○48号棟
最終の48号棟 : 昭和30(1955) 鉄筋コンクリート造5階 鉱員社宅
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<写真は、「長崎グラフNO.2 昭和三十一年三月一日発行」より>
写真奥に写る建物が48号棟ですが、昭和31年発行の本に掲載されている写真なので、完成したての頃の様子となります。
48号棟の住居は水洗式トイレがある最新の住居でした。また、地階は、地上階と同じぐらいの広さがあり、最後はパチンコ屋や麻雀屋がありましたが、その前は卓球場でした。
ちなみに、卓球場の前は住居としても使用されていて、お菓子屋のニコニコ屋さん〔お店は57号と新65号の間のマーケット内に有〕のおばあちゃんが住んでいたことを覚えていますし、地階に住んだことがある方からは、30号棟近くの商店街に店はあったが、昭和30年代初めの台風被害時に、その避難先として、地階に中二階的な店舗兼住居(地階はかなりの高さがあったように思います。)を構えたことのお話しを伺いました。
あと、建物的特徴としては、1階の日給側中央部には出っ張った部分があり、磨りガラス越しに地下がぼんやり覗けていました。
《キャッチボール こんな高いところで(昭和34年)》
| <写真は、平成16年1月15日発行の「端島(軍艦島)」より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
写真右側の大きな建物が48号棟ですが、屋上では子どもたちが遊んでいる姿が見えています。なお、屋上の両端には塔屋がありましたが、私には塔屋に上がって遊んだ記憶があります。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より> お寺から日給社宅方向を撮影した写真です。閉山時の48号棟や51号棟の姿がなく、その場所には木造二階建ての建物が見えていますが、日給の18・19号棟が9階建てとなっていることや、閉山時に51号棟があった場所に、それ以前にあった
砿業所武道場兼体育館が見えないことを考え合わせると、昭和10年代前後の撮影ではないかと思います。
ちなみに、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、75頁>の写真の説明には、「[1952]島南西部の昭和館裏あたりの低地にあった木造2階重ね建ての社宅。つき当たりに見える防波堤の陰に45~49号の5棟が並んでいた。1970時には撤去され、39号棟の公民館と48号棟の5階建て鉱員アパートのRC建物に建て替えられている。」の記載があり、続いて、「[1952]写真と同じ住宅の47号棟の平面図。」として手書きの図面が掲載されていて、建物の一部には「飲食店」の記載があります。私も島の先輩から、昔、48号棟の付近には食堂があって映画撮影にも使用されたことがある旨を伺っています。