二 子 坑

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 開坑前 及び 開坑直後 〕

 「借区試掘開坑願指令本紙 明治8年」<長崎歴史文化博物館蔵>には、「私儀長嵜縣管下肥前国彼杵郡高濱村字中之嶌并二子嶌ニ於テ石炭坑発見致候ニ付別紙圖面場所官有地五千坪借區開坑被差許度此段奉願候以上」と書かれている「借區開坑願」がありますが、申請者は「長﨑縣管下肥前国彼杵郡深堀村住士族 峯眞興」で日付は明治八年となっています。また、別紙図面を確認しますと、官有地二千五百坪の島が二つ書かれていますので、中之嶌、二子嶌、それぞれ二千五百坪での申請がなされたようです。

〇その後の開坑直後までの大まかな炭坑関係記録を以下に記載します。

明治9年峰真興は英人ガヴァーを雇入れ、金剛試錐を試行(錐孔72mに達するも機械故障のため中止)※1 55頁
日本最初の金剛試錐73m(240尺)を実施したが,めぼしい炭層は見付からなかった※2 209頁
明治17年二子島借区は,中ノ島とともに三菱に払下げられた※2 209頁
中ノ島(西彼杵郡高浜村)・二子島(同郡高島村)は大蔵省の公開入札の結果,9月8日,岩崎彌之助代理山脇正勝名で5万円で落札※2 115頁
明治19年いったん,仮坑区券を返上した※2 209頁
明治26年中ノ島炭坑の廃坑届出と,改めて中ノ島全島試掘を申請しているので,この時二子島も同時に鉱区申請したものと思われる※2 209頁
※3
明治29年12月24日 「増區ニ係ル鑛區訂正願」提出 (二子島及び飛島々地を取得(増区)する時の書類のようです。)
明治38年4月6日 高島炭坑鑛業用地トシテ二子島全島地域山林原野合計参町五段貳畝歩ヲ島久能及高島村ヨリ譲渡ヲ受ク、島久能所有山林壹町四段参畝歩ニ対シテハ高島炭坑事業終了ノ後ニ至リ不用ニ帰スル場合ニ於テ原形ノ儘無償返戻ノ条件ヲ以テ無代価ニテ譲渡ヲ受ケ、其報酬トシテ金貳千百圓ヲ贈與ス、高島村所有原野貳町九畝ニ対シテハ無代價ニテ譲渡ヲ受ケ、同村基本金トシテ金壹千圓及村役場用トシテ見積價格金参百五拾圓ノ家屋一棟ヲ寄附ス※4 779頁
5月6日 高島炭坑事業擴張ノ目的ヲ以テ高島二子島間海面封鎖埋立及兩二子島周圍海岸埋築ヲ計畫シ、工事着手ニ際シ村会ノ決議ヲ経テ村民一致ノ承諾ヲ得、村内関係漁業組合及船持ニ対シ将来ニ於ケル漁業被害補償料トシテ金参千五百圓ヲ贈與ス※4 787頁
明治40年2月5日 高島炭坑二子島開坑第一期工事豫算ヲ調製シ、工事ニ着手ス、豫算工費總額金參拾七萬五千四百圓※5 951頁
4月 石垣築造,運搬路築造,仮事務所建設等の開坑準備工事に着手※2 208頁
7月12日 開坑式を挙行※2 208頁
7月 13日より第一斜坑,23日に第二斜坑の開削に着手※2 208頁
大正2年1月26日 第一水平坑道は859m(2,835尺)で,中ノ島上八尺層の下層である十八尺層に,着炭した※2 261頁
2月3日 第ニ水平坑道は855m(2,821尺)で,中ノ島上八尺層の下層である十八尺層に,着炭した※2 261頁

※1<前川雅夫、『炭坑誌-長崎県石炭史年表』、葦書房、1990>
※2<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989>
※3明治26年にも鉱区申請を行っているのかも分かりませんが、「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治廿九年十二月廿四日)でも、二子島及び飛島々地の取得(増区)申請が行われているようです。
※4<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊>
※5<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十一』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊>


 なお、斜坑の規模等としましては、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、210頁>に「坑口は海岸に近接するため,防水を目的に,坑口周囲海岸に高さ4.5m(15尺)の天川石垣を築き,第一斜坑は坑口より約16m(9間),第二斜坑は坑口から36m(20間)まで煉瓦壁を築造し,壁裏にはコンクリートを充填した。
 斜坑の大きさは,天井幅3.0m(10尺),敷幅4.2m(14尺),高さ2.4m(8尺)で,支保は木枠であった。両斜坑は24m(80尺)隔たっており,延長73m(40間)ごとに目貫を以て両斜坑を連絡し,坑口より数えて偶数番の目貫に溜水池(ボクと呼んだ)を掘りポンプ座とする。通気は第一斜坑を入気とし,第二斜坑に蒸気管を通して,その放熱により通気力を起こして排気とする,自然通気であった。斜坑の傾斜は,異種岩層通過の際,往々にして遭遇する出水の難を避けるため,坑道方向における岩石の傾斜に合わせて25°とした。」との記載があります。


写真《二子から光町を見る》 <写真は、「昭和51年版町勢要覧高島町」(高島町発行)より>
 写真左奥に写る大きな島が高島で、右側中段の島が上二子島、そして左下の島が下二子島です。
 上二子島と下二子島の間は、連絡橋のような物で結ばれ、また、両二子島の周囲には護岸ができているようです。<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、p.208>には「明治40年4月に石垣築造,運搬路築造,仮事務所建設等の開坑準備工事に着手」とありますので、写真の光景は明治40年頃のものかと思いますが如何でしょうか?。


写真《高島炭鉱模型》  <グラバー園設置>
 左(高島)側の小高い部分が上二子島で、右側の小高い部分が下二子島になりますが、模型の説明には「原作は明治42年作」との記載があります。

写真
<出典:長崎県千名鑑(九州日の出新聞社・大正元年発行)>
 下二子島には煙突や建物の姿が見えますが、上二子島の高島側には、まだ、建物等の姿は見えないようです。


写真《二子地区》
<写真は、「町勢要覧昭和48年4月(昭和48年たかしま)」(高島町発行)より、許可を得て掲載>
 長崎大学の「幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース」において、開坑間もない頃と思われる写真が高島二子島炭鉱前景のタイトルで紹介されていますが、建物の数等を比べると、「高島二子島炭鉱前景」よりもこちらの写真が、若干、後年の撮影と思います。
 なお、写真左側には、石炭積込桟橋らしき設備が見えていますが、「大阪朝日新聞」(大正5年4月11日発行 第12,290号 )の「九州版」に掲載の「高島炭礦」の紹介記事には「船積桟橋は高島と二子に各一基」の記載があります。


写真
《高島礦業所採掘区域及炭層柱状態図》
  <出典:高島礦業所概要[大正15年10月]>

 図面右端の二子島から、図面左端の中ノ島直下の炭層に向かって坑道が延びています。
 なお、中ノ島には舊坑の記載があって、<『三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、209頁>には「二子坑は,明治26年水没により廃坑となった中ノ島炭坑の稼行炭層,上八尺層の下に,空しく包蔵されている十八尺層他の各炭層を採掘することを主眼として開坑した。」との記載があります。


《社内炭砿における長大斜坑》
炭砿名
斜坑名
長さ(m)
大きさ
傾斜(度)
掘鑿開始年月
掘鑿完了年月
巻上機
出力(HP)
用  途
高 島
第一斜坑
870有効断面 10㎡
25
明治40年7月
大正2年1月
800石炭搬出,入気
第二斜坑
870  〃    10㎡
25
 〃  2月
800    〃
  <三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、708頁>より

開坑時の通気方式は第一斜坑が入気で第二斜坑は排気となっていて、上記表における第一・二斜坑の両坑とも入気の記載とは相違がありますが、この違いについては蛎瀬坑との関係があり、 こちら をご欄いただければと思います。ちなみに、通気の変更時に、第二斜坑も揚炭用に切替えられたようです。


〔 高島と二子島間の埋立関係 〕

参考情報
  • 従来,高島と二子島間は船で連絡しており,海が荒れると二子坑に勤務する高島の居住者は難渋したため,二子坑開坑当初から,堤防あるいは吊橋による両島間海峡連絡工事が検討された。その後,堤防により両島を結ぶことに決定,大正7年3月に着工し,2年余の歳月をかけて9年7月に落成,開通式を挙行した。
    <三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、267頁>より
  • 高島と二子島との間は以前から坑内から上って来る硬で埋め立てられて居て、私が居た間に通路が完成した。
    <興梠友兼著、「忘れ得ぬ其日」、『石炭研究資料叢書』(九州大学 記録資料館 産業経済資料部門)、第27輯、2006年3月、38頁>より 大正8年から満3ケ年間高島にて生活された著者のご経験を記載
  • 大正14年7月、築堤と埋立てによって両島は完全に接続し、それまでの不便が解消された。
    <『三菱高島砿業所 百年のあゆみ』、三菱石炭鉱業株式会社高島砿業所、昭和56年4月、3・4頁>より
  • 役場の位置
     藩政時代には本村なる島氏の宅に於いて村政業務を司りしが、明治22年町村制実施の際三軒家町に設け、其後炭坑発展の為め二子島に移住する者多き為め、大正元年8月12日中央なる現在の字尾濱二千百三番地に移轉し現在に至る。
    <『現勢要覧』、西彼杵郡高島町、昭和23年11月7日、5・6頁>より
     その後は、尾濱から光町、光町から現在地と移転するようです。


写真《高島炭坑ゑはかき 中(下双子より双子高嶋を望む)》
  <昔の絵葉書より  九州大学 記録資料館所蔵>

 二子島と高島本島との連絡用築堤は完成してなく、工事が始まった頃の光景の絵葉書と思われます。そうしますと、 「参考情報の1」 から大正7年から大正9年にかけての光景になるようです。
 なお、<日下部義太郎、『相知、高島の二十年』、石炭時報、第三巻第十一号、昭和三年十一月、三五頁>には、大正二年に高島炭坑に転じ、大正七年の三菱鑛業株式會社創立時に本社の採炭課長となられる日下部義太郎氏が「高島在勤中には、防波石垣を鐵筋「コンクリート」に改め、二子島と高島本島の間の連絡の大工事を起こして一新生面を開いたこと」が記載されています。


写真《高嶋炭坑ゑはかき》  <昔の絵葉書より  所蔵: 九州大学 記録資料館>
 2枚組写真による絵葉書で、右側写真のタイトルは「連絡工事中より見た双子嶋」です。上二子島と下二子島は一つの島(二子島)になっており、その二子島と高島本島の間に築堤が造られていて、もう少しの距離で結ばれようとしています。なお、左下写真には小島が写っています。


写真《 (長崎港外)双子島全景 All-view of Futaojima, Nagasaki. 》
<所有絵葉書>

 二子島と高島本島が築堤で結ばれている光景です。
 上二子島と下二子島の間には多くの建物がありますが、上二子島の高島側(こちら側)には建物はありません。上段写真にて当該箇所を見ますとまだ埋め立てられてませんので、こちらの写真では高島本島に向かって埋め立てが始まった頃の光景になるのでしょうか?。


写真《怒涛風景》  <所有絵葉書>
 絵葉書には「怒涛風景」とあるのみで、他の情報はありませんが二子島と荒れ狂う海の光景ではないでしょうか。誤報の節はお許し願います。


写真《 (長崎港外)高島双子連絡橋ノ飛波 The Pier of Futago Takashima, Nagasaki. 》  <所有絵葉書>
 かなりの厚みがある築堤のようです。ちなみに、上二子左側の中腹部分には建物が見えていますが 「上二子幹部社宅(山の上)」 と思われます。


写真《長崎港外三菱高島礦業所 二子坑 (全景)》  <所有絵葉書>
 高島本島と二子島間の築堤が完成していますが、その後、右下写真のとおり、この築堤の左側?にもう1本の築堤が設けられます。着々と、高島本島と二子島間の埋め立てに向けて時間が進んでいるようです。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 完成した築堤の野母半島側に、もう1本の築堤が見えますが、まだ完成はしていないようで、築堤の中央部分には橋?が架けられているように思えます。また、左右から埋め立てが進められているようです。


写真《長崎港外三菱高島礦業所 (二子ヨリ高島ヲ望ム之景)》  <所有絵葉書>
 上二子から、高島本島を望む光景です。
 撮影の時期は不明ですが、 「参考情報の2」 から大正末期以降の光景となるようです。


写真
「 《長崎港外三菱高島礦業所 (二子ヨリ高島ヲ望ム之景)》  <所有絵葉書>の部分拡大
 上段絵葉書の左下部分を拡大してみました。よく見ると、炭車らしき姿が見えていますが、まだ、ボタを積んで、埋立作業は継続していたのでしょうか?。


写真《三菱高島礦業所 二子坑全景》  <所有絵葉書>
 上段絵葉書の《長崎港外三菱高島礦業所 (二子ヨリ高島ヲ望ム之景)》とは反対側の光景です。整地はまだのようですが、二子島と高島本島間の埋め立ては完了しているようです。
 上段絵葉書とは、どちらが先の光景になるのでしょうか?。


写真《長崎港外髙嶋ヨリ双子島裏全景ヲ望ム
  昭和七年七月拾壹日長崎要塞司令部検閲済》  <所有絵葉書>

 撮影時期および撮影方向は上段の絵葉書とほぼ同じかと思いますが、相違点としてはこちらの絵葉書の中段右側に写るかなり大きな建物が、上段絵葉書では見えていません。なお、現在の光町に相当するかなりの部分は、まだ、埋め立てられていないようです。


写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 二子島と高島が陸続きとなっています。埋め立てが終わって直ぐの頃の写真でしょうか?、埋立地の上には、まだ、建物等は建設されていません。
 それとは対照的に、上二子(島)と下二子(島)の間は、建物でいっぱいのようです。


〔 二子島部分 〕

写真《長崎港外双子島表海岸全景》  <所有絵葉書>
 手前が双子島で、奥は高島本島のようです。また、写真、左側には、当時の発電所でしょうか。大きな建物と煙突の姿が見えています。


《 (長崎港外)双子島コンクリート長家 Concrete Heuse Futakojima, Nagasaki. 》
  <所有絵葉書>

 絵葉書の中段には「コンクリート三階」の建物があり、その右端には木造の建物があります。ちなみに、蛎瀬坑の部分からは煙が見えているので、蛎瀬坑が大正12年に、一旦、廃坑となる前の撮影かと思われます。


〇二子島の生活・教育情報
  • 昭和初期頃における稼働者・家族数や鑛夫住宅数については こちら をご覧ください。
  • 二子地区における社宅情報については こちら をご覧ください。
  • 二子島には 「上二子幹部社宅(山の上)」、「上二子職員社宅(海岸側)」、「下二子商店街(船着場付近)」 もありました。
  • <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三六〇四頁>の「社誌第二十四巻 大正六年 (一月中)高島二子坑小学校分教場新築」には「高島炭坑二子坑ニ小学校分教場ノ新築ニ着手シ新学期ヨリ校舎ヲ高島小学校ニ無償貸与シ高島ニ通学困難ナル低級学年児童ヲ収容授業セシムルコトトス」との記載があります。
  • 大正15年10月の「高島礦業所概要」には「各島に幼稚園を設け児童は三島通して190名で布教師及び保母が教育に従事している」との記載があり、三島とは高島・二子島・端島のことと思われますので幼稚園もあったようです。


写真
《長崎港外双子島表海岸発着場》  <所有絵葉書>
 現勢要覧(西彼杵郡高島町、昭和23年11月7日発行)の付属図には二子において、積込桟橋の直ぐ横に「桟橋」が描かれていますが、この絵葉書に写る桟橋ではないかと思います。なお、地図には、後から誰かが追記した文字がありますが、桟橋の付近の地名は「中双子」となっています。

写真
《長崎港外双子島表海岸発着場》の部分拡大
 すべり状の発着場があり、旅客船らしき姿も見えていますが、三菱の社船ではないように思います。
 ちなみに、下の絵葉書では発着場の姿は見えていません。


〔 石炭積込桟橋 〕

写真
《三菱高島礦業所 二子坑表海岸》  <所有絵葉書>
 冒頭写真《二子地区》より埋立が進んで、下二子島手前の海面部分も埋め立てられ、下二子島の左側には、積込桟橋らしき構造物が見えます。

写真
《三菱高島礦業所 二子坑表海岸》の部分拡大
 積込桟橋らしき構造物付近を拡大してみました。桟橋上には箱のような物が並んでいますが炭車でしょうか?。


写真《長崎港外三菱高島礦業所 (二子坑石炭積込桟橋之景)》  <所有絵葉書>

写真
《長崎港外三菱高島礦業所 (二子坑石炭積込桟橋之景)》の部分拡大
 積込桟橋らしき構造物付近を拡大してみました。


写真
<出典:国土地理院ウェブサイト
(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1045034)
1975/01/02(昭50)撮影写真から該当箇所周辺の部分拡大を作成>
 左写真の中央部分には陸地から海上に向かって2基の細長い設備が見えていますが、当時の石炭積込桟橋ではないかと思います。ちなみに、<『三菱高島砿業所 百年のあゆみ』、三菱石炭鉱業株式会社高島砿業所、昭和56年4月、19頁>には「昭和40年には在来の小規模船積設備に加えて、スタッカーと同一軌道を共有するリクレーマーと、新鋭船積機を設備するに至った。」の記載がありますので、石炭積込桟橋が二基体制になったのは昭和40年であることが分かります。また、間違いでしたらお許し願いますが、私のおぼろげな記憶では、一基は端島の積込桟橋の形に似た設備で、もう一基は池島の積込桟橋の形に似た設備だったのではないかと思っています。また、同ページには別時期に設置した設備の説明として「また貯炭場には広軌レール上を走行するスタッカーを設ける等」の記載もありますので、リクレーマーは貯炭場の設備ではないかと思われます。


〔 昔の貯炭場 〕

<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 貯炭場の光景が、絵葉書《三菱高島礦業所 二子坑表海岸》と異なっているようです。

写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 左写真の拡大版です。

写真
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
 正面の山は、上二子でしょうか?、下双子でしょうか?。


〔 二 子 新 堅 坑 〕

 <三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、708頁>に掲載の「代表的な岩石掘進の実例」では「二子坑底坑道掘進」について、「二子坑は-350m水準に延長4,500mの基幹坑道を掘鑿し,この坑道より六,七,八卸を展開して逐次深部へ移行していったが,次第に運搬・通気上の行詰りを生じたため,これを根本的に打開すべく,立坑と水平坑道による深部開発を計画した。

 その一環として昭和34年1月-915mのレベルに延長3,372mに及ぶ坑底坑道の開鑿に着手した。困難な地質条件と48~49℃にも及ぶ高温出水に遭遇しながら4年の歳月を費やして38年1月ようやく完成した。」との記載があります。


〇二子新堅坑とその後の二子斜坑に関する大まかな記録を以下に記載します。

昭和32年5月二子新堅坑の開さくに着手※2
昭和40年10月1日新立坑が完成※3 157頁
昭和40年11月1日二子立坑稼働開始※1 527頁
昭和42年6月19日二子斜坑を廃止して二子新立坑より入昇降※3 157頁
昭和46年4月27日二子坑,飛島区域の十八尺層に着炭※1 528頁
昭和47年1月24日昭和42年6月19日新立坑より揚炭のために閉鎖していたが、第二斜坑を飛島地区からの揚炭の目的で再開※3 171頁
昭和48年2月28日二子坑,深部区域より逐次撤退,操業を九卸と飛島区域に集約の交渉妥結(約800人減員)※1 528頁
昭和48年5月-二子坑,深部終掘※1 528頁
昭和48年6月16日二子坑,二子炭鉱(深部)と高島炭鉱(浅部)とに鉱区分離登録※1 528頁
昭和48年12月21日二子炭鉱密閉完了※1 528頁
昭和49年2月18日二子炭鉱の鉱業権消滅※1 528頁

※1<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』>
※2<『町制施行10周年記念 高島町十年の歩み』、高島町、S33.11.08>
※3<高島町教育委員会、『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年>


写真
《東洋一を誇る二子新堅坑の開発》
  <昭和33年高島町十年の歩みより、許可を得て掲載>
 仮櫓とは思えない立派な櫓です。左記写真の説明には、「170万屯出炭計画のもとに、昭和32年5月二子新堅坑の開さくに着手し、昼夜急ピッチで工事を進めている。」等が記載されています。

○二子新堅坑関係論文


https://doi.org/10.2208/journalhs1990.16.517
 【土木史研究 第16号1996年6月 自由投稿論文】
   九川の石炭産業における立坑に関する研究
 英文のページが表示されますので、必要に応じ日本語のページを表示ください。論文ファイルの頁数524の箇所には、「図6-1 三菱高島二子立坑開鑿状況図」が掲載されています。



<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 二子坑第一斜坑坑口の写真だそうです。

<写真はDo-Qさんより>
 昭和59年~60年あたりの二子斜坑入口だそうです。当時は、蛎瀬立坑から人が入昇坑し、石炭は二子斜坑から地上に出て、貯炭場へ運ばれていたそうです。


〔 二子坑(昭和50年) 〕

http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/ 津島軽便堂写真館 に掲載されている

http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/takashima/takashima1.html 高島炭鉱 では写真の大きさや情報量の多さにより、二子の鉱業所内の様子がよくお分かりいただけるかと思います。また、当時の島内連絡バスの写真もあります。


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