上層開発計画(追水卸・疎水卸)

写真全ては、高比良勝義氏(元島民)撮影  *本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

私が知り得ている、上層開発計画(追水卸・疎水卸)関係と思われる書籍情報には以下のものがあります。
  • 「端島坑の坑内外の諸設備は年産30万tの出炭能力を保持しているが,前述の通り深部区域のみでは出炭達成は不可能で,しかも,可採炭量の減少に伴い生産能力は減退する傾向にあり,この抜本的解決のため,深部以外の新区域の開発が早くから計画された。」との記載と、その区域開発の一つが上層開発計画であること。
  • 「上層群は稼行中の下層群(上位より磐砥五尺層,亀三尺層,一丈層,二尺一尺層,十二尺層,四枚層の6炭層)に対する呼称で,下層群より150~250m上位に賦存する上八尺層,A層,胡麻五尺層の3層を総称するものである。ちなみに最上位の上八尺層は端島に露頭を顕しており,明治30年までに-350m付近まで採掘している。」
  • 以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989、391頁>より
    ※上八尺層での採掘につきましては こちら もご覧ください。
  • 「将来にひびく追水工事」のタイトルで「しだいに深部にうつるに従つて、採掘がむずかしくなつたので、昭和三十一年末には、上八尺層の追水試験工事に着手し、坑外より疎水卸を開さくして、現在まで着々と進展をはかつている。」
  • 以上、<『炭の光』、第106号、昭和33年11月2日>より
  • 「昭和31年に,第四立坑坑口付近にあった旧上八尺層の沿層を取明け,疎水卸を開削して海水の浸入を大部分-35mの位置で揚水し,さらに第四立坑底(-349m)レベルよりボーリングによる水抜きを図ったが、いずれも不調に終わった。」
  • 以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、392頁>より
  • 「昭和36年(1961) 上層開発工事疎水卸を中止水没」
  • 以上、<記念アルバム”はしま"編集委員会、『”はしま" ◀閉山記念特集号▶』>より
  • 「昭和36年 1961 10.- 端島砿,上部区域終堀し,下部区域へ集約完了」
  • 以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、527頁>より

また、「黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)( https://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary )」に掲載されている
「軍艦島:防空壕トンネル」シリーズの「軍艦島:防空壕トンネル3」に記載がある「上図Nの位置。」や「上図Oの位置」のご説明は、「追水卸」と「疎水卸」の位置関係を知るうえで、大変、参考となる内容のように思います。


〔 追 水 卸 〕

《 上層開発。坑外よりの追水作業工事。追水卸。(四坑斜坑口コンクリート壁破り) s31.6 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
  こちら は昭和31年に発行された書籍に掲載されている写真ですが、追水卸はどこらあたりにあったのでしょうか?。ご存じの方がいらっしゃいましたらお教え願います。

《 中央アーチは旧斜坑。追水卸。 s31.6 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 四坑斜坑口コンクリート壁が破られて、その先には「旧斜坑口」が見えています。
 ちなみに、下段の写真に写る「旧斜坑口」よりも、こちらの写真に写る「旧斜坑口」の方が広いように思えますので、こちらの写真の方が下段の写真よりも後に撮影されたのではないかと思いますが如何でしょうか?。


《 旧斜坑の取明け。追水卸。 s31.6 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 島の先輩によりますと、昭和30年代に新たに掘ったのではなく、昔、使用していた斜坑を探し出し使用したが、その際には、既に退職していて島から離れていた方に、島に来ていただいて作業を行ったとのことでした。
 また、別の先輩によりますと、30年代の斜坑の用途は、進入した海水を揚水するためのもので、ポンプ座が設けられていて、そのポンプが故障の際には、修理を行いに斜坑に入っていたとのことでした。


写真《 四坑斜坑測量。追水卸。s32.1.26 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 かなり急な勾配の斜坑のようです。また、この部分は岩盤が丈夫なのか、以下の写真にある木枠が設けられていません。ちなみに、写真の右下部分には、バルブや配管が見えますが、排水関係の設備でしょうか?。

 なお、私には「追水卸」が何を示す言葉なのかを資料等にて確認できていませんが、 先輩のご発言 や、 こちらの出来事 での「追水」の言葉の使われ方から、「追水卸」は「揚水(排水)のための卸」を示す言葉ではないかと思いますが如何でしょうか?。


写真《 斜坑底。追水卸。 s31.1.26 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
※写真撮影日は「s31.1.26」となっていますが、他の写真の撮影日から、「s32.1.26」が撮影日である可能性もあるかと思っています。
 斜坑の部分には、ポンプ・電動機と思しき設備や配管がありますが、もしかしたら 前出のポンプ座 になるのでしょうか?。なお、他の先輩からは、「追水卸と疎水卸は、山の中で繋がっていて、疎水卸から入り追水卸から出たことがある。」とのお話しを伺っています。つきましては、先輩方のお話しではなく、あくまでも私の想像になりますが、写真手前の斜坑と思える部分が追水卸で、斜坑の先の平らと思える部分が疎水卸になり、追水卸と疎水卸の繋ぎ目部分の光景ではないかと思いますが如何でしょうか?。


〔 疎 水 卸 〕

写真《 防空壕内斜坑口。疎水卸。s32.1.26 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 分岐した右側の線路は平坦なままですが、左側の線路は下に向かっているように思えます。つきましては、先輩方のお話しではなく、あくまでも私の想像になりますが、「防空壕内斜坑口。疎水卸」のタイトルとも考え合わせると、下に向かい始める部分が元防空壕内の斜坑口で、斜坑口の先の下の部分に疎水卸が開削されていたのではないかと思いますが如何でしょうか?。もし、その思いが正しければ、疎水卸へ行くことは元防空壕内の斜坑口からもできていたようです。ちなみに、こちらの写真の左上部分にも配管が通っているようです。


写真《 疎水卸。 s32.1.26 》
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 疎水卸とありますので、 海抜-35m に位置する場所になるのではないかと思いますが如何でしょうか?。
 なお、こちらの写真の左上部分にも配管が通っていますが、配管の太さや形は上段写真に写る配管と同じように思えます。また、人の足元には配管が多数置かれていて、この後も、配管を延ばす作業を行ったのでしょうか?。


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