○二代目ドルフィン桟橋
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。
<長崎県技師古賀秀樹、「端島におけるドルフイン式棧橋工事」、土木技術、14(10)、1959-10、59~66頁>から、二代目ドルフィン桟橋に関する主立った事項を以下に記載させていただきます。ちなみに、9号台風とは初代ドルフィン桟橋が流失した昭和31年8月の9号台風のことになります。
- 復旧計画
ほとんど類例のない特殊なケースであるため実現性のある名案は、結論を得ぬまゝに一年有半の日子が流れたが、その間たゆまざる努力は常に払われてきた。かくて一年有半の間幾多の案が考案され研究され検討された結果最終案として得たものは
- 波高は9号台風で記録された7mを採用する
- 護岸からドルフイン桟橋前面までの距離は27mにした
- 海底地盤を(-)9mまで掘さくする
- 繋船用(大型)と綱取用(小型)の二基とし、天端高は大型で(+)8.30m、小型で(+)4.70mにした
- 護岸の橋台とドルフインの間に幅2m、長さ18mの固定渡橋を架し、さらにドルフイン内に幅2m、長さ8.55mの可動橋を架し、潮位に応じて護岸の背後に設けた運転室で電動ウインチを操作する
- ドルフイン桟橋の主体をなすものはラーメン構造の鉄骨で、大牟田市で製作仮組立後長崎に陸送し、さらに高島まで海上運搬陸揚げし、高島の県営ケイソン工場前で組立て、さらに海上運搬して据え付けた
《建設工事中の端島ドルフィン桟橋(第2回)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
昭和33年11月9日に竣工し、昭和34年9月17日?流失と超短命でした。
初代のドルフィン桟橋は、島から船まで一本の橋でしたが、二代目は、島から沖合いにある桟橋までは固定式の渡橋で、桟橋から船までは可動式の渡橋となっていました。また、
初代では柱面の幅は四面全て同じ?ですが、2代目は、潮が流れてくる南部方面の幅は、抵抗を減らす為か、かなり狭いようです。
<写真は、「高島町十年の歩み(町制施行10周年記念)」高島町役場(昭和33年)より>
あと少しで完成の頃の光景でしょうか?。<長崎県技師古賀秀樹、「端島におけるドルフイン式棧橋工事」、土木技術、14(10)、1959-10、59~66頁>を参考に、左写真の光景を想像しますと、奥にある繋船用の大型ドルフィンと陸岸との間には固定渡橋が架かって、大型ドルフィン内に可動橋が設けられ、大型ドルフィンの手前には綱取用の小型ドルフィンが設置されている光景かと思いますが如何でしょうか?。
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
二代目のドルフィン桟橋が完成し、旧桟橋での最後の上陸をする乗船客です。バックの護岸上には大勢の見物人がいらっしゃいます。
《島の別れ(昭和34年)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
写真右下にある桟橋(2基ある内の北側)が低いのも初代ドルフィン桟橋との違いの一つです。
《ドルフィン桟橋(第2回)の接岸状態を見る夕顔丸と甲板長。(昭和33年頃)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
《ドルフィン桟橋完成後の乗船風景(昭和34年)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
渡橋の骨組構造や土台の階段の手摺りがパイプ製等二代目の特徴がよく分かります。ちなみに、<長崎県技師古賀秀樹、「端島におけるドルフイン式棧橋工事」、土木技術、14(10)、1959-10、60頁>の<図-3>をご覧いただくと初代とニ代目の渡橋の骨組構造の違いがよく分かるかと思います。
なお、お持ちでしたら、<写真:伊藤千行、文章:阿久井喜孝、「軍艦島 海上産業都市に住む」、株式会社、岩波書店、1995、p.48>の写真50を一度ご覧下さい。南部沖合から朝顔丸が接岸している二代目ドルフィン桟橋を撮影した写真があります。波の抵抗を少なくするために初代より小柄な姿と、初代は、島と桟橋間の渡橋が波の干満に合わせて上下していたのが、二代目は、島と桟橋間の渡橋は固定で、ドルフィン桟橋内にあった短い渡橋が上下する図式がよく分かります。