高島 島姿・立坑規模

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〔 地 形 図 等 〕

写真
《 詳細不詳図 》  <所有資料>
 ひょんなことから入手できた資料(写図)です。高島の名称はありませんが、私としては島の形から高島の図ではないかと思っていて、複数の機関に内容確認をお願いいたしましたところ、悪い結果といい結果が混在しているところです。(島の形については下段の図と比較してみてください。)
本来、図の左端が上部として作成された資料ですが、以下の古地図や図面と比較しやすいように資料を回転させています。


写真
<「国土地理院」旧版地図(縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34))を加工して作成>
 明治34年測量地図からの部分拡大です。大きな島が高島で、高島の左側に上二子島と下二子島、右側に飛島があります。この頃の高島ですが、島の中段や下段部分には構造物と思われる地図記号が数多く描かれていますが、上段部分では見受けられません。


《 詳細不詳図 》について、特徴や気づいた点を以下に記載します。
  • 凡例の箇所には、「全島ノ線」・「炭坑ノ線」・「人民居住地」・「工部省御用地」・「屋敷地破裂」・「畑地破裂」・「岩石崩墜」・「水道渇水ノ跡」の項目が、全て黒色の文字で記載されています。
  • 黒色の実線が「全島ノ線」で島の範囲を示していて、その形は高島と二子島の間が埋め立てられる前の形です。
  • 朱書き実線が「炭坑ノ線」で炭坑の範囲を示しています。
  • 黒色の点線が「人民居住地」の範囲を示していて、人民居住地の範囲の中には黒色で「居住宅地」の記載があります。
  • 朱色の点線が「工部省御用地」の範囲を示していて、北渓井坑・南洋井坑や「小島」中央のグラバー別邸があったと思われる部分の3箇所が工部省御用地となっています。なお、北渓井坑や南洋井坑があったと思われる部分には、それぞれ黒色で「坑口」との記載があり、朱書き二重線の四角形で囲まれています。
  • 「屋敷地破裂」・「畑地破裂」・「岩石崩墜」・「水道渇水ノ跡」の記号は、カタカナ(「イ」~「ロ」)を○で囲み朱書きにて記載されています。
  • 「工部省御用地」の記載から明治7年の高島の状況を示した図かとも思いましたが、海岸付近の「石垣」の絵と文字のすぐ脇には朱書きにて「此石垣ハ目今海中入ル」との記載がありますので、《 詳細不詳図 》は、明治7年の状況と後日の情報とを合わせて作成された図の写図ではないかと思っています。
  • 現在、「日吉丘」と呼ばれている地点の海辺には黒色で「網干場」の記載がありますが、その言葉は昭和40年ごろも使用されていたように思います。ちなみに、こちらにも朱書きにて「此辺當今ハ皆海中へ□」と思しき記載があります。(最後の□は不明な文字を示しているのではないかと思います。)
  • 島の中には、何箇所か黒色で「水」と書かれた地点がありますが、「水」のすぐ脇には「水道渇水ノ跡」の記号が朱書きにて書かれていて、こちらも新旧比較の情報のように思われます。
  • 資料の大きさはA3よりも少し小さい程度となっています。


 ちなみに、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、113頁>には「海辺は坑業が全島に及ぶに從って海中に陥没,水源が明治14~15年にすべて枯れてきた。」や「村内涸水或ハ地盤破壊」の記載があることから、あくまでも私の想像ではありますが、 《 詳細不詳図 》 は明治10年代頃に発生した「屋敷地破裂、畑地破裂、岩石崩墜、水道渇水ノ跡、海中陥没」の情報と比較のために明治7年の状況とを合わせて作成された図の写図ではないかと思いますがいかがでしょうか?。


写真
《第五課事務簿 鉱山ノ部》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 「明治三十年自一月至四月 第五課事務簿 鑛山之部」に収納されている「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治廿九年十二月廿四日)の実測図(石炭鑛區實則圖 長﨑縣肥前國西彼杵郡高島村大字高島全地)で、二子島及び飛島々地を取得(増区)する時の書類のようです。


写真
《第五課事務簿 鉱山ノ部(部分)》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 高島本島部分を拡大しました。私としましては、《 詳細不詳図 》と島の形がほぼ同じではないかと思いますが如何でしょうか?。ちなみに、図面上の坑口としては、中山坑口、百萬﨑坑口、それとはっきりとは読み取れませんでしたが百萬﨑風埃坑口らしき記載があるようです。


写真
<「内務省地理調査所発行」長崎縣肥前國西彼杵郡肥前高島(五万分一地形圖 野母崎一號(共五面))を加工して作成>
 高島は地形図の端に位置しているので、島全体は描かれていませんが、地図をよくよく見ますと、高島と二子島が築堤で結ばれている頃の姿のようです。
 ちなみに、地図には、「明治三十四年測圖大正十三年修正測圖」との記載があります。

写真《高島礦業所採掘区域及炭層柱状態図》
<出典:高島礦業所概要(大正15年10月)>
 高島と二子島が築堤で結ばれています。なお、高島と小島は、まだ、陸続きにはなっていないようです。


写真
< 国土交通省「空中写真」(整理番号USA、コース番号M185、写真番号37、撮影年:1947(昭22))を加工して作成>
 部分拡大図です。高島と二子島も完全に陸続きとなっていますが、まだ、高島港の堤防はできていないようです。また、蛎瀬街道左側の瀬や石炭積込桟橋もその形が気になります。ちなみに、写真右下の陰は地図に書かれた矢印です。


写真
《石炭資料館所蔵図面》
  <長崎市高島石炭資料館蔵>

 昭和23年11月7日発行の「現勢要覧(西彼杵郡高島町)」に掲載されている「高島全町図」です。
 昭和20~30年代にかけて、中山~蛎瀬間には坑外電車が運行されていましたが、図を見ますと線路らしき物は百万まで延びていて、蛎瀬からの途中では光町付近にて分岐し、二子とも繋がっているようです。また、二子には、双子島表海岸発着場があるようです。
 あと、高島と小島の間は、まだ、繋がっていないように思えます。
 ちなみに、地図に印刷された、当時の高島神社や町役場等の場所情報以外にも、手書きによる地名情報等もあります。


〔 高 島 全 景 〕

写真
《長崎港外三菱高嶋炭坑(全景)》  <所有絵葉書>
 高嶋本島以外にも上二子島・下二子島が写っているよう?なので全景として紹介してあるのでしょうか。ちなみに、写真左から、中ノ島、端島、下二子島、上二子島、高島、飛島の姿と思います。


写真
<2007年撮影>
 上段絵葉書の撮影から何年後の姿でしょうか。下二子島、上二子島、高島は埋立により陸続きになっております。また、高島本島と二子の間には、大きな建物が見えます。


〔 高 島 本 島 〕

写真
《長崎港外三菱高嶋炭坑(高嶋)》  <所有絵葉書>
 上段の光景と違い、こちらは、高嶋本島のみです。ちなみに、写真左端の小山は赤山と呼ばれてた場所かと思いますが、私が知っている赤山はもっと小さかったと思います。

写真左絵葉書の中央部分を拡大してみました。


写真《グラバー資料アルバムより》
  <収蔵: 長崎歴史文化博物館>

 左上絵葉書の左部分に相当する場所の拡大版になるかと思います。
 写真の中央部分ですが、護岸が整備され、また、護岸の少し上の方には、海岸線に沿って、平地が細長く存在しているようです。明治36年に運搬開始したとされる、坑外エンドレス車道ではないか思いますが如何でしょうか?。


写真《タイトル不明  グラバー写真帳より
  <写真は長崎県立長崎図書館所蔵、二次利用禁止です。>

 仲山・尾浜・百間あたりと思います。この付近の炭坑関連情報としては、<『長崎縣紀要』、第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎縣協賛會、明治40年、132~134頁>に以下の事項が記載されています。なお、□は私が判読できなかった文字です。
  • 「明治四年、十八尺炭層採掘の目的を以て別に深さ百三十八尺の堅坑を字小濱に開鑿す。是に於て甲を北渓井坑、乙を南洋井坑と稱せり。」
  • 「明治九年胡麻五尺炭層採掘の爲め更に横坑を字小濱に開鑿す。時に北渓井坑は潮水浸入の爲め採掘を繼續すること能はず猶巨額の炭量を貽し終に廢坑するの止むを得ざるに至りしを以て南洋井坑を改めて第一坑、新横坑を第二坑と稱するに至れり。」
  • 「明治二十二年に至り又字中山及百間の二ケ處に横坑を新開せり。」
  • 「第二坑は明治二十三年に、第一坑は明治二十五年に□れも採掘を終了せしを以て更めて中山坑を第一坑、百間坑を第二坑と稱せり。」
  • 第二坑のこととして「明治三十二年十月を以て廢坑に歸し」
  • 第一坑のこととして「明治三十八年六月十九日を以て本坑の採炭を終結せり。」


写真《長崎港外髙嶋村ノ漁船  昭和七年七月拾壹日長崎要塞司令部検閲済
  <所有絵葉書>

 おそらくは、本町(村)付近の光景かと思いますが如何でしょうか。


〔 二 子 島 〕

写真《 高島全景 》
<出典:長崎縣紀要(第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎縣協賛會・明治四十年)(所有資料)>
 写真に写る高島の左端には蛎瀬立坑櫓や煙が出ている煙突が見えているようですが、 下段〔立坑規模〕 の蛎瀬第一・二立坑を参照しますと、掘削完了年月は明治34年となっていますので、撮影時期は早くて大正30年代中頃で、出典元の発行年から遅くとも大正40年までに撮影された写真ではないかと思っています。


写真
《長崎港外高島炭坑全景》  <所有絵葉書>
 アングル的には上段写真よりも右側の部分も写っていますが、上段写真と同じ範囲は同一の光景のようで、私としては上段写真と同時期に撮影された写真を用いた絵葉書ではないかと思っています。ちなみに、こちらの絵葉書では高島の手前にある細長い瀬の右端に、上段写真には写っていない山のような場所があり、その場所は上二子島の姿ではないかと思いますが如何でしょうか?。その理由としましては、下図においての上二子島も高島の手前に位置していて、細長い瀬の右側に山の部分があることです。もし、その思いが正しければ、左絵葉書の山のような場所の手前にも海がありますので、左写真は下二子島からの撮影になるかと思います。

写真
<「国土地理院」旧版地図(縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34))を加工して作成>
 明治34年測量地図からの部分拡大ですが、上から、高島、上二子島、下二子島の順に並んでいて、まだ、大きな一つの島になっていない頃の図になります。
 ちなみに、上段の写真《高島全景》や絵葉書《長崎港外高島炭坑全景》に写る高島の手前にある瀬やその周辺は、こちらの図において黄色の線で囲んだ部分ぐらいの場所になるかと思いますが如何でしょうか?。


〔 立 坑 規 模 〕

写真
  <「三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集 『三菱鉱業社史』 三菱鉱業セメント株式会社(昭和51年)」p.712,713より>
 北渓井坑の掘鑿完了から南洋井坑の掘鑿開始まで、あまり時間がないようです。


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