伊能忠敬『測量日記』
九月五日
晴天。同所に逗留する。六っ後(午前6時過ぎ)に出立した。
(本隊)
手分けして、我等・門谷・尾形・保木・佐助は彼杵郡佐嘉領の土井首村字崎網代。昨三日に打ち止めた代印より初めて、左山の方に沿海を測る。サの印を残す迄一町(109.09m)。
これより瀬戸巾は二十一間(38.18m)。佐世婦島へ渡る(現在は埋め立てられて無い)。一周一町五十二間三尺(204.55m)。
サ印より初めて、坊ヶ崎。黒口ノ浦。三日に土井首村より横切って残した黒印に繋げて、六町二間(658.18m)。
竿ノ浦村(竿ノ浦町)字江川は小流で人家がある。字居(スエ)石(長崎市末石町)の人家前迄、一十二町五十七間(1,412.73m)。これより瀬戸巾を取り二十四間二尺(44.24m)。深堀村字戸泊。船蔵がある。字亀ヶ崎の人家前にメ印を残す。一十四町四十二間(1,603.64m)。
これより向かいの海へ横切りカ印を残す。横切り三十一間三尺(57.27m)。止宿で昼休み。
メ印より初めて、堂ヶ崎を回り、横切って残したカ印に繋げる。一町二十一間(147.27m)。
深堀本村字船津の測所に至り三町九間(343.64m)。深屈屋敷。枝有海(アルミ)。呼崎のヨの印に沿海を終る。九町一十八間(1,014.55m)。
沿海合計一里一十二町二十九間(5,289.09m)。繋げて十二間(21.82m)。外に深堀村持眉(マユ)島(現在は埋め立てで無い)は一周二町六間三尺(230m)。同村持ち野牛(ヤギ)島は一周六町三十四間三尺(717.27m)。同上。女島(現在は埋め立てで無い)は一周二町(218.18m)。本名は弁才島。四島の合計一十二町三十三間三尺(1,370m)。外物が一町一十六間五尺(139.70m)。惣測一里二十六町一十九間二尺(6,798.79m)。
(支隊)
永井・今泉・箱田・甚七は香焼島(長崎市香焼町)を測る。八月二十八日に蔭尾島より引き渡して置いた香印より初めて、右山の方に測る。小瀬戸の一印迄、沿海三町九間(343.64m)。
これより山越えして横切り、向かいの海辺の字馬刀(マテ)ノ浦へ出て、馬印を残す。横切り二十七間(49.09m)。
又、一の印より初めて、沿海を測る。左に三十間(55m)ばかり離れて、明岩島は一周三十間(55m)ばかり。馬刀ノ浦を横切った馬印迄、沿海六町三十七間四尺(723.03m)。
馬刀崎。長浜に十印を残す迄、沿海八町二十八間四尺(924.85m)。
これより山越えして横切り、向かいの海辺の字カンタイ浦(馬手ヶ浦)に出て、カの印を残す。横切り五十四間(98.18m)。
又、十印より初めて、沿海を測る。左に四町(436m)ばかりはなれた松島(現在は埋め立てられて深堀と香焼島とは陸続きで、三菱長崎造船所になっている)は一周五十間(91m)ばかり。左は瀬続きで満切りの岬。横物片打ち三十間(54.55m)。深浦にフの印を残す。沿海七町二十四間(807.27m)。
これより山越えして横切り、向かいの海辺の字丸島浦に出て、丸印を残す。横切り一町一十八間(141.82m)。
又、フの印より初めて、沿海を測る。灯篭崎。左に瀬続き三十間(55m)ばかり。石灯篭がある。枝香焼島分。右に二町(218m)ばかり石壇の上に曹洞宗香焼山円福寺。香焼島本村を島村という。百姓の幸治兵衛宅で昼休み。梅木崎(梅ノ木鼻)。尾上(ヲノエ)浜。右に三町(327m)ばかり山上に遠見番。竹崎。枝田馬。平治河原。枝栗ノ浦の入口で沿海を打ち止めて、栗印を残す。沿海一里一十四町一間四尺(5,458.03m)。
沿海合計二里三町四十一間(8,256.36m)。外に横物三町九間(343.64m)。総測二里六町五十間(8,600m)。
別手は八っ半時後(午後3時過ぎ)、当手は七っ半時前(午後5時前)に宿へ帰る。この夜は晴天で風、測量する。
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背景の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものです。
※国土地理院承認番号 平14総複、第253号 平成14年10月9日 |