59・60・61号棟

 最終の59号棟 : 昭和28(1953) 鉄筋コンクリート造5階 鉱員社宅 地下購買所
 最終の60号棟 : 昭和28(1953) 鉄筋コンクリート造5階 鉱員社宅 地下購買所
 最終の61号棟 : 昭和28(1953) 鉄筋コンクリート造5階 鉱員社宅 地下共同浴場
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写真
<写真は、町勢要覧昭和48年4月より高島町の許可を得て転載>
 写真の左下部分ですが、閉山時に59・60・61号があった箇所には木造アパートがあります。また、65号棟前の公園の箇所にもまだ木造住宅が存在しており、新65号棟の姿も見えません。
 昭和27年発行の「炭の光」には、「今迄の社宅と異なって各戸に水洗式便所を備え、全戸近代的な明るい様式に設計されています、五階建三棟の総工費約三千五百万円、此の完成によって四五戸が緩和される事になります。」との記事があります。五階建三棟の名称については記載がありませんが、59・60・61号棟ことかと思われます。なお、その記事のタイトルは、「端島舊六寮跡にアパート建つ」とあります。写真左下に写る建物が六寮と呼ばれていた建物でしょうか?。

写真
<最終>  <写真は島の先輩より>
 5階建ての59・60・61号棟が写っており、また、屋上には足場の姿が見受けられますので、昭和40年代に、屋上に1階分の増築が実施される時の写真ではないかと思います。
 前出の「炭の光」(昭和27年発行)には、「今迄の社宅と異なって各戸に水洗式便所を備え」とありますので、この頃から便所の水洗式化が始まるのでしょうか?。ちなみに、『阿久井喜孝 他、軍艦島実測調査資料集、東京電機大学出版局、1984、617頁』には、「閉山前には,比較的新しい建物(小学校,体育館,公民館,役場,2・3号棟,13号棟その他合計22棟)には,現代的下水方式の完全な水洗便所が設けられていた.この中には建物は古いが便所だけを水洗式に改造したところもある.残り約20棟は従来どおりの半水洗式である.」との記載がありますので、閉山前の時点では、建物の数としては半数を超える建物で水洗式便所が設けられていたようです。



 61号棟地下には共同浴場(下風呂)が設置されていましたが、端島の風呂事情に関しては下記等の情報があり、時代により潮風呂の状況も変化します。

1937年発行の<三菱高島砿業所案内>の住居地管理体制・公共共同施設に関する項には,清水不足のため労務者浴場は隔日に潮風呂である等が記されている.
1954年の西山卯三・扇田信の報告書によれば,当時給水船による供給を行っていた端島では,海が荒れるとまず風呂が海水風呂になり,真水の風呂は中止された
<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集』、616頁>の「風呂」の説明より
海底水道完成以前には,浴槽に海水を入れていたので浴槽内や床モルタルの風化がはなはだしい.
<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集』、663頁>の「59,60,61号棟」の説明より


写真
<最終>  <写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より>
 写真中央部分ですが、屋上に黒い屋根の建物が載っている3つの建物がありますが、右から、59・60・61号棟となっております。
 59号棟の日給側及び59号棟と60号棟間には地下の購買所への入口がありました。また、60号棟と61号棟の間の地下に降りる階段は、少し降りたら階段が左右に分かれ、右が共同浴場入口、左が購買所事務室?だったと思います。なお、59・60・61号棟の屋上に載る黒い屋根の建物ですが、当初からあった建物ではなく、後日、設けられたアルミ板の外壁を持つ1階建てプレハブとのことです。

写真<2004年撮影>
 神社の下が59号棟、その左が60号棟です。神社が大きく見えます。


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