伊能忠敬『測量日記』
八月二十七日
晴天。同所に逗留して測る。六っ半頃(午前7時頃)に出立した。
江戸町裏。昨日打ち止めたテ印より初めて、沿海を順に測る。左に俵物御蔵。昆布蔵。新地への渡り口。石橋の右柱の五印に繋げる。沿海五十一間(92.73m)。
これより新地へ渡ることにする。横に一十六間(29.09m)。石橋の巾八間二尺(15.15m)。新地唐人荷物蔵の門前に門印を残す。
又、五印より初めて、沿海を順に測る。銅庄跡。溝尻八間(14.55m)。溝川尻十三間(23.64m)。本篭町の新地。石橋の手前に十の印を残す。沿海二町二十九間(270.91m)。
これより新地へ渡る。石橋六間(10.91m)。門前に△印を残す。横に二十五間三尺(46.36m)。
新地唐物蔵を右にして回る。右の唐物蔵番所前の門前の門印に繋げる。三町二間三尺(331.82m)。
又門前の△印に繋げる。一町二十七間四尺(159.39m)。新地唐物蔵は一周四町三十間一尺(491.21m)。
又、石橋手前の十印より初めて、沿海を横に三十三間一尺(60.30m)。石橋の上の石印に繋げる。
御料所長崎村十善寺郷。昆布蔵(通称は南瀬崎御蔵。市民病院の裏付近)。大村領戸町村枝大浦。左に大村領番所。大浦番所という。大浦の大印迄(梅香崎中学校)、沿海を五町五十九間(652.7m)。
此より十善寺郷の入り口の三の印迄繋げる。横物二町(218.18m)。
又、大印より初めて沿海を測る。大浦川尻巾八間(14.55m)。東本願寺派法嶺山妙行寺で昼休み。
弁天崎(現在の東急ホテル前。道栄崎とも下り松ともいった)。左の山上に弁天社(現在の東急ホテルの敷地内であるが跡はない)。左に小笠原太膳大夫陣所(唐津藩の陣所。現在地は不明。海洋気象台付近か)。それより島原陣所(現在地は不明。浪の平小学校付近か)。小菅浦。汐ハヤリ崎。左に一町(109.09m)ばかり引き込んだ所に遠見番所。戸町御番所。黒田藩と鍋島藩が交代する。当年は黒田藩持ち。戸町村人家の下。戸町浦という。左は佐賀領の飛び地で人家が五軒。左に大村領番所。小川尻巾十五間(27.27m)。戸町崎。岩井浦。女神崎。女神御台場。左に三町(327.27m)ばかりの魚見岳の中腹に新規の御台場がある。右に三十間(54.55m)ばかりで女神島(現在は道路の一部になっている)。一周五十間(90.91m)ばかり。女神崎の遠測用の幟に繋げる。沿海を打ち止めて、一里一十一町二十五間五寸(5,173.88m)。外に唐物蔵、即ち島を測り、同じく四町三十間一尺(491.21m)。横物合計三町一十四間四尺(353.94m)。総測一里二十八町二十八間五尺五寸(7,034.39m)。
それより乗船して七っ半時(午後5時)に宿へ帰る。この夜、星を観測する。
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