伊能忠敬『測量日記』
八月十七日
朝は曇天。四っ半頃(午前11時頃)より晴れ曇り。六っ半頃(午前7時頃)に大村領福田村を出立した。
同村の内、字観音岩鼻に昨日打ち止めた音印より初めて、惣一手で沿海を順に測る。字観音崎。御料所の高木作右衛門支配、浦上村の内、淵村字小瀬戸郷(小瀬戸町)。又、浦ともいう。赤瀬。左山上に小瀬戸の遠見番がある(間重富は享和二年・1802年7月19日に大阪と長崎の経度の差を測定する為に、この地で日月食の観測を行ったが、天候に恵まれず測量できなかった)。右三町(327m)ばかり沖に平瀬が一周三十間(55m)ばかりで隠瀬。丸瀬は周囲十間(20m)ばかりで隠瀬(現在、この二っの隠瀬は神の島工業団地として埋め立てられている)。谷迫。四株(シカブ)。横畑。小瀬戸郷、浦とも。人家下、字水主小屋という。左四町(436m)ばかり山上に中番所。左に不寝番所。左に制札。左一町(109m)ばかり上に南海上という観音堂。瀬崎のセの印迄、沿海一十二町五十三間三尺(1,406.36m)。
これより島へ渡る。淵村持ち鼠島(皇后島)一周四町三十八間一尺(505.76m)。
又、瀬崎のセの印より初めて、左に見送番所。蘭船(阿蘭陀船)や唐船が帰船の時に役人が詰める。中ノ屋敷。字木鉢郷(木鉢町)。ヤキサ川尻(矢草川)は巾三間(5m)ばかり。左に二十間(36m)ばかり上に塩硝蔵(道生田塩硝蔵。大砲の火薬類を保管していた蔵)がある。左白頭山。白頭浦。神崎。五番台場(台場は通商の無い外国船への警備の為に造られ、大砲を据えていた)。左神崎大明神。左見当塀。岩穴がある。一名クヒチガヒ。長崎入江口。一名を玉ノ浦、鶴ノ浦、深江浦、惣名を長崎浦という。神崎台場前にて打ち止める。淵村庄屋の志賀和一郎(親善)と散使の滝次郎(金子滝次郎)の案内。
沿海二十一町五十一間(2,383.64m)。沿海合計三十四町四十四間三尺(3,790m)。外に島を測り四町三十八間一尺(505.76m)。総測一里三町二十二間四尺(4,295.76m)。
それより乗船して御料所浦上淵村の内、稲佐郷(長崎市稲佐町)へ八っ後(午後2時過ぎ)に着く。止宿は本陣が庄屋志賀和一郎宅と別宿が忠蔵宅。この日、浦上山里村庄屋高谷重十郎(現在の浦上天主堂の地に居宅があった)と長崎村庄屋森田貞六(現在の桜馬場中学校の地に居宅があった)が(挨拶に)出て来る。長崎町測量掛の乙名春野半兵衛と同じく横瀬半三郎、手付の今井清四郎が四っ頃(午後11時頃)初めて来る。勝手掛、即ち賄いの道山民蔵も来る。
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背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日 |