三ツ瀬区域・端島沖区域

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写真<写真は島の先輩より>
 <『軍艦島 端島労組解散記念史』、端島労働組合、1974>によりますと、三ツ瀬の四枚層着炭は昭和40年2月10日の出来事です。壁の掲示には「本朝」との記載がありますので、速報として掲示されたようです。

 三ツ瀬炭層発見については、<『炭の光』、特報、昭和39年9月5日>には「三ツ瀬地区の海底に石炭が最初に発見されたのは、昭和二十六年のことである。当時、東京水産大学の練習船、神鷹丸が近海一帯の海底ドレッチ調査(海底の岩石をバケツを使って採取する)を行った際、三ツ瀬沖で採掘した標本を分析した処、石炭層の岩質であることが確認されたので、更にドレッチ調査を依頼、翌年は神鷹丸のほか、北海道水産大学の練習船も海底調査に加わり、標本の採取を続けた処、遂に岩石の中に炭粉が付着しているのを発見した。(・・以後 省略・・)」の記載があり、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、696,697頁>の「表85 高島,崎戸海底探査推移表」でも、三ツ瀬との明記はありませんが、昭和26、27年に高島にて水産大学によるドレッチ調査が行われていることが書かれています。

 次いで、三ツ瀬区域・端島沖区域の開発については、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、556頁>では「端島における稼行区域は逐次深部化し,自然発火・ガス・炭塵等保守的には勿論,高温・多湿の面でも我が国炭砿の中にあって最も厳しい自然条件下にあり,操業の限界に達しつつあった。このため,将来の稼行区域として昭和28年ごろより端島沖区域に対し開発調査を実施してきた。一方この端島沖開発調査と併行して調査を開始した三ツ瀬区域については,海底露頭の確認等によりほぼその全容を把握できたので,端島沖区域の本格開発に至るまでの「つなぎ」の目的をもって急遽開発に踏切り,昭和36年4月以降本格的な坑道掘進に着手した。」の記載や、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、698頁>では「アクアラング潜水調査によって,端島砿の南側にある南部断層と称する南上がりの大断層先の三ツ瀬区域において炭層賦存を確認し,昭和36年より端島坑内から探査坑道を掘鑿して予想どおり着炭し,40年11月から本格的に出炭を開始した。」との記載があり、<山本ほか、「高島炭田三ツ瀬および端島沖海域の探査」、鉱山地質、第17巻第84号別刷、1967年、35・36・39頁>には以下の記載もあります。
  • 三ツ瀬区域の開発については海底調査と平行して検討を進めていたが,地質構造や炭層状態目処もほぼついたので36年から-350mの四坑底レベルでいよいよ本連2本の探炭坑道の掘さくに着手した.
  • 39年8月端島礦深部9片で変災(自然発火)が発生し 注水後水没 によつて深部採掘区域を放棄せざるを得なくなり、その代わりとして三ツ瀬区域の開発は急進を迫られ、全力をあげて掘さくを急いだ結果、40年2月に零片零目貫で着炭し、直ちに採掘坑道の展開を行い10月から出炭を開始した.
    <注・管理人記載:資料には「同年」とありますが「39年」に変更しています。>
  • 端島沖断層先区域への探炭は40年10月から二坑底-606mレベルで本連2本の坑道の掘さくを開始し,やがて端島沖断層を突破し,約1,200mで43年度に着炭予定である.
  • 本海域の調査には約12年にわたる年月と1億円余におよぶ調査費を要したが,諸調査法のすべてが当時にあっては本邦でほとんど初めての試みであり,それだけに多くの障害を克服しなければならなかった.


 なお、両区域のその後ですが、三ツ瀬区域は 「安全に採掘しうる炭量が枯渇して砿命が尽きたと判断」 されるまで採掘が続きますが、残念ながら端島沖区域は 開発中止 となります。


 三ツ瀬区域の採炭方法等については、<加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、211頁>に昭和40年のこととして「9月13日から盤砥5尺層上段払で全面ピック採炭が開始され、9月20日から端島としてははじめての機械化ドラムカッターによる採炭が稼働しました。」の記載があり、<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント株式会社、1989、440頁>では「炭層傾斜が比較的穏やかである(10~45°)」とし「 油圧鉄柱・カッペ(長さ1.2m)・ドラムカッター(固定式スパイラルドラム;切取幅1.2m) による端島砿としては初の機械化採炭を実施した。ただし,フィールド右翼の急傾斜部分(35~45°)では斜面払として,発破・ピック採炭を行なった。」の記載(三ツ瀬区域の炭層傾斜等については こちら もご覧ください。)があり、採炭箇所によっては端島砿初の機械化採炭が実施となります。

 機械化の効果でしょうか、<山本ほか、「高島炭田三ツ瀬および端島沖海域の探査」、鉱山地質、第17巻第84号別刷、1967年、36頁>には「三ツ瀬区域の採掘は40年10月,零片の磐砥五尺層から開始し, ヘリカルドラムカッター を使用,無充塡総ばらしの2段スライシング払いで,41年12月末までの出炭累計は52万t,同月の出炭は35,000t,能率は56tである.」の記載があります。あくまでも単純計算ではありますが、40年10月~41年12月末(15ケ月)の出炭累計52万tを1年(12ケ月)単位に換算しますと約416,000tで、月産35,000tが仮に12ケ月続けて出炭できた場合は420,000tとなって、端島砿における年度(年間)の最高出炭量である昭和16年度の411,100tを超える数値となります。また、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、446頁>には「昭和47年3月には切羽が好調で,月産3万2,837t,能率64.5t/人・月と開坑以来の最高を達成した。」との記載があり、開坑以来の最高の内容について確認しましたところ、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、488・489頁>の「2.出炭・人員・能率-(2)」において「能率(t/人月)」の項目が昭和47年頃に端島砿最高の状態となっていて、更には三ツ瀬区域採掘時の石炭は 熱量八千カロリー を超えたこともあり、三ツ瀬区域は量・能率・質ともに最高の区域だったようです。
 ちなみに、端島で作製された記念品の一つに、作製時期や目的を知り得ていない飾り皿がありますが、飾り皿には「三万屯出炭記念高島砿業所端島砿」とあり、管理人としては三瀬区域における出炭量記念の品ではないかと思いますがいかがでしょうか?。ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。


<参考外部サイト>

https://doi.org/10.11456/shigenchishitsu1951.17.84_200
   高島炭田三ツ瀬および端島沖海域の探査

※英文のページが表示されますので、必要に応じ日本語のページを表示ください。
軍艦島デジタルミュージアム > 元島民コラム > 田中 實夫「随筆 私の端島」

https://www.gunkanjima-museum.jp/data/937/detail/

戦後最高の月間出炭記録など三ツ瀬区域について詳しい説明があります。

軍艦島デジタルミュージアム > 元島民コラム > 松浦 邦雄「軍艦島と私」

https://www.gunkanjima-museum.jp/data/173/detail/

機械化採炭情報など三ツ瀬区域について詳しい説明があります。

軍艦島デジタルミュージアム > スタッフブログ > 気になっていたことが分りました!!

https://www.gunkanjima-museum.jp/data/936/detail/

出炭に関する記念写真掲載など三ツ瀬区域について詳しい説明があります。


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