◎学校各種履歴の2

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 先代校舎 と 工事中の最終校舎 〕

《昭和31年1月撮影》  <高比良勝義氏(元島民)撮影>
 基礎杭を打つ時の姿で、旧校舎火災の1年少し前の写真です。プールの上には校舎が建設されています。

<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 65号棟横の大煙突からは、黒い煙がもくもくと出ています。
 左写真では杭打機の姿が写っておりますが、こちらの写真にはその姿はなく、代わりに鉄塔のような構造物の姿が見えております。
 なお、その鉄塔のような構造物は下の写真2枚にも写っており、コンクリを流し込むための構造物と思いますが如何でしょうか。


<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 写真の右上には、ボタ浜の姿が見えます。

<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 65号棟の迷彩塗装がお分かりいただけますでしょうか?。


〔 最 終 校 舎 〕

 完成間際の最終校舎が昭和32年4月に延焼に遭いますが、その少し前の<『炭の光』、第85号、昭和32年2月5日>には「日本一の学校 完成急ぐ端島新校舎」がタイトルの記事があり、概ね以下の記載があります。
総工費約九千万円とい尨大な財源
完成は三月二十日の卒業式までに六階の講堂を、三月末までには、全校舎を、という目途で工事が急がれていますが何分台風被害による各地の復旧工事や、最近産業界の好況に基く諸工事のため、極めて繁忙な時期にありコンクリート骨材用のバラスの需要が激しく、熊本の八代から入手するバラスが思うに任せず、加えて荒天により運搬船の接岸不能等がたゝり現在約一ヶ月工事日程が遅れている現状で工事担当者は全員校舎に泊り込み、昼夜兼行の工事により期日に間に合せようと意気込んでいます。
新校舎の主な内容を二、三紹介しますと、教室は三十一教室、校内は廊下も教室も、床はすべてアスタイル張りで音がしません。
便所は水洗式で最も清潔になり屋上に動物園の飼育所や植物園、気象観測の設備、校内放送設備をと、子供達の期待を満足させるべく、その構想に先生方も一生懸命。

 なお、島の先輩によりますと、「3月末に完成し3月31日に机や椅子を新校舎に運んだのですが翌4月1日に火事にあいました。」とのことです。延焼時には足場が残っていましたが、工事はほぼ予定どおりに終了したようです。


<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 まだ、半分の高さぐらいまでしかない最終校舎の工事中の光景です。

《昭和32年4月1日、新校舎、内外一部延焼》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>


写真
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 昭和32年の火災後の光景です。左側が学校校舎、正面が65号棟です。

《昭和32年4月3日時点》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 当初、端島小中学校は6階建てとのこと。ちなみに『主婦の友・昭和31年3月号』[(株)主婦の友社]には、「建築中の6階建て小中学校」の文字と「体操の時間」と題した写真が掲載されておりますが、写真には、56号棟らしき屋上で、体操をしている児童が写っています。工事でグランドが使えなかったのでしょうね?。


 <『炭の光』、第88号、昭和32年5月15日>には、「一日千秋の思いで待つ学童」がタイトルの記事があり、概ね以下の記載があります
新校舎を失つてから、早くも一月、小中学生達は災害にもめげず、辛くも焼け残った新校舎の四、五、六階の教室で勉強にはげんでいる。
予定の四月十五日に始業式を行うことは難しいのではないかと危ぶまれたが、先生達の努力によつて、予定通りに授業を始めることが出来た。
三階以下の教室の内部を全焼してしまつたので、全校二十二クラスを十七クラスに集約し、講堂をしきつて教室を作る等、苦しいやりくりの結果、どうやら授業を始めることが出来た次第だが、それでも尚教室が不足し、一部では二部授業を行つている状態である。
全教室の内部が完備されるのは、約2ヶ月程かかるとの事
発育盛りの生徒達にとつて、何より困るのは、運動場がない事である。現在、屋上で、わずかに徒手体操を行つているだけ


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 写真の題は、「新築なった端島中学校」とあります。学校南側の清水タンクや学校海岸に通じる場所も写っています。

<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 写真の題は、「新築なった端島中学校」とあります。学校屋上からは万国旗が張られているようです。
 また、写真手前には、某かの台が設けられているようです。


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