明治中頃までの開発状況

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 簡易年表 〕
 簡易年表については、 こちら をご覧ください。


〔 沿革 〕
 端島炭坑の發見は今を去ること凡そ百二十年前にありといふも之亦詳かならず、明治初年佐賀藩深堀村の舊領主鍋島氏の採掘する所となりしも或は炭價低廉の爲、或は潮水浸入に因り數度廢坑となり、後明治二十年第一層上八尺炭層採掘の目的を以て第一竪坑を島の東北部に開鑿し、漸く正式の工事を始め、同二十三年九月一日三菱合資會社の有に歸し爾來諸般の改良を施し専ら從來の溜水排除に從事し翌二十四年二月に至り掘進工事を開始したり。
以上、<長崎商業會議所調査部、『長崎商業會議所創立二十五周年紀念 第四册 長崎に於ける石炭の集散』、長崎商業會議所、大正七年八月、三一、三二頁>より


 第一竪坑の開鑿時期等については複数の情報がありますので、 こちら もご覧ください。また、第二竪坑については こちら を、第三竪坑については こちら をご覧願います。


〔 借區開坑願 〕
写真
《借区開坑願 3/明治7年》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 写真は標記資料に収められている「借區開坑願」で、「私共儀明治三年午三月長崎縣管下肥前國彼杵郡高濱村字端嶋ニ於テ石炭発見致シ候ニ付請負稼奉願候処此度日本坑法御布告ニ付別紙圖面之場所ニ於テ九千坪借區開坑被差許度此段奉願候以上」と書かれていて、申請者は「長﨑縣貫籍肥前國彼杵郡深堀村士族 渡邊聞櫓 深堀楳伍」で日付は明治七年となっています。

写真《借区開坑願 3/明治7年》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 「借區開坑願」の別紙圖面です。官有地の面積は九千坪となっています。なお、右側の頁の最後にある「工部卿 伊藤博文」の名前の後には、印は押されてなく、朱書きで○が書かれています。

写真《借区開坑願 3/明治7年》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 左側の頁には「一金二千圓 右之金資本ニ相備肥前國彼杵郡高濱村字端嶋炭坑開業仕度奉存候以上」とあります。


写真
《借区開坑願 3/明治7年》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 写真は標記資料に収められている「借區開坑願」で、「私共儀明治三年午三月長崎縣管下肥前國彼杵郡高濱村字端嶋ニ於テ石炭発見致シ候ニ付請負稼奉願候処此度日本坑法御布告ニ付別紙圖面之場所ニ於テ九千坪借區開坑被差許度此段奉願候以上」と書かれていて、申請者は「長﨑縣貫籍肥前國彼杵郡深堀村士族 渡邊聞櫓 深堀楳伍」で日付は明治七年となっています。

写真《借区開坑願 3/明治7年》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 「借區開坑願」の別紙圖面です。官有地の面積は九千坪となっています。なお、右側の頁の最後にある「工部卿 伊藤博文」の名前の後には、印は押されてなく、朱書きで○が書かれています。

写真《借区開坑願 3/明治7年》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 左側の頁には「一金二千圓 右之金資本ニ相備肥前國彼杵郡高濱村字端嶋炭坑開業仕度奉存候以上」とあります。


写真
《借区試掘開坑願指令本紙 明治7年》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 こちらも「借區開坑願」とあり、冒頭の「借區開坑願」と同じ記載内容の書類のようですが、朱書きで追加されている文字の位置等に相違があります。冒頭の「借區開坑願」が申請時の書類で、こちらの「借區開坑願」は承認の時の文書と思いますが如何でしょうか?。

写真《借区試掘開坑願指令本紙 明治7年》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 冒頭の「借区開坑願 3/明治7年」の2枚目「別紙圖面」の右側の頁に相当する書類かと思います。
 左側の頁の最後にある「工部卿 伊藤博文」の名前の後には、丸印が押されていますが、 「中之嶌并二子嶌」の「借區開坑願」 では角印が押されています。


〔 請負條約 〕
 長崎歴史文化博物館収蔵資料に、「明治八年端島坑業出炭請負條約」と「明治九年端島坑業出炭請負條約」があり、明治初期の頃の端島の様子が分かるかと思い以下のとおり掲載させていただきました。なお、私の勉強不足により、読み取り不明な文字は■にて記載していること、ご容赦をお願います。


写真
《明治八年端島坑業出炭請負條約》  <収蔵: 長崎歴史文化博物館>
 端島坑業出炭請負條約は、「端島炭坑請負方本年九月一日ヨリ明治十年二月迄小山社中ニテ引請候ニ付」の文章で始まって十二項目の構成となっており、最後に、「端島炭■借區主 渡辺聞櫓 深堀楳伍 代理 古賀松一郎」の名前の記載があります。なお、條約中には「汐留石垣」の文言もありました。

 條約に続いて定約証がありますが、「第一條 長崎県下第二大區肥前國彼杵郡高浜村字端島石炭坑ハ 渡辺聞櫓 深堀楳伍両名 工部省ノ許可ヲ得シ借區内石炭坑明治八年九月一日ヨリ同十年二月迄小山秀ニ出炭請負方ヲ定約シ此度左ニ記載スル箇條ノ通リ改正締結セリ 第二條 明治八年九月一日ノ前約ヲ改メ更ニ明治九年九月一日ヨリ同十二年十二月三十一日迄八尺炭■戸前戸先ヲ論セス出炭請負ヲ小山秀ト約定シタル事明瞭ナリ」から始まる十二ヵ条の構成となっており、最後に、「端島炭坑借區主 渡辺聞櫓 深堀楳伍 代理 古賀松一郎」と「出炭請負人 小山秀」の名前の記載があります。
 なお、この條約を書き写している紙ですが、左下には「長崎鑛業株式會社 伊王島鑛業所」と記載があるようです。


写真
《明治九年端島坑業出炭請負條約》  <収蔵: 長崎歴史文化博物館>
 こちらも十二項目の記載があり、内容は明治八年のものと同じではないかと思います。こちらの條約の最後では、日付が「明治八年九月一日」、「端島炭坑借區主 渡辺聞櫓 深堀楳伍 代理 古賀松一郎」と「炭坑請負人 小山秀」と「請人 小山■■」の名前の記載がありますが、■■は「秀」ではないようです。

 こちらにも、十二ヵ条からなる約定証がありますが、日付が「明治九年丙子九月一日」、「端島炭坑借區主 渡辺聞櫓 深堀楳伍 代理 古賀松一郎」と「出炭請負人 小山秀」の名前の記載があります。なお、こちらも内容は明治八年のものと同じではないかと思います。
 次には、外国人に関する文書が続きますが、管理人の勉強不足により、未だ、記載することができません。


写真
<収蔵: 長崎歴史文化博物館>
 外国人に関する文書の次には、左写真の「端島炭坑外國人ニ係ル定約云々」が綴じられております。中を見ますと、外国人の名前でしょうか「グレブル」の名前が出てきます。また、「一 右ノタメ秀ヨリ上海ニ一人ニテモ航海イタサセ候儀ハ不相聞候 明治九年十一月一日甲某ト乙某トノ間ニ■ノ條款ヲ結約セリ 第一條 長崎県二大區三小區高浜村字端島炭坑ハ何某ノ私有炭坑ニシテ本年九月一日端島炭坑八尺炭線ヲ限リ甲某ニ請負炭掘稼ヲ委任シタルニ付甲某ハ端島請負炭掘稼人タル■明瞭ナリ 第二條 甲某ハ今般端島請負稼人タルニ付乙某ヲ以用達人トナセリ」から始まり、第十一條まで條款が定められ、日付は「明治九年十一月一日」、宛名は「用達人 柴田某」、作成者は「端島石炭坑八尺線限リ請負稼人 小山某 保証人 小山某」となっています。


 上記文書の次には、「明治九年九月一日」と上記文書より以前の日付で作成された「「改正定約書」があり、「拙者所有ノ端島石炭坑八尺線ヲ限リ炭掘請負稼ヲ貴殿ニ委任イタシ候間日本坑法ニ違背セサル様興業可有之興業上日本坑法ニ違背スルカ端島石炭坑興業ノ件ニ付日本坑法ニ違背スル條約ヲ外国人ニ結フカ■者ト定約■ノ事ニ付不正ノ事アル■ハ即チ請負稼ヲ差止ム可キ事」の記載があり、宛名は「小山秀」、作成者は「端島坑主 渡辺某 保証人 渡辺某」となっています。


 また、続いて、日付が「明治九年九月一日」の「改正定約書」が続きますが、下記の内容が書かれております。
第一日本坑法ヲ遵守シ興業可仕事
第二興業ノ■ニ付日本坑法ニ違背シタル定約ヲ外国人ニ対シ定約イタス■敷事
第三不正ノ興業ハ勿論柱取リ切リ其他細少ノ事ニ至ルマテ一々貴殿ノ許可ヲ得スシテ興業致ス■敷事
第四日々出炭高ヨリ二割半ヲ従前ヨリノ興業費ノ部金トシテ貴殿ヘ差出スヘキ事
第五日々出炭表ハ貴殿ノ代理人端島出張ノ人ト現場斤量場ニヲイテ照会シ改メノ捺印可申受事
第六右ノ定約ニ違背ノ廉アラハ即時ニ請負稼差止タラン候トモ一言無之候也
 文書の最後には、日付が「明治九年九月一日」、宛名が「端島炭坑主 渡辺某」、作成者が「端島八尺線限リ請負稼人小山某 保証人小山某」となっています。


〔 報告書 〕
<端島炭坑ニ関スル報告書 : 大隈大蔵卿宛>  <リンク先 : 「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」>

 明治初頭に於ける端島の各種情報が記載されています。


〔 坑内事故 〕
一八八七年(明治二〇) 8.12 三菱端島,海水浸入による坑内出水,死者32人・負傷者多数.

以上、<筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、144頁>より

 事故の詳細については、<大蔵省印刷局 [編]『官報』1887年08月30日,日本マイクロ写真,明治20年, コマ番号4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2944486/1/4 (参照 2023-09-16)>の343頁に記載の「端島炭坑浸水ノ狀況」をご覧いただきたいと思いますが、同資料に記載がある以下の内容と明治20年の時期とを考え合わせると、新坑は第一竪坑のことではないかと思っていますが如何でしょうか?。
  • 晝飯ノタメ竪坑口ヨリ直徑二十一間地下ノ一片盤ニ集リ居タル際
  • 採坑ノ爲ニ入坑シ居タル人員五十三名
  • 坑内溜水ノ一時ニ暴出シタルハ該島ニ數箇所ノ舊坑アリテ其新坑ト相接シタル場所ニ於テ新舊兩坑間ノ炭壁俄然崩壊シ爲ニ舊坑ノ溜水新坑ニ噴出シ兩坑内ニ滿盈シタルモノ


〔 各種情報 〕
  • 本年中貯船■丸並小菅丸ノ航海発帰ノ事由左ノ如シ
    九年十一月八日汽船■丸長崎県ノ依頼ニ依リ貸渡シ佐賀近海ヘ航行仝月十三日帰港
    仝年仝月十七日三池鑛山分局ノ依頼ニヨリ三池近海マデ航行十二月七日帰港
    十年一月廿ニ日ヨリ三月三日マデノ間長崎県平民小山秀ノ願ニ依リ長崎港ト端島トノ間石炭曳船ノ為メ貸渡シ日曜日並ニ風浪ノ日ヲ除キ毎日往復セリ
    以上、<『長崎工作分局第一次報告書 明治4年4月~同10年6月』、長崎歴史文化博物館収蔵>より
    よく読み取れない文字は■にて記載しましたが、手書文字入力にて検索を行いましたところ「鬣」が最も適切な当て字ではないかと思っています。なお、一部とは思われますが、この頃に小菅修船場にて建造された船舶の概要を こちら に記載しています。
  • 小山はイギリスグリブル商会(H.Gribble & Co.)と諮り,イギリス人ガワー(E.H.M.Gower)等外国人技術者を招聘,山を崩し海を埋め堤防を築いて機械設備を整備し,始業しようとした明治10年夏,大風によって破壊され,遂に廃業するに至った。
    以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、115・116頁(115頁については、同10年を明治10年に変更しています。)>より


〔 鑛区面積関係 〕
写真《鉱山ノ部 明治27年1月~2月》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 「明治二十七年自一月至二月 第五課事務簿 鑛山之部」に収納されている「鑛區訂正願」(明治廿六年十二月十八日)には、事業拡張の為の鑛区訂正として
 「明治廿五年十月一日特許第壱九八号
 長崎縣肥前國西彼杵郡高濵村南越名字向ヒ端島海底全地
   現鑛區  貮拾六万貮坪
   増    六万四千九百九拾八坪
   合計   参拾貮万五千坪」
の記載があり、左写真の鑛區図が添付されています。
 ちなみに、こちらの鑛區図から抜き出して拡大した端島の部分図は こちら に掲載しています。


写真《鉱山ノ部 明治28年9月~12月》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 「明治二十八年自九月至十二月 第五課事務簿 鑛山之部」に収納されている「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治二十八年十月二十一日)には
 「明治二十八年八月十三日特許第壱九八号
 長﨑縣肥前国西彼杵郡髙濱村南越名字端島
 全地 参拾貮万五千坪
 増  海面貳拾七萬五千坪
 合計 六十萬坪」
の記載があり、左写真の実測図(石炭鑛區實則圖 長﨑縣肥前國西彼杵郡高濵村南越名字端島全地官地原野民地宅地及海面)が添付されていますが、上下の図と鑛區の広さを比べると、ちょうど間に入る面積となっています。
 ちなみに、こちらの実測図から抜き出して拡大した端島の部分図は こちら に掲載しています。


写真《鉱山ノ部 明治30年5月~7月》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 「明治三十年自五月至六月 第五課事務簿 鑛山之部」に収納されている「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治廿九年十二月廿四日)には
 「明治二十九年二月七日特許第壱九八号
 長﨑縣西彼杵郡高濵村字端島 六○○、○○○坪
 増 西彼杵郡高濵村字中島 五二、五○○坪
 合計 六五二、五○○坪」
の記載があり、左写真の実測図(石炭鑛區實則圖 長﨑縣肥前國西彼杵郡高濵村南越名字端島全地官地原野民地宅地字中島全地官地原野民地宅地及海面)が添付されていますが、 明治26年に廃坑となり廃坑届を出した中ノ島 を取得(増区)する時の書類のようです。
 ちなみに、こちらの実測図から抜き出して拡大した端島の部分図は こちら に掲載しています。


<三菱社誌刊行会編纂、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三四九頁>

 明治三十二年九月十二日 端島鑛区増区訂正 高島炭坑、長崎県肥前国西彼杵郡高濱村地内端島鑛区ニ係ル増区訂正ノ特許ヲ受ク、鑛区坪数壹百拾六萬貳千五百坪


<三菱社誌刊行会編纂、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三九九頁>

 明治三十三年三月二十三日 高島炭坑用地払下 高島炭坑鑛業用地トシテ従来借用官有地肥前国西彼杵郡高濱村南越名字端島実測面積貳町六畝四歩、同中ノ島実測面積貳町七段七畝貳拾三歩ノ払下ヲ受ク、端島ハ壹町歩ニ付八千圓、中ノ島ハ四千圓ノ割合ニテ払下代金合計金貳萬七千六百壹圓参拾参銭四厘トス


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