長崎港の概要 (『長崎港港湾計画資料 昭和29年11月』より) |
1570 | 元亀 元 | 葡船長崎港(領主 大村純忠)を発見し貿易港となすこと請う |
1571 | 元亀 2 | 3月長崎港を貿易港とし町制を定め9月葡船入港貿易をはじむ |
1677 | 延宝 5 | 大波止を増築す |
1695 | 元祿 8 | 大波止を増築す |
1882 | 明治15 | 砂防工事浚渫工事をなす |
1886 | 明治19 | 天津長崎航路開航(日本郵船自営航路) |
1897 | 明治30 | 港湾改良工事を起工した(30~37) |
1906 | 明治39 | 鋼鉄製浮桟橋を架設した |
1914 | 大正 3 | 長崎魚市場を尾上町に移した |
1920 | 大正 9 | 修築工事を起工した。(9~昭和2・)(出島岸壁元船町物揚場) |
1923 | 大正12 | 長崎上海航路設定 |
1930 | 昭和 5 | 鉄道が出島まで延長された |
1944 | 昭和19 | 長崎港改修工事を起工する(羽衣突堤) |
1948 | 昭和23 | 中の島突堤工事開始(長崎漁港修築事業) |
1950 | 昭和25 | 長崎開港380年紀念祭が開かれた |
1952 | 昭和27 | 元船突堤工事着工 |
《 長崎港の景 (應擧筆) 》 <所有絵葉書>
《 長崎港の大観 》 <出典:日本地理風俗体系(新光社・昭和5年発行)>
《 長崎港 》 <出典:日本地理大系(改造社・昭和5年発行)>
<2009年5月撮影> 左写真と、ほぼ??同じ方向。海が少ししか見えません。
《長崎港及ビ市街ノ全景(其二)》 <所有絵葉書>
長崎港内での汽船への石炭積込光景絵葉書です。
端島の石炭が使用されていたかどうかは不明ですが、長崎港内にも石炭が存在していた頃の光景です。
多くの人が写っており当時の活気を感じます。
<所有絵葉書> 時期不明ですが、長崎港を見渡す絵葉書です。
左の絵葉書から大波止付近と思われる部分を拡大してみました。
《長崎港大波止》 <所有絵葉書> 長い階段状のすべりが見えます。
《長崎港大波止》
<所有絵葉書>
左写真とほぼ同じ光景です。
《(長崎名所)長崎大波止場》 <所有絵葉書> 上段の左右二枚の絵葉書と同じアングルと思いますが、こちらの画像では、写真中央に桟橋が設けられています。
《長崎大波止》
<所有絵葉書>こちらは、カラー版です。
<出典:日本地理風俗体系(新光社・昭和5年発行)>
写真の説明として、「内国航路小蒸気船の発着所の景。最左端が九州汽船桟橋、次が市営桟橋、右端が市内電車の聨絡桟橋」との記載があります。
《長崎大波止三菱桟橋(一般公衆用)》
<所有絵葉書>
《 長崎大波止銃丸 》 <所有絵葉書> 絵葉書の右上には、「長崎旅行紀念 明治四拾三年」と書かれていると思われるスタンプがあります。ちなみに、こちらの絵葉書とすぐ下の絵葉書の桟橋部分には二本櫓の構造物が見えています。
《長崎大波止桟橋》 <所有絵葉書> 絵葉書の表には、「44.10.10」の消印があり、年に相当する部分の数字から明治の日付けと思っています。
<出典:日本地理大系(改造社・昭和5年発行)>
写真の説明として、「右方は五島、佐世保等に通ふ九州汽船の発着場にして、左方は各種発動汽船の発着場である。左方桟橋の尖端に着いているのは市内電車と連絡する電鐵丸である。」との記載があります。
《(長崎)大波止海岸(9.2.3)(長崎要塞司令部検閲済)》 <所有絵葉書> 二段上の絵葉書にある二本櫓の構造物がなくなっています。
《長崎 大波止桟橋
(昭和十年八月二十八日長崎要塞司令部許可済)》
<所有絵葉書>
《長崎大波止市有桟橋》 <所有絵葉書>
《長崎大波止場船着塲》
<所有絵葉書>
《(観光の長崎)大波止海岸》 <所有絵葉書>
《長崎大波止桟橋》
<所有絵葉書>
《 大波止の鉄玉(別名 鉄砲玉) 》
〔 大波止鐵砲玉 〕
| 波止場石階の傍に在り。寛永十四年島原の亂起りて平定せざること數月、長崎の唐通事穎川官兵衛一擧して賊壘を粉碎せんことを謀り、大砲の玉を製し海路之を原城下に送りたるも目的を達すること能はず。亂後更に廻送して之を大波止に置けるものなり。砲丸の周圍五尺六寸にして其の重量約千斤あり。 |
| 以上、<北野孝治、『長崎郷土誌』、長崎市小學校職員會、明治四十四年、三四九頁>より |
《(長崎)大波止銃丸》 <所有絵葉書>
《長崎大波止桟橋》
<所有絵葉書>
《長崎大波止ノ砲丸》 <所有絵葉書>
《 長崎大波止鐵砲玉 》
<所有絵葉書>
《 (長崎名所) 大波止の大砲玉(長崎要塞司令部許可済) 昭和12.1.25 》
<所有絵葉書> 建物の側に設置されている時のようです。
平成19年3月17日現在の「大波止の鉄砲ん玉」です。 昭和40年代後半には、先代ターミナルの少し内陸側の河口付近(確か、公衆トイレ付近)に有ったように思います。その後、位置を点々としますが、平成19年3月17日現在は、大波止の夢彩都の建物から、少し、駅側に行った部分に設置されています。なお、既設説明板の内容はそのままに、その説明板の前に、後日、新たな説明板が設置されました。
《 長崎港港湾計画 》
<図版は、『長崎港港湾計画資料 昭和29年11月』(請求記号16-401)収録の図面・「長崎港修築計画平面図(其二)」【長崎県立長崎図書館所蔵で許諾を得て掲載】>
図の右上部分の拡大になります。色が塗られている部分が計画箇所のようで、埋立(ピンク色)、浚渫(水色)、掘削(黄色)があったようです。なお、計画のとおりに修築が実行されたかは未確認です。
<図版は、『長崎港港湾計画資料 昭和29年11月』(請求記号16-401)収録の図面・「長崎港修築計画平面図(其二)」【長崎県立長崎図書館所蔵で許諾を得て掲載】>
左資料の中央部分の拡大図です。当時の大波止や出島付近の様子がお分かりいただけるかと思います。当該資料には、大正・昭和の標記はありませんが、「長崎要塞司令部検閲済 12.5.24」のスタンプ印があり、昭和12年頃の光景かと思っています。
また、よく見ますと、地図の下から電車の軌道が上に延びているのがわかりますが、現在の軌道の位置とは違うのがお分かり頂けるかと思います。
<図版は、『長崎港港湾計画資料 昭和29年11月』(請求記号16-401)収録の図面・「長崎港修築計画平面図(其一)」【長崎県立長崎図書館所蔵で許諾を得て掲載】>
上段の「長崎港修築計画平面図(其二)」の長崎港北側の修築箇所の拡大図になるようです。図には、旭町、浦上川、中ノ島、沖見川、尾上町、岩原川、元船町の名称が出ています。突堤のような場所ですが、後日の旧魚市付近になるのでしょうか?。
<図版は、『長崎港港湾計画資料 昭和29年11月』(請求記号16-401)収録の図面・「長崎港修築計画平面図(其一)」【長崎県立長崎図書館所蔵で許諾を得て掲載】>
上段の「長崎港修築計画平面図(其二)」の長崎港東側の出島町南側に位置する修築箇所の拡大図になるようです。図には、長崎税関、銅座川、常磐町、大浦川等の名称が出ております。
《長崎築港浚渫》 <所有絵葉書>
絵葉書右端には洋館らしき建物があります。小曽根付近の沖合になるのでしょうか?。
《 長崎港(旧大波止ターミナル等) 》
<2008年5月撮影>
長崎市大波止にある先代の大波止ターミナルビルです。昔、この建物前の桟橋から、端島・高島等行きの野母船、木鉢・神の島・伊王島等行きの長崎汽船、造船所への通勤船、五島航路の船、その他航路の船が出ておりました。建設時期は昭和40年代中頃のようで、1階待合室の椅子は木製で、待合室の角にはうどん屋さんが、そして2階にはレストランがありました。そして、この大波止ターミナルビルが建設される前は、九州商船、長崎汽船(当時)、野母商船各社の待合室は、それぞれの別の建物ようで、私には工事中の大波止ターミナルビルの記憶がかすかに残っています。
なお、現在では、このターミナルビルの左側に、新ターミナルビルができて待合室の機能は移転しておりますが、用途を替えて現役のビルとして頑張っています。
なお、かなり昔ですが、ターミナルビルがある元船突堤の先の方に、サーカスが来たことがありませんでしたでしょうか?。ぞうさんに、芋を与えたような記憶があります。
<2008年5月撮影>
ターミナルの反対側です。当事の光景が残っているような気がします。
<2008年5月撮影> ターミナルの反対側から少し長崎駅よりの交差点です。昭和40年代の前半かと思いますが「ウナギ釣り」のお店がありました。最終の便にて端島に帰る際等に遊ばせていただいた記憶がありますが、ウナギに針がかかっても、暴れられてすぐに糸が切れ、短い時間で終了していました。
<1974(昭和49)年写真>
<写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より>
昭和49年当時の「大波止ターミナル付近」の光景です。一番上の桟橋には、双胴船が接岸しているように見えますが、ぐらばあ?、あじさい?、それとも別の船でしょうか?。一番下の桟橋ですが、五島航路のフェリーは出航しているようです。なお、一番下に写る桟橋ですが、ターミナルビルができる前は、下段写真にあるように、もっと河口側にありました。なお、その時は、フェリー用の設備はなかったかと思います。
<1962(昭和37)年写真> <出典:国土地理院ウェブサイト (http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=557107)>
昭和37年撮影の国土地理院ウェブサイト写真から、大波止付近を切り抜いた写真です。
元船突堤はまだ工事中で、当然、大波止ターミナルもできていません。旅客船の待合所は小さな建物だったと思います。
また、国鉄・長崎港線の鉄橋付近に浮かぶ、多くの艀がとても懐かしいです。
●客船の定期航路 <長崎港港湾管理者発行「長崎港港湾計画資料」(昭和29年)より>
(一部、不鮮明な箇所有。なお、夕顔丸は、貨客船に分類されていました。)
航路名 | 経営者 | 本航路の就航船舶 | 寄港地 | 本港寄 港回数 | 代表船 |
隻数 | 総噸数 | 船名 | 総噸数 | 速力 |
三重航路 | 長崎自動車(株)海運部 | 2 | 96.44 | 式見、手熊、三重 | 5回 | 新海丸 | 59.67 | 8.5 |
伊王島航路 | 仝上 | 3 | 116.06 | 木鉢、小瀬戸、伊王島 | 8回 | 新興丸 | 57.13 | 8 |
福田航路 | 仝上 | 2 | 122.90 | 木鉢、小瀬戸、福田 | 10回 | 新昌丸 | 78.58 | 9 |
野母航路 | 野母商船(株) | 4 | 184.00 | 土井首、深堀、香焼、高島、端島、野母 | 11回 | つや丸 | 53.00 | 9.5 |
香焼航路 | 第一商船(株) | 1 | 21.22 | 土井首、長浜、香焼 | 2回 | 福神丸 | 21.22 | 5 |
仝上 | 川南工業(株) | 2 | 208.63 | 江川、香焼 | 2回 | 第1川工丸 | 193.63 | 6 |
伊王島航路 | 伊王島礦業所 | 2 | 95.77 | 伊王島 | 2回 | 光洋丸 | 61.42 | 10 |
私が知る昭和40年代頃では、三重航路及び福田航路は既に廃止され運行されていなかったと思います。また、伊王島航路は長崎汽船のみ、香焼航路も野母商船のみだったと思います。
●浮桟橋(一部、不鮮明な箇所有) <長崎港港湾管理者発行「長崎港港湾計画資料」(昭和29年)より>
名称 | 所在地 | 経営者 | 寸法(M) | 総延長(M) | 水深(M) |
区分 | 一連 | 二連 | 三連 | 四連 | 五連 |
一号桟橋 | 元船町 | 長崎市 | 長 | 18.2 | 18.2 | 21.0 | 18.4 | 18.4 | 124.0 | -2.4 | -3.2 | -4.1 | -4.7 | -5.3 |
巾 | 7.5 | 7.5 | 7.5 | 7.5 | 7.5 |
二号桟橋 | 元船町 | 長崎市 | 長 | 15.6 | 18.2 | | | | 48.6 | -2.4 | -3.2 | | | |
巾 | 7.7 | 7.7 | | | |
三号桟橋 | 元船町 | 長崎市 | 長 | 22.0 | 17.5 | 16.0 | 22.6 | | 97.5 | -2.1 | -3.2 | -4.4 | -4.8 | |
巾 | 10.9 | 10.5 | 10.2 | 10.2 | |