〔 明 治 前 〕
<長崎市軍艦島資料館 所蔵>
以前の軍艦島資料館にて、2枚の図面が上下に展示されていた時の光景です。ちなみに、
現在の軍艦島資料館 では展示されていません。
上の図は「安永2年2月25日 野母.高浜村より蚊焼村へ取替し村界地図並に奥書」となっていて、1773年頃の様子で端島も描かれていますが、詳しくは
こちら をご覧ください。
※写真右下の白い四角は他の展示物を隠すために設けています。 また、下の図は「寛政10年9月.野母・高浜陸境を基点とせる西方海上島々の方位図」ですが、図には、上二子島、下二子島、中の島、三ツ瀬も描かれていて、「中の島」の島の形から、この図を描いた大まかな地点が想像できます。ちなみに、下図が「ハシマ」部分の拡大となります。
《寛政10年9月.野母・高浜陸境を基点とせる西方海上島々の方位図(部分)》
「寛政10年9月.野母・高浜陸境を基点とせる西方海上島々の方位図」から端島の部分を抜き出しました。「字ハシマ」の記載があり、島の右端には、海面すれすれに少し平らな場所が見えるようです。
《文久2年(西暦1862年)の端島(下)と中ノ島(上)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」高島町教育委員会(平成16年)より許可を得て転載> |
右下の島が端島で、左上の島は中の島になります。
〔 明 治 〕
《「中ノ島」写真》
<グラバー写真より 長崎県立長崎図書館所蔵、二次利用禁止です。>
ほぼ同じ光景の写真が明治14年の撮影と紹介されている新聞があり、左写真も同時代の写真ではないかと思います。高島の下二子から望む光景で、写真中央の島が「中ノ島」で、その右側の島が「端島」のようです。「中ノ島」には、煙が出ている煙突や竪坑櫓らしき姿が見えています。
<高島から端島・中の島を望む>
高島から端島・中ノ島を望む光景ですが、高島の堤防と端島の高層建築物や護岸を除くと、左写真と同じ構図には見えないでしょうか?。
「 《「中ノ島」写真》 <グラバー写真より 長崎県立長崎図書館所蔵、二次利用禁止です。> 」 の部分拡大 《「中ノ島」写真》から端島の部分を抜き出しました。端島からも、かなりの量の煙が立ち上っていて、それも海面すれすれの場所からではなく、高い場所からの煙のように思えます。山頂付近からの煙とも考えられますが、
<端島炭坑ニ関スル報告書 : 大隈大蔵卿宛> <リンク先 : 「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」>には「蒸汽ポンプ」のことが記載されていますので、当該報告書作成の明治9年には端島に汽缶があって煙突があったと思え、断定はできませんが、この写真の煙も煙突から出ている可能性もあるかと思っています。もしかしたら、下段の《石炭資料館所蔵写真》に写る煙突から出ている煙になるのでしょうか?。
《石炭資料館所蔵写真》 <長崎市高島石炭資料館蔵> ※見やすいように画像処理にて色を修正しています。 写真のタイトル等は不明です。間違いでしたらお許し願いますが、おそらくは、遠くに見える島が端島で、手前の瀬の部分が中ノ島ではないかと思います。
《石炭資料館所蔵写真(部分)》
| <長崎市高島石炭資料館蔵> ※見やすいように画像処理にて色を修正しています。 |
《石炭資料館所蔵写真》からの抜き出しです。あくまでも写真に写る島が端島だったとした場合の話ですが、煙突は見えているのに第一立坑の本櫓らしき姿は見えていません。
ほぼ同じ時期と思われる中ノ島の竪坑櫓の高さからして、本櫓があれば見えてもいいかと思いますので、第一立坑が開削中で本櫓ができる前の光景かと思いますが如何でしょうか?(第一竪坑の設置時期は
こちら をご覧ください)。なお、石炭積出桟橋と思しき姿も見えるような気がします。
<出典:長崎県千名鑑(九州日の出新聞社・大正元年発行)> 上段写真では1本だった煙突が3本に増えていますが、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、巻頭>にも「端島炭坑(明治39年)」のタイトルで、ほぼ同様の構図と思われる写真が掲載されています。
また、<『九州鉄道案内』,九州鉄道,明38.4, コマ番号57(右側・70頁). 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/766595/1/57 (参照 2023-09-16)>に掲載されている「高島炭坑端島」がタイトルの写真も貯炭場前の船の位置や三ツ瀬が写っているかどうかの違いはありますが、島の左側に停泊している数隻の船の配置がほぼ同様であるため両写真は同日に僅かな時間差を置いて撮影されたもので、書籍の発行年から本写真についても遅くとも明治38年までには撮影されている可能性があるように思っていて、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016年、ファイルdesign0209(本文)30頁>では、本写真から周辺を切り取った以外は同様の光景と思われる写真が「明治 37 年頃のはしま」との説明で掲載されています。
本写真の撮影時期を推測するには島の最北端部分(一般的な埋立資料では明治33年や34年の埋立拡張地とされる部分で、閉山の頃に病院や隔離病棟があった付近)の存在が重要な指標の一つになるかと思いますが、本写真に写る端島には護岸の特徴から最北端部分があるように思われます。ついては、最北端部分は明治34年測量の
<「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)> では描かれていないようで、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016年、本文ファイル(design0209)19頁>においては、「字図誤記の可能性」として「島の最北端部分」の登記は明治38年の可能性がある記載があることから、本写真の撮影は明治37・38年頃の撮影と思いますがいかがでしょうか?。ちなみに、島の東北端の埋立と思われる
「明治三十二年六月十日付申請内容」 には「成功ノ期限 許可ノ日ヨリ五ヶ年」の記載があります。
《グラバー資料アルバムより》 <収蔵: 長崎歴史文化博物館> 大きな煙突が3本あり、左側と中央の煙突から煙が出ていますが、右側の煙突からは煙は出ていないようです。また、本写真においても最北端部分(閉山の頃に病院や隔離病棟があった付近)の埋立は実施されているようです。
《端島炭坑》
| <出典:『長崎案内』(第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎市協賛會・明治四十年十月発行> |
本写真は、書籍の発行年から遅くとも明治40年までには撮影された写真になるようです。また、左写真よりは広範囲での撮影となっていますが、左写真と本写真では、島の形、船・煙突の配置、煙突の煙の向き等が同じように思え、ついては、左写真についても遅くとも明治40年までには撮影された写真になるかと思っています。
なお、『長崎案内』の「長崎の沿革」欄には「高島端島等の石炭は本港に多大の利益を與え」の記載や、「高島炭坑・端島炭砿」欄には「港外七里にあり本邦炭坑の鼻祖として其名内外に知られ今尚ほ多額の出炭あり毎日數回滊船の便あり」の記載があり、同書に掲載されている高島の写真は
こちら になります。
《長崎坑外端島炭坑全景》
| <『華の長崎』長崎文献社刊(ブライアン・バークガフニ氏蔵)より許可を得て掲載> |
上段の写真から煙突の数が1本減って2本となっています。ちなみに、この絵葉書と同じと思われる写真が、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、71頁>では明治40年の写真として紹介されています。また、<『長崎県実業案内』,第十四回西南区実業大会事務所,明42.9. コマ数7. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/801554/1/7 (参照 2023-09-16)> の下段にも、この絵葉書と同じと思われる写真が掲載されているようですので、書籍の発行日の点から明治42年までには端島の煙突は2本に減っていることになるようです。そう言えば、この絵葉書には明治43年に完成している筈の建物が見えていないような気がします。
なお、長崎の「手彩色絵葉書」をご紹介されている
『 長崎手彩色絵葉書 Antique Hand-tinted Postcards of Nagasaki 』 様のサイト内に掲載されている
《長崎港外端島炭坑全景》の絵葉書は、上段の《長崎坑外端島炭坑全景》の絵葉書を「手彩色」化した絵葉書と思いますが、非常に綺麗で、また大きなサイズにて掲載いただいていて、その「手彩色絵葉書」から感じた主立った点を下記に記します。
- 上段の「島に3本の煙突」がある写真を見ますと閉山時に65号棟があった周辺には2本の煙突が写っていますが、「手彩色絵葉書」では1本と少なくなっていいて煙突の形も四角形から丸形に変わっているようです。
ついては、閉山時に65号棟があった周辺の煙突は、昔あった2本の内の1本の煙突が残っているのではなく、新しく建て替えられた煙突ではないかと思います。
- 閉山時にドルフィン桟橋があった付近の煙突は「手彩色絵葉書」では、はっきりと四角形の形をしているのが分かりますが、こちらは「島に3本の煙突」時代の煙突がそのまま残っているのではないかと思います。なお、ここの煙突のすぐ右側には、明治43(1910)年に発電所が設けられますが、まだ、その大きな建物は見えていないようです。
- その昔、閉山の頃に56号棟や57号棟があった付近に二棟の校舎がありました が、まだ、下の方の校舎しかなく、上の方の校舎はできていないようです。
《端島の埋立拡張経過図及び埋立以前の地形図》
| <左図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載> |
《端島自然系と附近の岩礁及び砂洲》 | <写真は、「端島(軍艦島)」高島町教育委員会(平成16年)より許可を得て転載> |
埋立については非常に興味があるところですが、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、172頁>では、明治24年の「端島海面埋立方法書」について、「この海岸埋立工事について特筆すべきは,従来石垣工事は専ら天川(前記石灰と赤土の混合物)が用いられたとされたが,前記方法書並びに添付設計書によれば,この時期,端島ではセメントを用いていたことである(設計書にセメント弐百五拾桶-石垣建築用と記載あり)。水面下の岩礁に栗石,石材を敷き重ね,これを根石巻するときは,水中でも容易に使える天川を凝固材として用い,次いで,防波堤で遮断してセメントで密着・補強工事を行い,水面上石垣は専ら石材・荒石をセメントで固定し、間隙に天川を埋める方法によって施工された。」の記載があります。
なお、埋立拡張経過についてはいろんな情報があり、下記の情報についても非常に興味が湧くところです。
《 図 24 改訂端島変遷図 2016。筆者作成、2016.03 》
各種資料を非常に詳しく調べられた明治時代の埋立変遷図です。例えば、「閉山の頃に坑木置場だった部分(旧第三竪坑巻座上屋南側周辺)」は通常の資料では明治32年拡張の箇所となっているようですが、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016年、本文28頁>では、1918(大正7)年の実習報文に添付された地形図の護岸外郭線とそれまでの図の護岸外郭線とを重ね、「閉山の頃に坑木置場だった部分」の箇所を「〇印」で示した「図19 端島坑外図」が掲載されていて、その説明には「 長崎歴史文化博物館蔵の1899(明治32)年、自1月至2月、第二課事務簿、海面埋立之部には、長崎県へ提出された埋立地所有認定願に添付された「埋立地所有認定願添付実測図」(図20)がある。認定を受けた公有水面埋立願の区域の中で、埋土が遅れる箇所があり、護岸整備が行われた後も〇部(図19左下)の埋立てが完了するのは、大正期以降となる。」の記載があり、上段の明治時代埋立期検証図面でも埋立地とは示されていません。
なお、「閉山の頃に坑木置場だった部分」の埋立時期について正確な記録には巡り会っていませんが、拙HPに掲載の写真で、「閉山の頃に坑木置場だった部分」が埋立てられている最も古い写真は
「大正14年(1925)台風被害跡の復旧工事」の写真と思われます。
《高島炭鉱模型》 <2015.07撮影> 高島炭鉱模型から端島の部分を撮影し、説明のために赤色の「〇印」を追記しました。この模型は明治42年作成の原作模型を基に後年新たに作成された模型とのことで、
二子島 の状況からも、明治42年か、その少し前の状態の端島と思われます。
「閉山の頃に坑木置場だったと思われる部分」付近に赤色の「〇印」を追記してみましたが、私には「閉山の頃に坑木置場だった部分」は護岸の外側(海側)に位置するようで、そのために写真に写る当該部分の護岸は閉山の頃と違って凹んでいるように思えますがいかがでしょうか?。
《高島炭鉱模型》 上段写真に追記した赤色の「〇印」付近を横から見た光景です。私の誤りの節はご容赦をいただきますが、護岸の手前には色が黒っぽくて土砂が積み重なっているように思える部分があって、
こちら に記載の「私有地千四百〇九番ニ堆積スル土石」との関連が非常に気になるところです。なお、上段写真において、土砂が積み重なっているように思える部分は、閉山の頃でいえば海底水道取込口付近から島の南端にかけての台風時によく被害を受ける箇所のようです。ちなみに、大正初期の頃の撮影と思われる当該箇所の光景は
こちら をご覧ください。
《資料名:海面埋築ノ部 明治19年5月~9月》
| <長崎歴史文化博物館収蔵 資料番号:県書 16 13-5> |
左の図面は、標題資料に収納されている「海面埋立願(明治十九年三月十一日、長﨑縣西彼杵郡深堀村 鍋島孫六郎、端島海面一万零九百五十二坪)」の別紙図面です。
図面では、島の中に描かれている四角形の陸地の左右と下側部分を埋め立てる計画となっていますが、埋立を断念した部分もあるように思われます。
ちなみに、下段に掲載の図面では陸地部分を示すのに今回のような四角形は用いられていませんが、
《借区開坑願 3/明治7年》の図面 では四角形を用いて島の陸地部分を描いているようです。
《鉱山ノ部 明治28年9月~12月》 <長崎歴史文化博物館収蔵> 埋立関係ではなく鑛區増區関係書類の
「明治二十八年自九月至十二月 第五課事務簿 鑛山之部」に収納されている実測図 から、端島の部分を抜き出して、他の図と比較しやすいように約180度回転させました。
実測図記載の符号説明によると、灰色?の部分が原野で、だいだい色?の部分は宅地とあり、その外側(図の右上から左横、閉山の頃で言えば病院付近から第二竪坑付近)には白色?の磯が細長く存在していますが、当該部分の島の大きさは、以前、テレビ番組で放映されていた「明治24年 端島石炭坑出願坑区実測図(三菱史料館 所蔵)」の島の大きさとほぼ同じように思われます。
そして一番外側には朱色の線があり「埋立中ノ境界」との記載がありますが、その広さは、二段下の図面の《鉱山ノ部 明治30年5月~7月》における白色?の部分まで含めた端島の広さと同じように思います。
従いまして、私としましては、明治28年の記載から、明治24年頃の埋立状況に、その後の計画範囲を示してはいますが、部分的に埋立が完了ないし途中の場所は反映させていない図面と思っています。
《鉱山ノ部 明治27年1月~2月》 <長崎歴史文化博物館収蔵> 埋立関係ではなく鑛區増區関係書類の
「明治二十七年自一月至二月 第五課事務簿 鑛山之部」の鑛區図 から端島の部分を抜き出した図ですが、閉山の頃、貯炭場だった部分や南部方面はまだ埋立が行われていないようです。
上段図面における原野や宅地及び磯部分の外側に、白い部分がかなり増えているように思われ、私としましては。明治27年の記載から、明治24年頃の埋立状況に、部分的に埋立が完了ないし途中の場所も反映させている図面と思っています。
従いまして、図面の作成時期としては、上段図面よりもこちらの図が早い時期となっていますが、端島の埋立状態としては、こちらの図を後年のものとして掲載させていただいてます。
《鉱山ノ部 明治30年5月~7月》 <長崎歴史文化博物館収蔵> 埋立関係ではなく鑛區増區関係書類の
「明治三十年自五月至六月 第五課事務簿 鑛山之部」の実測図 から、端島の部分を抜き出して、他の図と比較しやすいように約180度回転させました。
二段上の《鉱山ノ部 明治28年9月~12月》の図において埋立中となっている場所の内、閉山の頃で言えば、南部寄りの場所は「磯」を示す符号の色(白色?)に変わり、ドルフィン桟橋・第二竪坑口付近から59号棟付近までの場所が「宅地」を示す符号の色(ピンク色?)に変わっています。
ちなみに、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016、本文ファイル(design0209)18頁>に掲載されている『図6 字図による埋築の変遷推定、筆者作成。
※数字は土地台帳の旧地番である。』において、こちらの図の「宅地」を示す符号の色(ピンク色?)に相当する埋立箇所の埋築は明治29年で旧地番は
「1414」となっていますが、
《水面埋築原簿 明治22年1月起》(長崎歴史文化博物館収蔵) に収納されている『西彼杵郡髙濵村字端島・明治廿四年四月八日指令』の記録にも、朱書きで後日追記されたと思われる「一四拾四番」らしき記載があり、埋立計画時の面積としては「海面参千貮百六拾四坪〇六夕」と思しき記載があります。また、朱書きで実測面積と思しき記載もあって、私には不明な文字が多く断定はできませんが「吉町弐反八畒拾四歩」と思しき記載もあります。
なお、こちらの図の南部寄りの「磯」を示す符号の色(白色?)で塗られた箇所は、直ぐ下の図の「明治三十二年自一月至二月 第二課事務簿 海面埋立之部」の図の埋立地所有認定箇所と同じ形と思われ、完成にはもう少し時間がかかるようです。
●
明治三十年一月二十六日 端島炭坑埋立地登記 端島炭坑海面埋立地壹町貳段八畝拾四歩登記ヲ了ス
| 以上、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 十九』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十六年復刊、一五一頁>より あくまでも私見ですが、上述の「吉町弐反八畒拾四歩」の記載と非常に似た数字ではないかと思います。 |
《第二課事務簿 海面埋立ノ部》 <長崎歴史文化博物館収蔵>
「明治三十二年自一月至二月 第二課事務簿 海面埋立之部」に収納されている「埋立地所有認定願」(
明治三十一年十二月十二日付け、明治廿六年十二月廿一日埋立許可)の別紙図面で、タイトルは「長崎縣肥前國西彼杵郡高濵村字端島 海面埋立實測圖」ですが、こちらの図の左端に位置する所有認定申請地の形は、上段《鉱山ノ部 明治30年5月~7月》の左端に位置する「磯」を示す符号の色(白色?)で塗られた箇所と概ね同じ形のようです。
ちなみに、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016、本文ファイル(design0209)18頁>に掲載されている『図6 字図による埋築の変遷推定、筆者作成。
※数字は土地台帳の旧地番である。』において、こちらの図の左端に位置する所有認定申請地に相当する埋立箇所の埋築は明治32年で旧地番は「1416」となっています。また、当該地に関する資料としては、
《水面埋築原簿 明治22年1月起》(長崎歴史文化博物館収蔵) に収納されている『西彼杵郡髙濵村字端島・卄六年十二月卄一日』に「千四百十六番」や「三十二年二月廿一日指令」の記載もあります。
なお、
こちら の写真に写る護岸が、この図における端島の左端上部に位置する護岸ではないかと思っていますがいかがでしょうか?。
《第二課事務簿 海面埋立ノ部》 <長崎歴史文化博物館収蔵>
《明治三十年自二月至六月 第二課事務簿 海面埋立ノ部》に収納されている『海面埋立願(
明治三十年二月十日付け)』の別紙図面で、タイトルは「長崎縣肥前國西彼杵郡高濵村字端島 海面埋立願之圖」となっており、関連書類には面積数が弐千五百七坪弐合壱夕四才で金額合計は二九、六八五円(石垣築造12,185円、埋立17,500円)とあります。ちなみに、閉山の頃で言えば図面右端が南部で左端の51号棟となる付近まで、30号棟の西側も含めて一直線に埋め立てる計画だったようですが、実際には30号棟の西側は埋め立てられていません。
なお、
《水面埋築原簿 明治22年1月起》(長崎歴史文化博物館収蔵) に収納されている『西彼杵郡髙濵村南越名字端島・三十年六月三日』の記録にも「水面坪数弐千五百七坪弐合壱夕」の記載(末尾の「四才」の記載なし。)がありますので、『海面埋立願(明治三十年二月十日付け)』と『西彼杵郡髙濵村南越名字端島・三十年六月三日』の記録は同じ箇所の埋立記録と思っていますが、『西彼杵郡髙濵村南越名字端島・三十年六月三日』には朱書きで「卅六年九月七日」や「千四百十六番」・「千四百十七番」・「埋立許可取消し」とそれらの面積数と思しき記載もあって、「埋立許可取消し」の箇所は前述の「30号棟の西側も含めて一直線に埋め立てる計画だったようですが、実際には30号棟の西側は埋め立てられていません。」の箇所ではないかと思いますが如何でしょうか?。また、記録には「工業塲」と思しき記載と朱色の「地種目変換」と思しき押印もありますので、当初「工業塲」用地として申請し、後日、住宅及び住宅関連敷地のための地種目に「地種目変換」を行ったものと思っています。(埋立完成箇所の南部には後年になってから工場群もありましたが、それ以前の埋立完成箇所全ては住宅及び住宅関連敷地として使用されていたように思います。)
更には、<中村 享一、『明治期三菱端島坑の形成過程に関する研究 : 端島から軍艦島へ』、九州大学学術情報リポジトリ(
http://hdl.handle.net/2324/1789440 )、2016、本文ファイル(design0209)18頁>に掲載されている『図6 字図による埋築の変遷推定、筆者作成。
※数字は土地台帳の旧地番である。』の「明治36年」の図では「1416-1」や「1417」の記載があって、私としては『海面埋立願(明治三十年二月十日付け)』と『西彼杵郡髙濵村南越名字端島・三十年六月三日』及び『図6 字図による埋築の変遷推定、筆者作成。
※数字は土地台帳の旧地番である。(明治36年の図)』は、同じ箇所の埋立記録ではないかと思っています。
●
明治三十年二月三日 端島炭坑海面埋立 端島炭坑住居家屋敷地貳千坪埋立工事総経費壱萬五千圓ニテ工事着工ヲ認許ス
| 以上、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 十九』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十六年復刊、一五三頁>より |
明治三十二年六月十日 端島海岸埋築 高島炭坑端島支坑事業進捗ニ隨ヒ土地狭隘ナルニ至リ、予算金壹万七千圓ヲ以テ
島ノ東北端ニ於テ海岸ヲ埋築シ地積
九百五十坪ヲ獲ントシ、石垣五百坪ノ築堤工事ヲ施スコトトス
| 以上、<三菱社誌刊行会編纂、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三三ニ頁>より |
※
残念ながら埋立図面の添付はありませんが、長崎県歴史文化博物館収蔵「資料名:海面埋立ノ部 明治32年5月~6月、別名:第二課事務簿、オリジナル番号:16 21-3 3」には、端島海岸海面埋立関係書類(明治卅二年六月十日付・村会議長名による答申書、明治三十二年六月七日付・三菱合資会社代理人による願書)が収納されていて、書類には「西彼杵郡髙濵村字端島千四百十四番新開地先」・「海面坪数 千百十五坪四合参勺参才」・「成功ノ期限 許可ノ日ヨリ五ヶ年」などの記載があります。坪数としては上段地積の九百五十坪とは相違がありますが、日付が明治32年6月10日で一致し、私としては
千四百十四番新開地先 の場所は島の東北端と思え、『三菱社誌 二十』と「海面埋立ノ部」の当該埋立書類は同一埋立箇所の記載ではないかと思っていますが如何でしょうか?。
<出典 : 「国土地理院」旧版地図、縮尺20000、図名高嶋、測量年1901(明34)> 明治34年測量の地図から端島の部分を切り抜き、島の一番外側の輪郭と思われる線を朱書きにて明示しましたが、朱書きの線の内側には島を一周取り囲む線のような記号があり、また、その内側に、閉山の頃の場所で言えば、隔離病棟ぐらいから島の西側(地図の上側)・南側(左側)を経てドルフィン桟橋があった場所ぐらいまで、鉄道路線のような記号があります。(貯炭場付近には鉄道路線のような記号はなし)
そこで、それらの地図記号についてお調べいただきましたところ、『「島を一周取り囲む線のような記号」の部分は、「垸工擁壁」記号と判読できますので、護岸を表しているとのご認識でよろしいかと思います。「鉄道路線のような記号」の部分は、「垸工牆」記号と判読できますので、おそらく、石やコンクリートのようなものでできた塀や垣根のようなものではないかと推測されます。』とのご回答でした。
おそらくは、「鉄道路線のような記号」がある部分は台風時には大波を受けるために高い護岸があった部分かと思いますが、
こちら の写真を見ますと低い護岸から高い護岸に切り替わる様子がうかがえます。また、
《長崎端島炭坑》絵葉書(リンク先のページの最上段右側)には、大正初期以前に撮影されたと思われる貯炭場付近の光景が写っていて、絵葉書中央部の護岸は海面から地表までの高さしかありませんが、絵葉書の右端には護岸の上に石垣のような物が見えていて、2種類の線はこのような構図を示しているのではないかと思いますが如何でしょうか?。
ちなみに、煙突(2箇所)、
学校の地図記号は描かれていますが、神祠や佛宇の地図記号は見当たりません。(同じ旧版地図の中にある高島には神祠や佛宇の地図記号が描かれています。)
また、島の形を下図と比較しますと、こちらの地図には一般的な埋立資料にて明治33年や34年の拡張地とされる部分(閉山の頃に病院や隔離病棟があった付近)が描かれていないように思いますがいかがでしょうか?。
《埋立ノ部 明治39年1月~3月》 <長崎歴史文化博物館収蔵>
「明治三十九年自一月至三月 土木課事務簿 埋立之部」に収納されている「公有水面埋立願」(
明治三拾八年七月廿一日付け)の別紙図面です。
なお、「公有水面埋立願」の公有水面埋立方法書には、地盤丁掘(長さ、幅、深さ、石垣は天川およびセメントにより地盤据付等)や石垣(長さ、高さ、幅、使用割石の大きさやセメント天川により充填等)等の記載があります。
《埋立ノ部 明治39年1月~3月 (部分)》
昔の端島の写真にも登場していますが、閉山時には隔離病棟があった場所付近(左側図面の島の右上)には、当時の
「すべり」が描かれています。
《埋立ノ部 明治39年1月~3月 (部分)》 <長崎歴史文化博物館収蔵> 公有水面埋立願から埋立箇所付近の拡大です。場所的には、ドルフィン桟橋から島に渡った箇所の左側となります。下段写真でいえば朱色の矢印の先にある箇所となるようで、下段写真の黄色の矢印の先に相当する場所には階段を示すと思しき記号?が見えるような気がします。また、「公有水面埋立方法書」には「千四百〇九番地先」や「埋立ハ専ラ坑内ヨリ搬出スル捨石及私有地千四百〇九番ニ堆積スル土石ヲ以テ埋立ルモノトス」と思しき記載があります。
《高島炭鉱模型》 <2015.07撮影> 高島炭鉱模型から端島の部分を撮影し、説明のため矢印を追記しました。ちなみに、明治42年に作成された原型模型を基に後年作成された模型であり、明治42年頃の端島の状態を示している模型と思っています。私には、朱色の矢印の先が上段の「公有水面埋立願」の埋立箇所ではないかと思っていて、黄色の矢印の先にある護岸と護岸の間に隙間の場所は、上段の図に於ける階段を示すと思しき記号?がある場所のような気がしますが如何でしょうか?。
<2014年1月撮影> おそらく、左側写真や下段写真に写る石垣が、「明治三十九年自一月至三月 土木課事務簿 埋立之部」に収納されている「公有水面埋立願」にて埋立実施された箇所の護岸と思います。
<2014年1月撮影>