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伊能忠敬『測量日記』

八月二十五日


 朝は曇り。四っ半頃(午前11時頃)より晴れる。同所に逗留して測る。

 六っ半時頃
(午前7時頃)より乗船。御料所浦上淵村の内、水ノ浦郷。昨日の打ち止めより初めて、沿海を順に測る。

 平戸小屋郷。小川尻八間
(14.55m)。左の小山の上は旧平戸陣所の跡で、その故で名がある。今は塩硝蔵がある。江ノ浦。江ノ浦川十一間(20m)。稲佐郷。左の山上二町(218.18m)ばかり引き込んで、浄土宗筑後国の善導寺の末寺で終南山悟真寺(この時の住職は十三代・香譽)。旧唐寺である。船津浦。稲佐崎。左の山上に一ヶ所、御代官持ちの台場がある。稲佐郷。鯨堂。庄屋の志賀和一郎宅で小休止。

 割石。左に井戸がある。唐人はこの水を貰うそうである。長崎大黒町口への渡し場。海上を六町
(654.55m)という。稗田。稗田川巾二間(3.64m)。坊ヶ崎(現在の稲佐橋の南付近)。横瀬(現在のトヨタカローラ付近)。菜切川巾二十七間(49.09m)。菜切堂。竹窪郷。左の弁天社(現在は淵神社)で昼休み。

 別当古義真言宗宝珠山万福寺(この時は住職がおらず、能仁寺より兼帯)。梅ヶ谷。鎌。大川尻(浦上川)巾二十四間(43.64m)。船渡し直(ねだん?)三銭。俗に言う三銭渡し。浦上山里村里郷。新土井に印を残す。沿海を三十町五十九間(3,380m)

 これより左の大川添いに打ち上げて山里川との落ち合い迄、横に四町三十間(490.91m)
 又、印より初めて沿海を測る。左に五町ばかり(ここでは距離ではなく面積か)の新田堤(現在の茂里町。蓮田であった。)を通る。曲尺(カネ)ノ手。馬篭下。馬込郷。左に三十間(54.55m)ばかり山上に筑後善導寺の末寺で浄土宗天王山聖徳寺。横に一十六間一尺(29.39m)、時津街道へ出て、印を残す。

 御船蔵
(現在の九州電力)。御船番所。塩硝蔵(御米倉の上に、文化5年薬師寺久左衛門が造った)。御米倉(現在のNHK長崎放送局)。北瀬崎。長崎村船津浦。御奉行支配市中大黒町裏の沿海で打ち止め、印に終わる。

 沿海一十九町十八間
(2,105.45m)。沿海の合計は一里一十四町一十七間(5,485.45m)。外に横物が四町四十六間一尺(520.30m)。総測一里一十九町三間一尺(6,005.76m)

八っ半頃
(午後4時過ぎ)に宿へ帰る。

背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日
悟真寺 (写真1) 志賀庄屋跡と割石付近 (写真2)
淵神社(弁天社)。 (写真3)
当時、石燈篭は海中にあった。
聖徳寺 (写真4)

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