○境界関係資料

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 江戸時代の境界関係資料である《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》と《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》とを比較し、その関連性を探ってみました。あくまでも素人の個人的な感想で、間違った解釈や判読等が多々あるかと思いますが、ご一読をいただき、ご指導等をいただけましたら幸いです。



〔 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 〕

写真《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》
< 所蔵:軍艦島資料館 >
 以前の軍艦島資料館にて展示されていたもので、現在の軍艦島資料館では展示されていません。移転する前の段階で運営者様のご了解を頂いて拙HPに掲載させていただいてます。
 写真右側が「村界地図」の部分で、中央から左側が「奥書」の部分となるようです。なお、写真上部には蛍光灯の写り込みがあって、写真右下にも他の展示品が写らないように白く塗りつぶしている箇所がありますこと、ご容赦をお願いします。


写真《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》(部分1)
< 所蔵:軍艦島資料館 >
 上段写真の中央上部にあるタイトル部分の拡大です。ちなみに、安永2年は西暦1773年となるようです。


写真
《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》(部分2)
< 所蔵:軍艦島資料館 >
 冒頭の写真右側にある「村界地図」部分の拡大です。こちらにも、冒頭の写真と同様に、他の展示品が写らないように白く塗りつぶしていている箇所がありますこと、ご容赦をお願いします。



〔 蚊焼村江高浜村野母村より之図 〕

写真
《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》
< 所蔵:佐賀県立図書館 >
 「佐賀県立図書館データベース」(外部リンク)の「古地図・絵図データベース」に収納されています。すぐ上の《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書(部分2) 》と非常によく似ているように思います。

写真《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》(部分1)
< 所蔵:佐賀県立図書館 >
 《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》の凡例部分の拡大です。凡例には「御料」・「佐嘉領」・「海川」と「双方ヨリ手入不致分并道」とおぼしき記載の四項目に併せて、各項目の場所であることを表わす色が示されています。
 「佐賀県立図書館データベース」に掲載されている《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》(外部リンク)にて当該図を拡大し閲覧しますと、「野母村・高濵村・川原村・樺嶋村(文字が一部欠落していますが「樺嶋村」と思われます。)」は「御料」の色で示され、「蚊焼村・為石村・脇御﨑村」は「佐嘉領」の色で示されていますので、《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》は「御料」と「佐嘉領」との「境界地図」としての意味合いもあるかと思います。なお、「安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書」での凡例の色分けは五項目あるようです。


〔 両図の部分図比較 〕

 下段に、《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図 》と《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》からの部分図を並べて比較しましたが、記載されている字句や文字の色、地形等に若干の相違はあるようですが、示している内容は同一の内容のようです。


写真
《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》(部分3)
< 所蔵:軍艦島資料館 >
 「村界地図」上段部分の拡大です。中段左端から端嶋・中嶋・下二タ子嶋・上二タ子嶋・鷹嶋・香焼と続きますが、下二タ子嶋と上二タ子嶋の間を通っている黒色の太い線が村界の一部となるようです。
写真
《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》(部分2)
< 所蔵:佐賀県立図書館 >
 左図面とほぼ同じ部分の拡大です。こちらでも中段左端の島が端嶋になりますが、端嶋・中嶋・下モ二タ子嶋は野母村・高浜村(図の左下の部分)や蚊焼村(図の右側の部分)とは違う色で示されていることが分かります。
 《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》からは「野母村・高浜村→蚊焼村」の地域情報が、《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》からは「蚊焼村←高浜村・野母村」の地域情報が得られ、両図とも「野母村・高浜村→蚊焼村」の地域情報となるようです。示されている内容も同一の内容のようで、《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》は《 安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書 》にて取替された「村界地図」の片方か、または、その類の図ではないかと思いましたが如何でしょうか?。ご指導・ご鞭撻をいただけましたら幸いです。



〔 初嶋 佐嘉領ニ而ハ端嶋ト唱 〕

写真《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》(部分3)
< 所蔵:佐賀県立図書館 >
 端島の部分をさらに拡大し、文字を読みやすいように図を180度回転させていますが、「初嶋 佐嘉領ニ而ハ端嶋ト唱」の記載があり、端島は二段上の凡例では「双方ヨリ手入不致分并道」とおぼしき記載の色で塗られています。
 上段にある〔 両図の部分図比較 〕右側の《 蚊焼村江高浜村野母村より之図 》が分かりやすいかと思いますが、端嶋・中嶋・下モ二タ子嶋は境界線の左側にあって「御料」側に位置していますが、島の色分けでは「御料」の色でも「佐嘉領」の色でもなく、「双方ヨリ手入不致分并道」とおぼしき記載の項目の色で示されています。ついては、この頃の状況を示した図となる可能性もあるかと思いますが如何でしょうか?。


〔 現在の光景 〕

写真<2021年10月撮影>
 長崎半島から高島を望む光景です。
 その昔の高島は、明治の中頃までは一つの島ではなく、高島と上二子島及び下二子島の三島に分かれていまして、明治の終わりか大正の始め頃に、二子坑開発のため上二子島と下二子島の間が埋め立てられ二子島となり、大正の終わり頃に高島と二子島が地続きとなりました。
 左の写真で説明しますと、その昔は、左側の小さな山の部分が下二子島、中央の小さな山の部分が上二子島、写真右側の大きな山の部分が高島となります。また、おおまかではありますが、下二子と上二子の間の村界となっていた箇所に黄色のラインを追加していますので往時を感じていただければ幸いです。
 炭坑が稼業していた頃は、二子の地には炭坑施設が所狭しとありましたが、今では写真のとおり平地となっていて、当時を知る方にとっては寂しい限りかと思います。ちなみに、私には、端島から野母船に乗って高島港に向かう途中の発電所や貯炭場、二基の石炭積込桟橋が思い出に残っています。
 なお、ブログ「 みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行" 」には、高浜村と蚊焼村の境界箇所について、詳しい情報や写真が掲載された「 野母崎の散策 (1) 黒浜の風景・史跡  長崎市黒浜町 」のページがありますので、こちらもご覧をいただけましたらと思います。


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