山神祭・初代?御神輿

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〔 山神祭 〕

写真《端島神社祭禮 長崎要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>

 神輿の左右にある旗には、「○に金」の紋と「端嶋神社」の文字が見えています。
 島の先輩によりますと、山神祭の時の御くだり先の写真ではないかとのことで、時代によっては、メガネ横の土俵場がその場所になっていた時もあり、「○に金」は金毘羅様の紋とのことです。ちなみに、私は、この写真の場所は南部グランドではないかと思っていますが如何でしょうか?。
 また、両サイドの旗の間の御神輿の上に垂れ幕がかかっていて、中央のご神紋は金毘羅様の紋のようですが、他にも紋がいくつか描かれているようです。
写真《左絵葉書より部分拡大》
 旗の部分を拡大しました。旗の左側には「寄進 明治四拾五年三月」の文字が書かれているようです。


写真《端島炭坑紀念日ノ祭典》  <所有絵葉書>
 左絵葉書の光景ですが、上段左の絵葉書と比べて、御神輿の周りの旗が格段に多く、こちらの写真と同様、旗には文字が書かれていないようです。
 さて、上段左の絵葉書と比べて、どちらの絵葉書が古いものかと考えますと、何の根拠もありませんが、私には、こちらの絵葉書の方が古いように思えます。
 また、絵葉書のタイトルですが、「端島炭坑紀念日ノ祭典」となっていて「山神祭」の言葉は使われていません。


写真<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 これと同じアングルの写真を、先輩のアルバムにて拝見したことがありますが、その説明には 「s30_4山神祭 長崎より龍踊りが来る」 となっていました。
 あくまでも高島の情報で、端島にはどこまで当てはまるかは不明ですが、拙ホームページの「高嶋神社祭禮日」には、祭禮日が1月15日から4月3日と変更となるまでの経緯等を、また、高島神社縁起には山神祭の始まりと思われる事項の記載もありますので、よろしかったらご覧願います。

 端島においては「山神祭」がいつ頃から始まったかについては確認できていませんが、このページ冒頭の絵葉書(おそらく昭和の始めぐらいの撮影)のタイトルは《端島神社祭禮》や《端島炭坑紀念ノ祭典》となっていて「山神祭」の言葉は昭和初期の頃にはまだ使用されていないようです。私が知り得ている範囲での端島における山神祭情報は、写真では昭和25年撮影の写真に《昭和25年撮影 山祭り》のタイトルがあって、書類では『炭の光』(第49号・昭和28年)の記事に「山神祭」の言葉がでてくるのを確認できていて、島の先輩からは、子どもの頃は山神祭は行われてなく、後年になってから行われるようになったと思うとのお話しを伺ったことがあります。
 なお、私の子どもの頃の記憶としては「山神祭」の言葉は使ったことはなく「山祭り」の言葉を使っていましたので、最近、出版される本を見て、何故、「山神祭」の言葉を使用するのかと悩んでいたところですが、『炭の光』(第64号・昭和30年)では同じ記事の中に「山神祭」と「山祭り」の両方の言葉が用いられ、島の先輩に伺いますと、最初は「山祭り」の言葉を用いていたが、後から「山神祭」の言葉を用いるようになったと思う。」とのことでした。
 また、山神際の高島と端島の呼び方の違いについてですが、<『炭の光』、第100号、昭和33年5月1日>の同じページの紙面の中に、高島は「山神社春季大会」、端島では「端島山神際」の記載がありました。

 ちなみに、祭禮日の設定については、『NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート、株式会社創元社、2015年、138頁』には、「4月3日頃の日曜をからませ、特別公休で2日連休とする。」の記載がありますので祭禮日は4月3日に固定ではなかったようです。


写真
<写真は島の先輩より>
 神社から、御神輿が出発する時の光景で、御くだり時の光景かと思います。

写真
《山神祭演芸大会》  <写真は島の先輩より>
 垂れ幕には、’69山神祭やNBCの文字が見えます。『高島町の歴史年表[高島町教育委員会(平成15年)]』には、「1898年(明治31年)から、3月15日を創業記念日に設定し、その日を初例として、三島(坑)の坑夫雇員紅白餅一重宛、場所限傭員などへは、酒肴料50銭~70銭を支給するとあります。

写真
<写真は島の先輩より>
 先代の端島小中学校校舎前での光景ではないでしょうか?。



写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 タイトルの記載はなく、端島での撮影とは言い切ることができませんが、おそらく、南部での撮影ではないかと思います。


写真

<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 子どもの御神輿でしょうか。なお、写真右側に写る建物は、左写真の建物と同じようで、護岸の形を見ると南部ではないかと思いますが如何でしょうか。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 子ども達が踊っているようです。



以下は、「炭の光(昭和33年)」の山神祭の記載からです。
四月五日は、全くの快晴に恵まれ、端島山神祭は全島をあげて終日にぎわったこと
午前十時半から、永年勤続者表彰式が昭和館で行われたこと
奉納相撲は学校々庭の特設土俵で行われ、高島からも代表選手を招待し、熱戦が展開されたこと
地区踊り町(一、三、五、七、十一、十三区、寮)の出し物は、北海道のそーらん節、会津磐梯山、佐渡おけさ(十一区)、木曾節、ひえつき節、長崎ぶらぶら節、鯨のしおふき等々で、神社下、御旅所(学校々庭)、道場前での発表であったこと
従業員慰安無料映画が昼夜二回にわたり、昭和館で上映されたこと


以下は、山神祭の光景です。
写真
<写真は島の先輩より>
写真
《S32 山神祭》
<写真は島の先輩より>
写真
《S32 山神祭》
<写真は島の先輩より>
写真
《s47山神祭 獅子舞》
<写真は島の先輩より>
写真
<写真は島の先輩より>
写真
<写真は島の先輩より>
写真
<写真は島の先輩より>
写真
《s44山神祭》
<写真は島の先輩より>
写真
《s45_4山神祭貯炭場を行くみこし》
<写真は島の先輩より>

 ちなみに、<『炭の光』、第1巻第2號、昭和21年>掲載の「端島の復興祭」の記事には「炭礦復興祭當日の端島坑は端島神社秋季大祭を執行、晝間は素人相撲大會に好角家の血を沸かせ、夜間は昭和館で素人演劇大會を開催、晝夜全島を擧げて喜びを共にした。」の記載があり、「端島神社秋季大祭」が行われていた時期もあるようです。


〔 初代?御神輿 〕

写真
<2016年>
 9月、長崎市野母崎町高浜にある「八幡神社」での光景です。

写真<2016年>
 これから、御神輿を拝殿から外にお運びし、祭りを始めようとする際の光景です。

写真<2016年>
鳥居の下をくぐっています。


写真<2016年>
 地元の方から、「文書等での記録は残っていないが、この御神輿、昔は同じ高浜村であった、端島の初代の御神輿を高浜に移したものであるとの言い伝えがある。」、「狭い端島の通路を練り歩くため、御輿を担ぐ棒が短い。」や「長崎市高島町の石炭資料館に保管されている端島の御神輿は二代目で、閉山まで使用されたものである。」との貴重なお話しを伺いました。
 この御神輿の底を拝見させていただきますと、「明治四十四年十二月吉日」とそれと対の言葉と思われる「調製所」の記載や昭和2年には修繕が行われた旨の記載がありました。


写真 初代や二代目とされる御神輿には、共通するご神紋が二種あり、一方は「梅鉢」のようですが、もう一方は何を現すご紋か分からずにいます。
 左の写真が、初代とされる御神輿の「不明」のご紋で、いろんな方々にご確認をお願いしているところですが、今のところ分からないままとなっています。「もう、分かる人はいないと思うが「桜に菊」の紋のように思える。」とお話しくださった方もいらっしゃいますし、私には「向こう山桜」の紋に似ているように思えます。
 どなたか、ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。


 

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