<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十三』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二〇五二~二〇五四頁>に記載されている「社誌第二十一巻 大正三年」の「高島炭坑起業費追加認許」には、「上二子島山腹交通路新設費」として600円の起業費が認許されています。また、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日発行、38頁>には、「大正時代の社宅建築」が記載されていて、その中には、「上二子幹部社宅(山の上) 大正3年~6年」、「上二子職員社宅(海岸側) 大正7年~8年」、「下二子商店街(船着場付近) 大正元年~3年」などの記載があります。以下、時代別の状況変化を考えてみました。
〔 大正時代 〕
大正年代の撮影と思われる絵葉書2枚で、上二子幹部社宅(山の上)、上二子職員社宅(海岸側)、下二子商店街(船着場付近)の場所を想像してみましたので、ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示いただければ幸いです。
《 (長崎港外)高島蛎瀬炭坑全景 All-view of kase Colliery Takashima, Nagasaki. 》
<所有絵葉書> 絵葉書にある「長崎遊覧紀念 13.6.16」のスタンプから、大正13年かそれよりも少し前に撮影された写真を使用した絵葉書かと思います。
絵葉書中段の左端から海に向かって延びている突堤のような構造物は
双子島表海岸発着場で船着場だった場所ではないかと思いますが、もし正解だとしますと、前出の「下二子商店街(船着場付近)」の説明から、その付近には下二子商店街があることになるようです。
また、絵葉書の左上部分が上二子となりますが、中腹の建物は前出の「上二子幹部社宅(山の上)」で、その社宅下の海岸線付近の多くの建物が「上二子職員社宅(海岸側)」ではないかと思っています。
なお、私が間違っている場合はご容赦をお願いしたいと思いますが、以下の理由により、こちらの絵葉書のタイトルとなっている
《 (長崎港外)高島蛎瀬炭坑全景 All-view of kase Colliery Takashima, Nagasaki. 》 は誤りで、
《 (長崎港外)双子島役人社宅 The Home of Firm Futakojima, Nagasaki. 》 が正しいタイトルのように考えます。
- こちらの絵葉書の絵葉書のタイトルとなっている 《 (長崎港外)高島蛎瀬炭坑全景 All-view of kase Colliery Takashima, Nagasaki. 》 からすると場所は「蛎瀬炭坑」で「全景」の光景となりますが、こちらの絵葉書の撮影の場所は「二子」であり、また「全景」ではなく「部分」的な撮影であると思われること。
- こちらの絵葉書にある「長崎遊覧紀念 13.6.16」のスタンプがある他の絵葉書を確認しましたところ、絵葉書のタイトルと撮影の場所に相違があると思われる絵葉書がもう一枚あり、そちらの絵葉書のタイトルは 《 (長崎港外)双子島役人社宅 The Home of Firm Futakojima, Nagasaki. 》 となっていますが、場所は「蛎瀬炭坑」で「全景」の光景と思われ、そちらの絵葉書のタイトルには 《 (長崎港外)高島蛎瀬炭坑全景 All-view of kase Colliery Takashima, Nagasaki. 》 が正しいと思われること。
- あくまでも個人的な考えですが、こちらの絵葉書には「上二子幹部社宅(山の上)」と「上二子職員社宅(海岸側)」といった上級職種の社宅が写っているように思われ、絵葉書のタイトルには「双子島」や「役人社宅」の項目がある 《 (長崎港外)双子島役人社宅 The Home of Firm Futakojima, Nagasaki. 》 が正しいと思われること。
- 比較検討しました絵葉書2枚は、絵葉書作成の段階でタイトルが入れ替わったものと思いますが如何でしょうか?。
《 (長崎港外)双子島全景 All-view of Futaojima, Nagasaki. 》
<所有絵葉書> 上段絵葉書と同様に、「長崎遊覧紀念 13.6.16」のスタンプから、大正13年かそれよりも少し前に撮影された写真を使用した絵葉書かと思います。
絵葉書左側の小高い山が上二子になりますが、左端の部分が上段絵葉書に写る中腹の上二子幹部社宅(山の上)のように思います。
ちなみに、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日発行、42頁>には「1935年 昭和10年 「山の神」を高島神社に合祀。 上二子山頂の通称「山の神」箱崎八幡社を高島神社に合祀。」の記載があり、
「高嶋神社縁起」には「昭和十年(一九三五) 砿業所は、下二子に、大正の初頭、斜坑開坑時に分祀していた通称「山の神」箱崎八幡社を高嶋神社に合祀、」の記載があります。
〔 昭和時代 〕
< 出典:国土地理院ウェブサイト
( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=556709 ) >
1962/05/30(昭37)撮影写真から上二子周辺の部分拡大を作成 1962/05/30(昭37)撮影の写真から、上二子周辺の部分拡大を作成しました。写真左下の黒く広い部分が貯炭場だと思います。
赤色の矢印の先にある黄色の線で囲まれた部分が「上二子幹部社宅(山の上)」の場所かと思いますが、「上二子幹部社宅」の上が高島側、下が下二子側、右が野母半島側で、左が外海側になります。
なお、「上二子幹部社宅」の場所から上下に2本の細い線が延びていますが、もしかしたら「上二子島山腹交通路」でしょうか?。ちなみに、下に延びている細い線は最初の絵葉書でも確認ができるようです。
また、「上二子幹部社宅(山の上)」から、左側(外海側)に向かって細い線が延びていますが、その線が切れる箇所付近までが、上二子の山の部分だと思います。
〔 平成時代 〕
<2008.03撮影> 2008年の撮影ですが、上二子の山の光景です。山の先が高島側で手前側が下二子側、山の右側が野母半島側で左側が外海側になります。
<2008.03撮影> 野母半島側の高島側には山頂への通路があり、最初の方の地面は土でした。ちなみに、昭和時代の写真では上二子の北側から「上二子幹部社宅」に延びている細い線の通路になるかと思います。
<2008.03撮影> 暫く進むと、コンクリート製の階段になりました。
<2008.03撮影> 野母半島側の中腹?です。住居用でしょうか。多くの構造物が残っています。
<2008.03撮影> 台所でしょうか?。
<2008.03撮影> 水タンク?。
<2008.03撮影> 建物の基礎らしき物がありますが、地面は畑として使用されているようです。
<2008.03撮影> コンクリート製の物干し台?。
<2008.03撮影>
畑を使用している人が利用しているのでしょうか?。物干し竿が載っかっています。
<2009.04撮影> 畑から外海側に少し行くと境界柱らしきものがありました。また、境界柱らしきものの左側には錆び付いたワイヤーがありました。藪の中で正確な位置はわかりませんが、野母半島側と外海側の中間ぐらいの場所と思います。
<2009.04撮影> このような四角い石もありました。
<2009.04撮影> さらに先に行き外海側の光景ですが、石?の階段がありました。なお、階段は少し降ると途切れており、そこから先は崖となって通路らしき姿は残っていませんでした。
<2009.04撮影> 左写真の階段の部分から望む高島方面の光景です。
<2009.04撮影> 左写真の階段を地表レベルから見上げた光景です。
<2009.04撮影> 上段写真の撮影の箇所から少し引いての撮影です。ちなみに、赤い矢印の先が左写真に写る階段の部分になります。
<2009.04撮影> もっと引いての撮影です。
<2008.03撮影> 上二子の外海側ですが山頂部分になるかと思います。
<2008.03撮影> 山頂付近には、天川の姿が見えます。