<長崎県技師古賀秀樹、「端島におけるドルフイン式棧橋工事」、土木技術、14(10)、1959-10、59~66頁>から、初代ドルフィン桟橋に関する主立った事項を以下に記載させていただきます。
- 県では事業費2,100万円をもつて想定波高3mに対するドルフイン式可動桟橋の建設に、昭和28年12月着工同29年8月これが竣工を見た
- 昭和31年8月九州を襲つた9号台風は波高7mを記録し、一瞬にしてこれを破壊流失してしまつた
- ドルフィン桟橋は県が直営施行したもので、その構造の大要は次のとおりである
- 位置は、島の東側南端に近く在来貨客の乗降場に隣接し、護岸線から約40mの海上で水深はその前面で(-)10mである
- 渡橋は巾員2m、長さ38m 潮位に応じて固定手巻きウインチで渡橋の一端を上下した
<出典:家の光・第三十巻第八号(家の光協会・昭和二十九年七月一日発行)>
場所的には、ドルフィン桟橋があった海上付近の光景ですが、この写真が掲載されている書籍に掲載されている別の写真を見ますと初代ドルフィン桟橋の姿が見えないようなので、初代ドルフィン桟橋の工事着手前か工事中の頃の写真で、手前の木造船は船上が平らのようなので、人を乗せて社船と島を結ぶ連絡船ではなく、荷物運搬船のように思えますがいかがでしょうか。
《二九・八 桟橋落成式》 <写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より> 写真のメモには撮影条件でしょうか、F16、1/100、∞等の記載がありました。
《竣工を祝って2代夫婦を先頭に渡り初め。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
昭和29年8月27日竣工で、昭和31年8月16日までの短い命でした。ちなみに、
<町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)(昭和三十年二月十日)>には、交通船乗客数(1日当り)として、乗客250、降客251の記載がありました。
《端島に第1号ドルフィン桟橋が完成》
<出典 : 高島町政三十年の歩み 町制施行30周年記念史>
東側(野母崎)より望む光景です。同規模の桟橋が2基あり向かって左の桟橋に島からの可動式渡橋が設けられていました。
ちなみに、<長崎県港湾協会、『長崎県の港湾』、長崎県港湾協会、昭和43年8月31日、187頁>に記載の「高島港」の説明には「昭和29年8月20日端島は高島港域に編入された。」の記載があり、『長崎県の港湾』に添付の「港湾事業実績表」に記載がある高島港「港湾整備状況」の係留施設にはドルフィンの記載があって、28年度の欄に「数量1.0基、事業費15,000千円、国費6,000千円」の記載があります。
《ドルフィン桟橋(第1回)が完成し、「夕顔丸」が横付けに接岸でき、船への乗降は大変楽になりました。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
西側(島)から望む光景です。かなり高い所からの撮影のようですが、もしかしたら第二竪坑櫓の上からでしょうか?。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
初代ドルフィン桟橋に接岸しているのは、もしかしたら、
野母商船の初代「つや丸」かと思いますが如何でしょうか?。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
夕顔丸が接岸しようとしています。
<写真は島の先輩より> 山道ぐらいからの光景でしょうか。海面には、初代ドルフィン桟橋の姿が覗えます。また、貯炭場内には、閉山の頃にはなかった建物が写っています。
<写真は島の先輩より> こちらも山道ぐらいからの光景と思いますが、左の写真よりも、65号棟の方に、少し、移動した地点からの撮影のようです。
初代ドルフィン桟橋には、夕顔丸が接岸し、島と船を結ぶ橋を多くの人々が渡っているようです。
ちなみに写真の左端ですが、閉山の頃には貯炭場と護岸の間には通路がありましたが、まだ、この頃は通路は設けられていないようです。
《端島ドルフィン桟橋(第1回)の流失直前の写真(昭和31年7月)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
南側から望む光景です。
《昭和31年4月》 <高比良勝義氏(元島民)撮影> 北側より望む光景です。ドルフィン桟橋と端島を結ぶ可動式渡橋の先(下)には、初代ドルフィン桟橋ができる前に使用していたクレーン式桟橋や小舟が見えていますが、初代ドルフィン桟橋と併用されていたのでしょうか?。
《見送りの姿(31年4月の撮影)》 左写真に写る手前側の桟橋上部部分の拡大になります。
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> この写真、「端島(軍艦島)」では昭和34年頃(二代目ドルフィン桟橋)の写真として紹介されていますが、
渡橋の骨組みの形や
渡橋土台の階段の手摺りがパイプ製ではないことを考えますと、初代ドルフィン桟橋の光景ではないかと思っています。
ちなみに、<長崎県技師古賀秀樹、「端島におけるドルフイン式棧橋工事」、土木技術、14(10)、1959-10、60頁>の<図-3>をご覧いただくと、初代とニ代目の渡橋の骨組構造の違いがよくお分かりいただけるかと思います。
《昭和31年8月19日撮影》 <高比良勝義氏(元島民)撮影> 台風で流出した初代ドルフィン桟橋の陸側部分の光景です。
写真中段には階段がある構造物がありますが、これはドルフィン桟橋への渡橋の土台で、階段の手摺りについては2代目ドルフィン桟橋の時のパイプ製とは違い、コンクリート製のように思われます。
《昭和31年撮影》 <高比良勝義氏(元島民)撮影> 夕顔丸の直ぐ下に、海から三角形の構造物が突き出していますが、もしかしたら、流失した初代ドルフィン桟橋でしょうか?。