野母商船等の2

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 ピンチヒッター等 〕

 二代目つや丸・せい丸のドック(小曽根?の造船所で実施)時には、「第八平戸口丸」、「ひらど」、「第○○平戸口丸」(残念ながら○○の数字を思い出すことができません。もしかしたら十八?。ちなみに、同船かどうかは不明ですが、<『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、100頁>の「(3) 長崎県旅客定期航路一覧表 (県北地区)」には「経営者 平戸口運輸(株)、航路名 南田平-平戸、船名 第18平戸口丸、屯数 88.34、定員 250、速力 10.5、船齢 2、航行距離Km 3.5」の記載があります。)が代船として応援に来ていました。
 また、非常に希だと思いますが、突発の故障等で、前記の船が間に合わない?時は、神の島や伊王島航路時代の長崎汽船船舶(当時の長崎汽船と野母商船は全くの別会社で長崎汽船船舶は端島や高島には来ていませんでした。昭和51年に高島商船と長崎汽船が合併し、長崎汽船として新発足した後に伊王島経由の高島行ができたようです。)が応援に来た時もありました。端島は船の2階から乗り降りするための特殊な構造が必要であったのに、長崎汽船の船舶も端島用の構造を有していました。(但し、どの船が来たのかは覚えてなく、2階の特殊な構造も応急的なものだったのかも知れません。)
 ちなみに、ドック時の代船としては、昭和40年代前半は「第八平戸口丸」、後半は「ひらど」がメインだったように思います。


《 ひらど 》

写真《昭和44年秋の長崎国体時にご臨席中の、皇太子殿下・同妃殿下(平成天皇陛下・皇后陛下)が特別船「ひらど」で端島を視察された。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 2階の船首部分にあった特別室を使用され、その後、特別室は使用されることはありませんでした。
 なお、この時の情報を<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、164頁>から抜粋しますと、昭和44年9月8日に巡視され野母崎町に向かわれた旨の記載がありました。


写真《皇太子ご夫妻を一目見ようと岸壁は人と日の丸の波で埋まった。》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 端島のドルフィン桟橋上の光景が写っていますが、当時の小学生は山道から旗を振りました。私にも僅かながら記憶が残っています。


写真《総トン数189トン、昭和44年建造、佐世保の鹿子前から平戸まで行く観光船、昭和50年2月平戸港にて》
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数396>には、「ひらど、徳信(公団共有)、総トン数189G/T、全長36.0×垂線間長32.0×型巾6.4×型深2.7、主機最大出力D400PS×2、航海速力13.0kt、旅客定員339名、乗用車搭載台数4、建造年1969年、建造所:向井造船所、平戸~鹿子前」の各種データと「1988.5月にコバルトクィーン姉妹が竣工。本船は団体用に回されるとの事。」の記載があります。ちなみに、本船後尾の甲板には車が積載可能で、方向転換用のターンテーブル?が設けられていました。
 また、『高島町の歴史年表』高島町教育委員会(平成15年)によりますと、「ひらど」は、その後、映画「空海」用に建造された遣唐船を上部に艤装して、平戸の観光船「ぐしき」に改造されるとありますが、『森田裕一、日本客船総覧、先川印刷(株)、1989年、頁数398』には、「ぐしき」の説明に、「もと長崎汽船の「さちかぜ」を映画「空海」撮影用に改造、1984.6月から平戸と田平を結ぶ観光船として就航。しかし、利用客減少の為、1985.12月から休航し、そのまま航路廃止。  ・・(途中略)・・  1988.7月にも係船を確認。」との記載があります。もしかしたら、後日、「ひらど」の上部に艤装されていたものは、その昔、「さちかぜ」の上部にあったものではないかと思います。


《 第二十小富士丸 》

写真《総トン数156トン、昭和38年建造。神の島地区と深堀を結ぶ通勤船。乗客定員432名で昭和49年3月の撮影。》
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 この船は、高島・端島には来た覚えはありませんが、野母商船の船だったと思いますので掲載しました。また、同じように高島・端島には来た覚えはありませんが第七長水丸がありました。<森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数397>には、「第七長水丸、徳信(Ow:野母商船)、総トン数207G/T、全長36.7×垂線間長33.0×型巾6.6×型深3.0、主機最大出力D800PS、航海速力13.0kt、旅客定員404名、建造年1961年、建造所:神田造船所、平戸~鹿子前」の各種データと「もと南国交通→野母商船  ・・(途中略)・・  今は予備船的な存在で、団体専用船として就航している。」の記載があります。


〔 長崎汽船船舶 〕

写真《あさかぜ》
総トン数123トン、昭和39年建造で乗客定員256名
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数397>には、「あさかぜ、徳信、総トン数123G/T、全長27.8×垂線間長25.0×型巾5.9×型深2.4、主機最大出力D350PS、航海速力10.0kt、旅客定員250名、、建造年1963年、建造所:宇品造船、もと長崎汽船」の各種データが記載されていますが、長崎汽船は、昭和51年3月に野母商船株式会社の関連会社である高島商船株式会社と合併していますので、このような記載となっているかと思います。
 ちなみに、『日本客船総覧』には、「あさかぜ」、「さちかぜ」、「第二ながさき」が紹介されていますが、当時の長崎汽船には、他に「はやぶさ丸」もあったかと思います。この写真の「あさかぜ」の後ろの船も、塗装から長崎汽船のものと思われますが、今回掲載の長崎汽船各船舶とは船首のマークが違う(Nの文字が○で囲まれていない)ようで、もしかしたら「はやぶさ丸」?と思いますが如何でしょうか。(船首の形を見ますと「さちかぜ」のような気もしますが・・・)
 ちなみに、長崎新聞(昭和41年12月6日付け)には、はやぶさ丸を紹介している記事が掲載されていますが、そこには、「長崎を起点に木鉢-小瀬戸-神ノ浦-伊王島間を、毎日、”さちかぜ”など四隻の配船で二十三回往復している。 ・・(途中略)・・ 長崎汽船の所属で、総トン数は九八トン、機関はディーゼル三百五十馬力のエンジン。乗り組み員は六人、 ・・(途中略)・・ 定員は二百人。昭和四十年四月の進水で、これから働きざかりの新船。」との記載があります。


写真《さちかぜ》
総トン数126トン、昭和47年建造で乗客定員350名
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数398>の「ぐしき」の説明には、「もと長崎汽船の「さちかぜ」を映画「空海」撮影用に改造、1984.6月から平戸と田平を結ぶ観光船として就航。しかし、利用客減少の為、1985.12月から休航し、そのまま航路廃止。  ・・(途中略)・・  1988.7月にも係船を確認。」との記載があります。
 また、こちらの本には、進水月日でしょうか、1959年らしき日付の記載があり、前出の長崎新聞記事の記載内容や<『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、97頁>の「(3) 長崎県旅客定期航路一覧表 (県南地区) (昭和36. 8. 1 現在)」にある「経営者 長崎汽船(株)、航路名 長崎~伊王島、船名 さちかぜ外3隻、屯数 126.44計328.90、定員 350計892、速力 10、船齢 2、航行距離km 10、1日運行回数 17」の記載から、「さちかぜ」は昭和34年の建造だと思われます。
 なお、「さちかぜ」の情報ではありませんが、昭和30年代の終わりか、40年代の始めぐらいには、長崎汽船に一隻の木造船舶があり、その船の二階の屋根の上には「お猿さん」が紐に繋がれて飼われていたように覚えています。


写真《第二ながさき》
総トン数181トン、昭和47年
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数413>には、「第二ながさき、長崎汽船(公団共有)、総トン数169G/T、全長32.2×垂線間長29.0×型巾6.6×型深2.6、主機最大出力D750PS、航海速力11.5kt、旅客定員405名、、建造年1972年、建造所:向井造船所、長崎~山伏~陰の尾~長浜、長崎~各港~遠見、長崎~伊王島~高島、長崎港内」の各種データと「港内遊覧船として活躍するが、港内定期船や高島航路に入る事もある。」の記載があります。当時の「せい丸」、「つや丸」及び他の長崎汽船船舶よりも一回り大きな船だったように思います。


戻る

連絡船・桟橋へ

TOP

次へ