○三代目ドルフィン桟橋
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《端島ドルフィン桟橋(第三回)竣工落成式。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
ドルフィン桟橋上には2基の門型の枠がありチェーンブロックの姿も見えていますが、奥の方(右側)にある枠に設けられた可動式桟橋で乗降りを行っていました。
《昭和36年12月から野母商船「せい丸」「つや丸」が長崎←→高島←→端島間に就航(昭和38年頃)》 | <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
島に住んでいたときですが、海水が凄く綺麗で、ドルフィン桟橋から海底の姿を見たことが一度だけありますが、砂利が綺麗に敷き詰められていました。
なお、<『週刊朝日』、朝日新聞社、昭和37年4月27日発行、通巻2236号>に掲載されている島全体の航空カラー写真の中に、工事中の三代目ドルフィン桟橋が写っていますが、その姿は桟橋の北側と南側はかなりできているのに中間部分は海面と同じぐらいか少し低いぐらいまでしかできていないようで、大雑把に言えば、中央の部分が窪んでいる現在の上陸観光用のドルフィン桟橋に割と近い形ではないかと思います。また、二代目のつや丸かせい丸らしき船が学校海岸の沖合から出発したような航跡も写っていますので、二代目のつや丸・せい丸が完成した昭和36年12月からドルフィン桟橋が使用開始されるまでの間には野母船も学校海岸から艀を利用していた時期があったのではないかと思います。余計なことですが、私にも学校海岸から艀を利用して沖合に停泊している黒い船(おそらくは夕顔丸)に乗船した記憶があります。
ちなみに、掲載紙の発行は昭和37年4月ですが、写真撮影から出版までの時間も必要で、写真は発行日よりも少し早い時期の撮影のように思います。
<村里 榮 氏撮影> 野母船から見るドルフィン桟橋の光景です。船尾の方では2本のロープを使用し係船していましたが、そのロープの受け渡しをする方2名の姿が見えております。
私の記憶違いの節はご容赦をお願いしたいのですが、船尾の2本のロープの内、最後尾のロープはドルフィン桟橋から渡すロープ(輪なし)で船尾にあった丸い機械でロープを巻いてました。また、ロープの始端はドルフィン桟橋ではなく島の護岸からでした。あと、後尾の機関室側のロープは船から渡すロープで、ロープの先に作った輪をドルフィン桟橋の係船柱にかけて船側では2本組の柱にロープを巻き付けていました。ちなみに、船首部はドルフィン桟橋から渡すロープ一本のみで、残念ながらロープの始端はドルフィン桟橋か島の護岸かは覚えていません。
なお、ロープ本数はあくまでも通常時で荒天時には増えていたのかも知れません。
<村里 榮 氏撮影> ドルフィン桟橋のバックには、
昭和40年代初め頃にできたと思われる「二号炭」の保管・積込設備が写っています。
野母船の2階からドルフィン桟橋へ荷物を移していますが、手前の方は板を利用して荷物を滑らせています。ちなみに、潮の干満により野母船の2階も上下しますが、この時はドルフィン桟橋と野母船の2階の高さは割と近い状態のようです。
<村里 榮 氏撮影> ドルフィン桟橋から野母船に渡る橋がかなり斜めとなっておりますので干潮時の撮影でしょうか。このような状態となると上段写真に写る板を利用しての荷物の移動は不可能かと思いますので、荷物の移動にはかなりの力が必要だったかと思います。
ちなみに、上段写真とこちらの写真に写る方の服装を見てみますと、上段写真の撮影時は夏場で、こちらの写真の撮影時は夏場でしょうか。
<村里 榮 氏撮影>
ドルフィン桟橋への橋から、南部方向の光景かと思います。この付近には、クレーンが2台設置されておりました。