちなみに、上段にある「昭和館の最も高い箇所にあった飾り物」とお寺の位置関係がよく分かります。




〔 閉山後の光景 〕

写真<2004年撮影>
 位置的には31号棟と公民館の間にありました。倒壊のため、現在は、島の外からその姿を見ることはできません。


戻る

建物関係へ

TOP

次へ