横 島 炭 坑

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 横島炭坑について、思いつくままに記載してみました。私の思い込み等により記載間違いが多々あるかと思いますので、お気づきの点はご指導をいただけましたら幸いです。


写真
<2012年撮影>
 長崎半島側より見る光景です。奥の大きな島が伊王島で、その手前の大きな島が香焼島ですが、現在は、両島とも橋や埋立により長崎半島と地続きになっています。そして、写真中段、左端の海上には、瀬と言っていいほどの小さな島が写っていますが、横島といいます。


写真<2012年撮影>
 奥の島は伊王島ですが、伊王島の左側海上に位置する小さな島が横島です。

写真<2012年撮影>
 横島の部分を大きくしてみました。手前の二つの瀬が、その昔は一つの島で、明治の短い期間ですが横島炭坑が稼業していました。


写真<2012年撮影>
 こちらの写真は、上段写真に写る手前の二つの瀬の部分を拡大したものです。上段写真とは別の日の撮影で、この日は風が強く、瀬の周辺では白波が立ち、特に、二つの瀬の間では底が浅いためか、かなりの白波が目立っています。また、右側の瀬の右端海面も周りの海面と少し色が違っていますので、同様に浅い箇所ではないかと思います。


写真
< 出典:国土地理院ウェブサイト
( http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1202710 ) > 
2010/05/13(平22)撮影写真から横島周辺の部分拡大を作成
 2010年撮影の中央と右側の瀬の航空写真になります。上から見ると、思ったより巾が広いように思います。
 ちなみに、<香焼町郷土誌編纂委員会、『香焼町郷土誌』(町制施行30周年記念事業)、香焼町、平成3年10月1日、206頁>には「総面積22万2,000u(約6,700坪)、この島に炭鉱最盛期には130戸,約700人が住んでいた。」との記載があります。


写真<2012年撮影>
 角度や向きに違いはありますが、2枚上の写真の拡大になります。


写真<2012年撮影>
 上写真の右端に位置する瀬の拡大図です。


写真<2012年撮影>
 香焼からの撮影です。
 2枚上の写真の撮影場所から、真裏までとは行きませんが、かなり反対側の場所まで回り込んで撮影した光景です。遠くには野母崎が見えております。左側の瀬が平たい瀬で、右側の瀬が小高い瀬になります。


写真<2017年撮影>
 曇りの日?で、腕が悪くて?、写真の写りはよくありませんが、長崎半島をバックにした横島です。位置的には、上段写真の場所を、香焼の高台から撮影したことになります。


〔 歴 史 〕


写真《横島炭鉱(明治33年)
<写真は、香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)p.35より許諾を得て転載>

 炭坑が稼業していた頃の横島です。
 横島は明治33年に端島とともに発電機が設置されて坑内外点燈を開始していますが、何と高島(明治35年実施)よりも早い実施で、三菱としてもかなりの力を入れていた島だと思います。
 ちなみに、私としては、明治時代の横島の写真については、左の写真と、《明治33年撮影による横島》及び《横島炭鉱・明治31年頃》の3枚を存じていますが、その3枚の写真は同じ日の撮影で、撮影範囲が違っているだけではないかと思っています。


明治25年長崎の尾上栄文と峯眞興が五尺層を発見
明治27年6月5日三菱が鉱区を譲受ける
明治30年2月出炭開始
明治34年6月西部で断層突破出来ず起業工事を中止。東部も断層に阻まれる。
明治35年1月廃坑
現在、横島は地図には名前があるが、船から見てほんの一握りの岩礁にすぎない姿となっており、端島と異なり、昔時を偲ぶすべもない。
<以上、「三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、202〜204頁」より>


明治27年三菱合資会社が炭鉱の開発に着手
明治28年529呎の石炭試錐を行う
明治30年海面の埋め立てを開始し、その翌年から出炭
明治33年1月私立横島小学校創立
海面の埋め立てに伴って、周囲を石垣で張り巡らして、山頂から東部に14,267平方メートルの埋立て地を造成して、写真のような炭坑の島をつくったが、約12万トンを出炭して盤ぶくれに遇い、石炭の層を見ながら収支償わず、明治35年(1902)ついにその短い炭鉱史を閉じた。
古老の話によれば、横島炭鉱の盤ぶくれはひどく、前日歩いて通った鉱道が、翌日には通れないほどになる箇所があったということである。
炭鉱の閉山は島の姿の終焉でもあった。島を支えていた石垣は取りはずされて、古老の話によれば、端島方面に運ばれたとのことである。このために埋め立てた土砂は残らず流失して岩礁と化す。
横島周辺の海底には、往事の石垣の根方の一部が今日でも残る。
かつて、炭鉱の島として咲きに栄えた横島の運命は、あまりにも太くて短く、朝な夕なにその岩礁を目のあたりにするときに、今昔の感に堪えず、その末路が哀れでならない。
<以上、「『香焼町郷土誌』、347〜349頁」より>
※「明治30年 海面の埋め立てを開始」の記載がありますが、埋立地の中には 明治27年4月9日埋立許可の場所 もあるようです。


(明治27年6月5日三菱社有となった。)翌年立坑入気坑(80m)、排気坑(67m)を掘り,
<以上、「三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、70頁」より>


明治30年 横島坑,通気立坑の開削に着手
<以上、「三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、516頁」より>


明治三十五年一月二十七日 横島坑廃坑 高島炭坑横島坑採炭収支償ハザルヲ以テ廃坑トス
<以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、553頁」より>


横島の廃坑当時は、総排水量八十立方尺で、入気、排気立坑よりの浸水の恐れわなく、採炭層は上八尺炭で残柱式であつた。天井はかなり良好であつたが、磐ぶくれが甚だしく、その一例として、主要坑道の軌条を取除き、一時磐打をしたが、二週間もたたずして坑道は低くなり、一度坑木より足を踏みはずと、泥の中に足を取られ、歩くことができないほどであつた。
昭和三十二年六月に香焼炭礦に所有権をゆずつた。
<以上、「『炭の光』、第100号、昭和33年5月1日」より>


磐膨れ・・・岩石が湿気を含んだり、両側の重圧のため、坑道の下磐がふくれ上がることをいう。
下磐・・・炭層のすぐ下部にある岩磐をいう。
磐打ち・・・下磐のふくれ上つた時、また車道を下げる時に下磐を掘り下げる作業をいう。
<以上、「『石炭の事典』、石炭経済研究所、昭和29年7月10日、120頁」より>


〔 炭 坑 稼 業 時 数 値 〕


 以下、横島の数字的趨勢を示すため、坑夫数・利益及び出炭量の一覧を記載させていただきます。坑夫数や出炭量(廃坑の明治35年を除く)については、少しずつではありますが年々増加となっていますが、経営的にはかなり厳しかったようです。
 また、坑夫・諸職工住居、役員社宅及び従業員関連施設の施行工事集計(31年7月〜33年12月)も記載させていただきますが、高島・端島同様に号数が付いていることや、医局新築から病院が存在していることもうかがえます。


坑夫数
高島端島横島
明治321,0821,382514
明治331,1171,418535
明治341,1401,685598

(注)横島は明治35年操業中止となり,161名は高島へ47名,端島に114名配置された。
<『高島炭砿史』、122・123頁>には、「坑夫数によく現れている。明治31年〜44年までとると,次のようである(「社業統計輯覧」)。」の記載に続き一覧が記載されていますが、明治32〜34年と(注)を抜粋しますと上記のとおりとなります。

利益推移
高島端島横島
明治32210,735.294,452.32.125.
明治33138,390.185.048.197.
明治3471,773.240,284.*15,559.
明治35106,046.201,181.*170,995.

単位,円 円未満四捨五入 *は損失
<『高島炭砿史』、183・184頁>には、「第13表 明治27年〜大正6年の利益推移」が記載されていますが、明治32〜35年を抜粋しますと上記のとおりとなります。

出炭量
年次高島端島横島
明治3068,474.7184,892.456,962.15
明治3164,410.76100,592.7417,270.57
明治3277,743.3987,195.2727,915.04
明治3385,626,99105,669.0531,737,06
明治3458,383.23114,637.1334,697.78
明治3562,451.11122,323.233,291.01

単位,t
※<『高島炭砿史』、490頁>の「出炭量」から、明治30〜35年を抜粋しますと上記のとおりとなります。

明治31〜33年の住宅・施行工事集計
 年
   完成時

坑夫・諸職工住居

役員社宅

従業員関連施設
明治31年
 7〜12月
職工坑夫住居家新築社宅新築1棟 
明治32年
 1〜6月
明治32年
 7〜12月
10号職工住居 1棟
人夫宿泊所 1棟
医局新築 1棟
明治33年
 1〜6月
11号,12号職工住居 2棟
7号,8号坑夫住居 2棟
明治33年
 7〜12月
9号,10号社宅 2棟 
※<『高島炭砿史』、170頁>より横島関係を抜粋    端島実績


〔 開 発 前 〕


写真
<出典:「香焼町郷土誌編纂委員会、『香焼町郷土誌』(町制施行30周年記念事業)、香焼町、平成3年10月1日、350頁」>
 <『香焼町郷土誌』、348頁>には、「海面の埋め立てに伴い、山林は削られ「西彼杵郡村誌」に書かれた横島の面影はなくなった。しかし唯一の資料として残されたものに「郷土誌」のスケッチがあり、それによれば、島の中央部分が小高くして横に長く、松の木のような姿をした樹木がまばらにある。」との記載があり、350頁に、「明治十九年ノ横島 香焼村全図ヨリ寫取」と書かれた左のスケッチが掲載されています。
 また、<『香焼町郷土誌』、347頁>には、「横島は、安保の南西約700メートルの海上に、横長く浮かぶ岩礁である。明治17年(1884)「西彼杵郡村誌」によれば、横島は「東西182間(330メートル)、南北34間(61メートル)、周囲193間−−−、竹崎より西方海上直径100間(181メートル)に在り人家耕地なし、松樹疎立す。」と書いてある。」の記載があり、海面埋立前にしてかなりの大きさがあった島であったことが伺えます。


写真
<出典:国土地理院ウェブサイト・伊能大図彩色図(肥前 長崎)
 (https://kochizu.gsi.go.jp/items/495?from=category,10,index-map)>
国土地理院ウェブサイトの「古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)」に掲載の「伊能大図彩色図(肥前 長崎)」からの横島・香焼嶋付近の部分図です。
 横島について、もっと古い図面に記載はないものかと探しましたところ、<国土地理院ウェブサイト・伊能大図彩色図(肥前 長崎)>がありました。
 伊能大図彩色図の香焼嶋は白く塗られていて、また、同じ地図に記載の端島も同様に白く塗られていますが、横島は海面の色と同じで、ただ、線により示されているだけです。また、横島は一つの島(瀬)ではなく、複数に分かれているようです。
 ちなみに、ホームページ「伊能忠敬の長崎市測量」「九月四日」のページには、当時の横島について詳しい記載がありますので、ご覧になられては如何でしょうか?。(高島・中ノ島・端島についても記載があります。)


写真
<出典:国土地理院ウェブサイト・伊能大図彩色図(肥前 長崎)
 (https://kochizu.gsi.go.jp/items/495?from=category,10,index-map)>
国土地理院ウェブサイトの「古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)」に掲載の「伊能大図彩色図(肥前 長崎)」からの横島付近の部分図です。
 さらに拡大をしてみました。文字が逆さまになっていますが「横島」の記載があり、文字の少し上には、いくつかの島?、瀬?が見えています。


〔 埋 立 経 過 〕

写真《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》
  <長崎歴史文化博物館収蔵>

 左の図は、「明治三十年自七月至八月 第五課事務簿 鑛山之部 共六」に収納されている「増區ニ係ル鑛區訂正願」(明治三十年六月十九日)の石炭鑛區実測図の部分図で、図中には「長崎県西彼杵郡深堀村大字香焼字横島」の記載がありますが、その時期(明治三十年六月十九日)や <出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分) の島の輪郭 と比較して、埋立完了後の横島の図面ではなく、本来の岩礁の形を示した図ではないかと思っています。


 また、下の3枚の図面は、長崎歴史文化博物館に所蔵されている《第二課事務簿 海面埋立ノ部》に納められている埋立関係の図面ですが、それらの図面や上段の《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の図には、線に囲まれた薄い水色で塗られた部分(おそらくは山の部分)が共通して存在していますので、それを目印に上下の図を見比べると、明治中頃実施の埋立箇所の位置関係が分かりやすいのではないかと思います。
 なお、下の3枚の図面では「海面埋立」となっていますが、端島と同様に大部分は瀬の部分を埋め立てたものと考えていて、その理由は以下のとおりです。
1.<『香焼町郷土誌』、347頁>に記載のとおり、既に、明治17年(1884)には「東西182間(330メートル)、南北34間(61メートル)」の広さがあり、かなりの瀬が存在していたと思われること。
2.<国土地理院ウェブサイト・伊能大図彩色図(肥前 長崎)>〔江戸時代(1800年代はじめ)に伊能忠敬氏が測量し作成〕の図にある横島の姿も広く、かなりの瀬が存在していたと思われること。
3.<『未来への遺産』、香焼町閉町記念誌、長崎県香焼町役場、9頁>に掲載の《横島炭鉱・明治31年頃》の写真では、護岸右端のその右側に瀬らしきものが存在していること。


写真《第二課事務簿 海面埋立ノ部》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 左の図面は、「明治三十一年自七月至九月 第二課事務簿 海面埋立之部」に収納されている「埋立地所有認定願」(明治三十一年六月一日付け、明治貳拾七年四月九日埋立許可)の別紙図面で、 《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》 の図における中央部分の埋立箇所を示した図かと思います。
 図面上部が北側との記載があり、線に囲まれた薄い水色で塗られた部分の直ぐ近くの埋立で、タイトルには「香焼字横嶋」や「海面埋立実測圖」の文字が含まれています。


写真《第二課事務簿 海面埋立之部》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 左の図面は、「明治三十年自一月至二月 第二課事務簿 海面埋立之部 共二」に収納されている「海面埋立願」(明治廿九年十月十九日付け)の別紙図面になりますが、《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の図における島の左側部分の埋立で、上段図面における埋立箇所の左側部分の埋立図面になるかと思います。
 タイトルは「長崎縣肥前國西彼杵郡深堀村大字香焼字横島海面埋立願求積圖」で、図面左下に書かれている埋立面積数は貳千八百四十六坪となっていますが、<三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第四巻』(財)東京大学出版会(昭和56年復刊)>の「明治30年、長崎県西彼杵郡深堀村大字香焼字横島水面貳千八百四十六坪ノ埋立ヲ許可セラル」の記載の数字と一致します。
 また、 《水面埋築原簿 明治22年1月起》 に収納されている「西彼杵郡深堀村大字香焼字横島」の「明治丗年二月六日」付けと思しき記録にも「弐千八百四拾六坪」の記載(坪未満の数値も記載されていますが、私には何と書かれているか不明です。)があり数字的には一致します。ちなみに当該記録には、「坑業用地」・「三菱合資會社」や、後日朱書きにて追記されたと思われる地番と思しき記載もあります。


写真《第二課事務簿 海面埋立之部》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 左の写真は、「明治三十年自九月至十二月(拾遺) 第二課事務簿 海面埋立ノ部」に収納されている、「海面埋立願」(明治三十年五月廿六日付け)の別紙図面で、《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の図の右側部分の埋立と思いますが、埋立面積数は貳千九百八拾七坪となっているようです。
 ちなみに、<三菱社誌刊行会編纂 『三菱社誌第六巻』(財)東京大学出版会(昭和55年復刊)>では、「明治32年、高島炭坑、曩ニ竣成ノ横島水面埋築地ノ所有権保存登記ヲ終了ス」の記載がありますが、どの時期の「海面埋立願」の保存登記かについては、私には分かっていません。


〔 埋 立 完 了 〕

写真
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分)
 上段の図面から数年が経過して、明治34年測量の「国土地理院」旧版地図(図名伊王嶋)からの部分図です。図の右下部分に横島があります。

写真
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分)
 左図の右下部分の拡大で、右側が「横嶋」、左側は「裸瀬」です。


写真<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分)
 「横嶋」の部分図になりますが、明治34年測量とのことですので廃坑(明治35年1月)直前の地図となるようです。
 採礦地、石炭坑、煙突の記号が見え、島の周囲には護岸が存在しています。また、島の左側(高島方向)は外海側になり荒波が激しいためか、その部分には、端島と同様に、護岸の内側(護岸上?)に、石やコンクリートのようなものでできた塀や垣根のような物があるように思われます。あと、石炭積込桟橋と思われる突起が島の上側と下側に一箇所ずつ見えます。
 ちなみに、この地図の横島の形は、上段《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の姿から、一部相違点はありますが、海岸線の凸凹を取り除いた状態のようで、瀬の上にできた鉱業所用地や宅地の部分を示している図面だと思います。
 なお、『香焼町郷土誌』(347〜349頁)の中には、「海面の埋め立てに伴って、周囲を石垣で張り巡らして、山頂から東部に14,267平方メートルの埋立て地を造成して、写真のような炭坑の島をつくった」の記載がありますが、左の地図を見ますと、島の中央部分に山と思われる部分があり、「山頂から東部」だけではなく山頂の両側(東西)に護岸に囲まれた土地があるようです。そのことは、《柿田 清英 氏作成》の図面に記載された海面下の護岸の配置からも伺うことができるかと思います。


写真《明治33年撮影による横島》
<出典:香焼町郷土誌編纂委員会、『香焼町郷土誌』(町制施行30周年記念事業)、香焼町、平成3年10月1日、350頁>
 本写真の島の右側は、《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》《「国土地理院」旧版地図》と同じく香焼方面で、写真右端の奥の山は伊王島と思います。
 写真の説明としては、<『香焼町郷土誌』、348頁>に「写真は、その最盛期に南側から撮影した貴重なもので、中央の煙突は動力源の汽缶場等、その手前が貯木場とみられ団平船が接岸しているようである。左側のやぐらが南立鉱、右の山頂に四角に見えるのが北排気鉱、その右側の数棟が住宅、病院、小学校と思われる。」との記載があります。
 ちなみに、横島には、明治28年の「立坑入気坑(80m)」及び「排気坑(67m)」に加えて、明治30年開削開始の「通気立坑」もあったようです。


写真《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 標記の図面から、島の中央部を抜き出しました。線で囲まれ薄い水色で塗られた部分が、上段写真の左側に写る山の部分ではないかと思いますが、本図の上方(北側)には下段図面(符号)にある「捲上ヶ□坑口」(※最初の「□」は判読不能文字)が、そして下方(南側)には「風□□坑口」(※最初と二番目の「□」は判読不能文字。最初の「□」はもしかしたら「抜」かも知れません。)の記号が描かれています。
 ちなみに、<『高島炭砿史』、498頁>に掲載の「坑口位置図」にある横島には、本図面の「風□□坑口」と思われる場所には「立坑(矩形)」の記号が描かれて「風抜井坑」との名称記載があり、また、本図面の「捲上ヶ□坑口」と思われる場所には「立坑(矩形)」の記号が描かれていますが名称の記載はありません。(ちなみに、端島の第二立坑と第四立坑は「立坑(円形)」の記号となっています。)


写真
《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》  <長崎歴史文化博物館収蔵>
 標記の図から、符号の説明箇所を抜き出しました。

<比較写真>
写真
<出典:国土地理院撮影空中写真(MKU628-C15-4)、整理番号MKU628、コース番号C15、写真番号4、撮影年1962/05/30(昭37)> ※部分拡大及び写真加工
 上段の《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》から島の中央部を抜き出した図と比較するのを目的として、昭和37年撮影の標記写真から島中央部の山があると思われる瀬の部分を抜き出しました。現在残る二つの瀬の内の高島側の狭い方の瀬で、上側が北側(伊王島側)です。瀬の上方(北側)には、四角い煙突のような構造物が残っています。


写真《横島炭鉱・明治31年頃》
<出典:『未来への遺産』(香焼町閉町記念誌)、長崎県香焼町役場、9頁>
 《明治33年撮影による横島》の写真から左右を若干切り取った写真のようで、こちらも写真右端の奥の山は伊王島と思います。


写真
《西彼杵郡香焼村全図》
<出典:『未来への遺産』(香焼町閉町記念誌)、長崎県香焼町役場、8・9頁>
 西彼杵郡香焼村全図です。字図の集成図との説明書きがありますが、図の左下にあるのは横島の姿と思います。
 香焼村は、明治31年に深堀村から分村しており、また、島の色分けが山林になっているようですので、もしかしたら、横島炭坑閉山後の姿でしょうか。それにしても、かなりの広さがあったようです。

<比較写真>
写真
<出典:国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省>
 画像を回転させ島の向きを左図面と同じにしました。昭和49年度の撮影ですが、横島と思われる地点には広い島はなく、瀬の姿しかありません。


〔 島 の 大 き さ 〕


写真
上段 <出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)>(部分)
下段 <出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分)
端嶋と横嶋の大きさを比較できるように上下に配置しました。
 どちらも1901(明34)年測量の「国土地理院」旧版地図ですが、「図名高嶋」からは端嶋の部分を、「図名伊王嶋」からは横嶋・裸瀬の部分を、また、距離が分かるスケールバーの部分を切り出して上下に並べ、両島の大きさを比較できるようにしました。
 <『香焼町郷土誌』、347頁>には、「明治17年(1884)「西彼杵郡村誌」によれば、横島は「東西182間(330メートル)、南北34間(61メートル)、周囲193間−−−、竹崎より西方海上直径100間(181メートル)に在り人家耕地なし、松樹疎立す。」と書いてある。」の記載がありますが、図における横島を見ますと、端島を若干小さくした程度の大きさで、横幅も400メートルを超えているように思えますがいかがでしょうか?。このような島が香焼のほんの少し沖合にあったとは本当に驚きです。


写真《 柿田 清英 氏 作成 》  < 関係者の許可を得て掲載 >
 故柿田さんが生前に作成された、横島の陸上と周辺海底の様子を描いたイラストです。柿田さんの説明を抜粋しますと、「前回は最も大きな岩礁の東側部分の水中で大きなブロック状の石垣を複数個見つけたに止まりましたが、今回は最も大きな岩礁の西側部分沖合いから飛島方向へ延びる延長約150メートルにも及ぶ万里の長城とまでは言えないまでも、とんでもない方向に延びる大きな石垣群を発見しました。雑な字と図ですが、横島と周辺海中のイメージを図面に起こしてみました。陸の探索では地底へ通じる入気孔、排気孔などの竪穴の存在の有無、痕跡が残っていないかを中心に調べてみましたが、発見出来ませんでした。天川は一箇所で発見。レンガは数個発見。陸は完全に普通の磯状態で、建物が建っていた、およそ700人にも及ぶ人々が生活していたという痕跡は全く発見出来ませんでした。」とのことでした。
 イラストに記載された石垣を結び付けていくと、島の西側部分のみとはなりますが往時の陸地の範囲を示していると思われ、その形は前出の《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の図面に近いものと思われます。
 柿田さんは、端島や中ノ島のみならず、横島も精力的に調査活動を続けておられました。おそるべし柿田さんです。


写真<明治34年の横島・東西の大きさ想像図>
下段の古地図は、<「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>(部分)より
 現在の写真に、<「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>から「横島」と「裸瀬」の間を切り出した図を配置し、明治34年当時の横島の東西の大きさを想像した図を作成しました。
 現在の光景の写真では、左側に横島の二つの瀬があり、右端に裸瀬が位置しますが、明治34年の横島は現在の写真の左端から写真の中央部(横島の裸瀬側の瀬と裸瀬の間)にかけて存在したこととなります。
 なお、素人の作成で縮尺等はきっちりしたものではなく、あくまでも大まかということでお許しをお願いいたします。また、古地図は写真と向きを合わせるために反転させています。


写真<2018年撮影>
 手前の二つ瀬が「横島」で、少し離れて「裸瀬」、少し距離を置いて中央に高島の「飛島釣公園」があり、左端が高島の「小島」になります。
 上段の「柿田清英氏作成イラスト」の説明にある「最も大きな岩礁の西側部分沖合いから飛島方向」の光景が説明できればと思い撮影しました。
 手前の二つ瀬の内、左側の瀬が「最も大きな岩礁」になるかと思いますが、その西側部分沖合いから飛島方向には「延長約150メートルにも及ぶ万里の長城とまでは言えないまでも、とんでもない方向に延びる大きな石垣群」が存在するようです。
 明治時代の中頃には、手前の二つ瀬と瀬から飛島方向に向かった場所に、端島よりほんの少し小さな島を造り、最盛期には約700人の方々が住まれていたそうです。少しでも多くの方に知ってほしい島の一つだと思います。


〔 図 面 に よ る 島 姿 の 変 遷 〕

「国土地理院」旧版地図の「横島の右端」と横島の左側にある「裸瀬」の間を抜き出した図により島姿の変遷を模索してみました。


写真<明治34年測量>(部分)
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名伊王嶋、測量年1901(明34)>
 明治34年測量ですので閉山間際の地図となりますが、人が住んで炭坑があった時の島の姿です。島の中央部分にある山の高さは「9.8」となっています。(単位:m)
 なお、<国土地理院ウェブサイト・伊能大図彩色図(肥前 長崎)>の図から考えますと、江戸時代から明治34年測量時の島の大きさはあったようで、明治時代の埋め立ては、海面を埋め立てたのではなく、瀬の上を埋め立てたのではないかと思います。


写真<昭和29年測量>(部分)
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺25000、図名長崎西南部、測量年1954(昭29)>
 明治34年測量時の地図と比較しますと、島の中央部分の山の高さは変わらずに「9.8」となっていて陸地にも変化はないように思えますが、島の右側部分では陸地が細くなり、左側部分ではかなりの部分の陸地がなくなっているように思えます。なお、そのことは、昭和22年撮影の「地図・空中写真閲覧サービス」の写真を見ましても伺えるのはないかと思います。
 また、《横島炭鉱・明治31年頃》の写真を見ますと、山を境にして、島の左右の陸地の高さは同じように見えますが、《昭和33年撮影による横島》の写真では、島の右側部分よりも左部部分の方が陸地が低いように思えます。


写真<昭和45年測量>(部分)
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺25000、図名長崎西南部、測量年1970(昭45)>
 ほぼ、現在の姿と同じかと思います。明治34年測量時の島の左側部分は完全になくなり、中央部分と右側部分も離れてしまっています。ちなみに、<横島(昭和37年の1)>の写真を見ますと、既に、昭和37年には中央部分と右側部分は離れているようです。


〔 昭 和 以 降 〕

写真<横島(昭和22年の1)>
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=164654)
1947/03/26(昭22)撮影写真から横島・香焼島の部分拡大を作成>
 昭和22年の光景です。元データには、高島等も写っており、横島部分が非常に小さくなるので、先ずは、横島と香焼島が写っている部分を拡大しました。写真下段が横島で、写真右上が香焼島です。


写真<横島(昭和22年の2)>
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=164654)
1947/03/26(昭22)撮影写真から横島周辺の部分拡大を作成>
 こちらの写真は、更に拡大し横島周辺のみを抜き出しています。昭和22年の撮影ですが、この頃はまだ横島は一つの島で、島の上の方(北側)には、護岸跡らしきものが点々と見えているように思います。
 ちなみに、<『香焼町郷土誌』、349頁>には「昭和初期の横島の山頂は、僅かにかやなどが生え、その中央に四角い形をした北排気鉱の跡があった。又、南側の絶壁の上には丸い形をした南立坑の跡が大きな口をあけており、どちらも海面くらいまで海水らしきものをたたえていた。」との記載がありますが、左写真を目を凝らして見ると島の中央部には大きな穴が何カ所か見えているような気がします。
 また、この頃までは、上段にある《鉱山ノ部 明治30年7月〜8月》の島の形がある程度残っていたように思いますが、島の色を見ますと、島の中央から右半分は地面が乾いているようですが、島の左側半分は海水で濡れているようで、島の右側よりも地盤が沈下しているものと思われます。


写真《昭和33年撮影による横島》
<出典:「香焼町郷土誌編纂委員会、『香焼町郷土誌』(町制施行30周年記念事業)、香焼町、平成3年10月1日、350頁」>
 明治時代の写真では小高い山の左右の地盤はほぼ同じ高さだったのが、こちらの写真では、二本ほど見えている小高い山の左側(高島側)の地盤は右側の地盤よりも低くなっていて、海面すれすれのようです。


写真<横島(昭和37年の1)>
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」
(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=557217)
1962/05/30(昭37)撮影写真から横島周辺の部分拡大を作成>
 本来の写真から横島周辺のみを抜き出しています。昭和33年以降の動きとしては<『香焼町郷土誌』、349頁>に、「閉山から約60年の星霜が流れた昭和40年(1965)ごろ、この横島に大きな変化が起こった。それは山頂の西側の岩礁が徐々に海中に没し、山頂も傾斜して少し沈下、山頂より東側も一部が水没して今日のように2つの岩礁の横島になった。」との記載がありますが、香焼に在住で横島にお詳しい方から、「横島が二つの瀬に分かれたのは昭和40年ごろよりも前ではないか、また、平成の始めには坑口はなくなっていたのではないかと思う。」とのお話を伺っていて、昭和37年撮影の左写真では、僅かな距離ですが既に島は二つの瀬に分かれていますので、横島が二つの瀬に分かれたのは昭和40年ごろよりも前になるように思います。
 また、写真右側(香焼側)の瀬が2枚上の<横島(昭和22年の2)>の写真よりも幅が広く写っているので、昭和37年撮影時は昭和22年撮影時よりも潮が引いているように思われますが、写真左側の瀬は昭和22年撮影時よりもうっすらとしか写ってなく、この部分においては地盤の沈下なり地盤の流失が進んでいるように思いました。
 ちなみに、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、501頁>に掲載の「位置・採掘範囲図」の横島の海面下には複数の断層と古洞の記号があります。


写真<横島(昭和37年の2)>
<出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」
(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=557217)
1962/05/30(昭37)撮影写真から横島周辺の部分拡大を作成>
 更に拡大した横島の中央部分の光景です、岩礁の上部(北側)には四角い構造物らしきものが見えていますが、<『香焼町郷土誌』、349頁>には「昭和初期の横島の山頂は、僅かにかやなどが生え、その中央に四角い形をした北排気鉱の跡があった。又、南側の絶壁の上には丸い形をした南立坑の跡が大きな口をあけており、どちらも海面くらいまで海水らしきものをたたえていた。」の記載があります。


写真《昭和42年撮影による横島 左の2島 遠景右が高島、左が端島》
<出典:「香焼町郷土誌編纂委員会、『香焼町郷土誌』(町制施行30周年記念事業)、香焼町、平成3年10月1日、350頁」>
 島は完全に二つに分かれています。


写真
《横島》
<写真は香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)より許諾を得て転載。>
 こちらの写真でいえば、左端に写る瀬の方に山頂があったように思います。
 ちなみに、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日>には、明治36年頃の出来事として、横島坑の社宅を仲山地区に職員社宅として5棟移築し、閉山まで使用した旨の記載があります。


写真
< 提供 長崎3Dプロジェクト 出水享(でみずあきら)氏 >
 遠くに写っている島が香焼です。その昔は、香焼手前の二つの瀬が繋がっていて、また、手前の瀬からも写真左側の方に陸地が延びていました。


写真
< 提供 長崎3Dプロジェクト 出水享(でみずあきら)氏 >
 上段の写真とは反対側からの撮影です、小高い瀬が遠くに写り、平たい瀬が手前にあります。平たい瀬の手前は海面下になっていますが、かなり浅いようです。


写真
< 提供 長崎3Dプロジェクト 出水享(でみずあきら)氏 >
 真上からの撮影です。右側の瀬が平たい瀬で、左側の瀬が小高い瀬になります。

 以前、柿田様からは「陸は平坦地中央でもフジツボやカメの手が普通に見られました。天川は一箇所で発見。レンガは数個発見。」との情報をいただいてます。


写真
< 提供 長崎3Dプロジェクト 出水享(でみずあきら)氏 >
 小高い瀬の拡大図です。今まで見てきた3枚の写真では小さく写っていましたが、かなりの大きさがあるようで、私は、この小高い瀬の部分は往事の山頂の場所ではないかと思っています。
 <『香焼町郷土誌』、349頁>に記載の「昭和初期の横島の山頂は、僅かにかやなどが生え、その中央に四角い形をした北排気鉱の跡があった。又、南側の絶壁の上には丸い形をした南立坑の跡が大きな口をあけており、どちらも海面くらいまで海水らしきものをたたえていた。」の部分で、往事には竪坑やぐらがあった場所ではないかと思っています。ちなみに、大まかな方位ですが、写真の左側が西側で、右側が東側、下側が南側になるかと思います。


〔 横 島 関 係 論 文 〕


https://doi.org/10.14863/geosocabst.2019.0_271
 〔 日本地質学会学術大会講演要旨・第126年学術大会(2019山口) 〕
   炭鉱開発の後に沈んだ島・長崎県「横島」の海底地形と地質


 

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