ドルフィン桟橋完成前

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 長崎−高島・端島間の連絡船に乗り降りしていた場所や方法は時代により変わるようです。ドルフィン桟橋があった箇所においてドルフィン桟橋が完成する前までは、沖で船から艀に乗り継いで、凪の時は島から艀と同じ高さに下げられたクレーン式桟橋の先端から直接上陸し、時化の時はクレーン式桟橋と艀が接触するのを避けるためクレーン式桟橋と艀の間は距離を設けるためにクレーン式桟橋の先端から下がったワイヤー製梯子を登って上陸していた時代もあるようです。なお、時には時化が激しくなり上陸を断念し夕顔丸に引き返すこともあったとのことです。

  <参考文献 : 『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)、『端島 軍艦島』高島町教育委員会(2004)>


写真《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》
<所有絵葉書>
 絵葉書の下段右側には艀が二艘積み重なって陸の上にありますので、付近には艀を海へ上げ下げするクレーンが設置されていることになるかと思いますが、閉山時に15tクレーンがあったこの場所には遅くとも大正の終わり頃にはクレーンが設置されていたようです。
 ちなみに、この絵葉書には大正11年完成の上陸桟橋(クレーン式)の巻上設備らしきものがあり、風景印の日付は「大正13年6月16日」と思われることを考え合わせると、この絵葉書の光景は大正11〜13年頃の光景ではないかと思っています。


写真《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》の部分拡大
 上段絵葉書の中段右側部分の拡大です。左端の三角屋根の建物や、三角屋根の建物から右下に向かって細い線が見えていますが、それらは大正11年完成の上陸桟橋(クレーン式)設備の一部ではないかと思いますがいかがでしょうか?。


写真《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》の部分拡大
 三角屋根の建物付近を更に拡大しています。三角屋根の建物から右下に向かっている線の部分では分かり難いですが、左下に向かっている線の部分を見ますと、線の正体はワイヤーではなく鎖のように思われますがいかがでしょうか?。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 昭和6〜11年頃の光景かと思います。まだ、ドルフィン桟橋が設置される前の光景です。後日、写真右下の付近に島からドルフィン桟橋に渡る橋が設けられました。

写真
<出典:婦人之友第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)>
 写真のタイトルは、防波堤の入口です。そして、婦人之友第三十巻第十號のこの写真が出ている箇所の近くには、「防波堤の壁にあけてある矢張り城門のやうな門を潜ると、すぐそこからトンネルでした。」とあります。この写真は、当時の島への入口のようです。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 おそらくは、昭和20年代中頃以前の撮影と思います。この時期の坑外図を見ますと、この付近には表桟橋の表示がありました。

写真<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
 写真の説明には、「島と長崎を結ぶ連絡船は一日三往復する 岸壁に横づけにならないので ハシケが使われる 時化に備えて夜は陸につりあげておき 日の出と共にクレーンで下ろす」旨が記載されています。ちなみに、左の写真と比べて年代的には少し遡ることとなりますが、 こちら の写真には、陸上に置かれたハシケが写っています。



写真
<写真は島の先輩より>
 写真の持ち主とは別の島の先輩より、連絡船と島を結ぶ艀には、3人の船頭さんが櫓を漕ぐ艀があった旨を聞いたことがあります。時代により相違があるのかも知れませんが、この写真に写る艀には、左側に二人、右側に一人の櫓を漕ぐ船頭さんの姿が覗えますので、この写真は先輩が話された艀の光景かも知れません。
 なお、後年はエンジン付きの艀にかわりました。

写真
<写真は島の先輩より>
 船頭さんが櫓を漕ぐ姿がよく分かります。また、夕顔丸の船体には英数字の標識らしきものが見えます。島の先輩によりますと、昭和20年代中頃の撮影のようでした。


写真
《端島への上陸は、「社船夕顔丸」から「はしけ」に乗替えて上陸しました。(昭和35年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真
<写真は島の先輩より>


写真《「凪」の時の上陸は、「はしけ」から直接上陸桟橋で上陸できました。(昭和35年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真
<写真は島の先輩より>
 凪の日のようで、島への上陸も楽に行えているようです。また、写真左端に写る連絡船もかなり島の近くまで寄っているようです。


写真
《海が「時化」て来ると上陸桟橋が引上げられます。ワイヤー製の梯子を「よじ登り」上陸します。(昭和28年)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真《いよいよ「時化」が激しくなって来た時は、危険なため上陸を断念し「はしけ」は「夕顔丸」に引き返すこともありました。(昭和28年7月)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>


写真《「子ども」の上陸を見守る。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

写真《ご婦人も上陸するには、命がけでした。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>



 以下、<日本港湾協会、『長崎県端島港修築計画調査概要』、港湾、30(4)、1953-04、22〜26頁>の記載の中から抜粋します。欠航日数の短縮、利用客の安全、経費の節約等を目的に、いよいよ、ドルフィン桟橋の建設に向かっていきます。当初の計画は浮函による方式だったようです。

  • 昭和27年8月1日 長崎県西彼杵郡高浜村長より、長崎港外の孤島で港湾整備上、技術的その他特に問題の多い端島港修築計画の調査について、本会に依頼があった。
  • 海底は岸より急に深くなつていて、防波堤等の構造物を築造するには建造費が嵩むため、未だに被覆されていない孤島である。
  • 定期船は長崎港との間に社船の夕顔丸(総屯数209.96屯、船客定員、471人)等が1日3往復している外、野母商船の船での往来もあつて、1日500人〜1,000人の船客の昇降があるといはれている。
  • 現在の上陸桟橋では、荒天時定期船が年間40日余の欠航をする外、南寄りの風の場合には、岸沿いに三角波が立つて、船客の乗降りに危険
  • 毎月数名の負傷者を出しており、過去に於いては死者を出したこともあつて、恐怖のあまり20年以上の在島婦人で長崎に出向いたことが僅かに5日という例さえあるという
  • 現在の船客の乗降に要する経費とし、人件費その他年間約300万円を要しているので、早急にこれが整備を計ることは経済効果も頗る大なるものがある。
  • 本港を波浪から防ぎ、常時接岸荷役もでき、船客の乗降りも可能にするはめには、前面に長大な防波堤を築造するか、又は島内に掘込んで安全な泊地を造成しなければならないため、技術的にも相当の困難を伴うものであるし、莫大な工事費を要することとなるので、これらの本格的整備計画は後日に譲ることとした。
  • 本計画における船客昇降施設は細長い渡橋と浮函よりなる。渡橋は長さ30m、巾2mとし、浮函の長さは18m、巾6mとする。
  • 長崎港外遠く離れた孤島であり波浪の大きいところであるからこれが整備費も一般に考えられる工費をはるかに上廻るものであり、前記寸法の渡橋及浮函を整備するに要する概算経費として渡橋約9,000,000円、浮函約16,000,000円、合計約25,000,000円を要するものと思はれる。


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