8号棟

 最終の8号棟 : 大正8(1919) 鉄筋コンクリート、木造3階 1階共同浴場(通称:上風呂)、職員社宅
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

<写真は島の先輩より>
 写真左側の石積に載る建物が6号棟で、その横の写真中央部には山道と7号棟方面を結ぶ通路(通路の先の建物が7号棟)、そして、写真右側には、8号棟の屋根や塀と山道と6号棟横の通路から8号棟2階へ上がる階段が見えています。

<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 写真右上の建物が8号棟で、一番奥には15号棟が写っています。
 8号棟については、<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.650>には、半地階に、RCラーメン構造の共同浴場(男女別)があり、2階、3階に木造住宅が内包されている旨の記載があります。

 1階の共同浴場は、通路入って手前が男風呂で、その先に女風呂があり、男風呂には一カ所、女風呂には二カ所の出入口があったように思います。
 なお、この建物の1階から隣の12号棟2階への連絡橋がありましたが、<伊藤千行−写真 阿久井喜孝−文『軍艦島 海上産業都市に住む』(株)岩波書店(1995)>に、その姿が写っています。

 なお、島の先輩によりますと、8号棟半地階部分(写真中段右端の電柱の先の階段を昇った付近)には、学校の女性教員が住んでいたことがあるそうで、8号棟と12号棟の間を通らずに、上風呂に通えていたとのことでした。私が記憶がある頃はそのような住居はありませんでしたが、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、400頁>の「図版5-11 8号棟1階職員浴場(改築前)平面詳細図」と「図版5-12 8号棟1階職員浴場(改築後)平面実測詳細図」とを見比べますと、改築前の図面では、閉山時の奥の脱衣所部分が住居部分となっていて、住居から共同浴場への裏口が設けられていました。

 また、上風呂ですが、その昔は職員とその家族しか利用できなかったそうですが、戦後になってから一般の方も利用できるようになったそうです。


<左写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より>
 写真中央の建物が8号棟で、その右上の建物が6号棟、左下の建物が12号棟となります。<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、651頁>には「建物を対称形に2分する位置に1階RCラーメンから屋上までを貫くRCの防火壁が立ち上がっているが」の記載がありますが、建物の中央に突き出ているのが防火壁のようです。

<2016年影> 一番上の横に長いコンクリートの構造物が8号棟です。上風呂の部分はどうにか残っていますが、その上にあった2階建ての木造は崩壊しています。



<2019年5月撮影>
 建物正面よりほんの少し北側からの撮影です。建物中央付近には防火壁らしき物が見えますが、防火壁は少し壊れてしまい、建物が健在だった頃よりも少し低くなっているようです。ちなみに、一番右側のコンクリートの建物は上から2枚目の写真には写っておらず、8号棟とは関係がない建物で後日できた建物のように思います。


<2019年5月撮影>
 上段写真から防火壁付近を部分拡大してみましたが、かなり大きな壁だったようです。ちなみに、防火壁左側のコンクリートの柱ですが、もしかしたら冒頭写真に写る6号棟横の通路から8号棟2階へ上がる階段の柱でしょうか?。



<2019年5月撮影>
 建物正面よりほんの少し南側からの撮影です。コンクリート部分の左端の穴は確か3号棟方面や6号棟方面及び30号棟方面を結ぶ坂道の通路がありました。また、その穴の右隣りの少し狭い穴は8号棟と12号棟を結ぶ橋が架かっていて、その右側から上風呂となっていました。


戻る

建物関係へ

TOP

次へ