《連絡船夕顔丸 長崎要塞司令部検閲済》
<昔の絵葉書より 所蔵: 九州大学 記録資料館> 長崎港以南の地図と夕顔丸の写真を組み合わせた絵葉書で、地図上には高島や端島など多くの名称記載があり、「香焼島」の東側には鹿尾川らしき線形に沿って海側から「土井ノ首」と「當所水源地」と思しき名称記載もあります。通常でしたら、それらの名称は、この手の絵葉書には記載されない名称のように思えますが、その昔、「土井ノ首」に鹿尾川からの引水を利用した水源地を設けて、得た清水を
水船と称する団平船に積み込んで、夕顔丸に曳かせ運んでいた頃がありましたので、「土井ノ首」や「當所水源地」は夕顔丸にとって非常に関係がある場所として、絵葉書に名称記載がなされたのではないかと思っています。
また、航路の長崎側出発地点には「三菱出張所」との名称記載がありますが、拙HPの
「炭坑舎関係と夕顔丸の履歴概略」では「三菱出張所」の名称が存在するのは大正13年から昭和19年にかけてと思われ、絵葉書には「長崎要塞司令部検閲済」の記載があって、高島本島と二子島も陸続きとなっている状態からも、その時期に作成された絵葉書のように思っています。
<所蔵: 九州大学 記録資料館(長崎新聞社寄託)>
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より> 貨物船と思われる船の後部から、手漕ぎの船が夕顔丸に向かって進んでいる光景かと思います。夕顔丸ですが、操舵室の後には、まだ、客室は設けられていないようです。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
後甲板には二階が、また、操舵室の後には客室が設けられているような気がします。
なお、船への入口の扉が開かれていますので、艀を待つ姿でしょうか?。
<「山高五郎著『図説 日の丸船隊史話』至誠堂刊」より許可を得て掲載> 船腹には「YO45」の記載があります。
《夕顔丸の後部を望む。》
| <写真は、平成16年1月15日発行の「端島(軍艦島)」より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
夕顔丸は,
当初から長崎~高島~端島間の旅客船兼曳船として使用され,
外国船の長崎港出入時の曳船としても使用された。また,石炭運搬の曳船として使用され,長崎との往復も少なくなかった。夕顔丸は1~2隻の曳航から最大限では帆船(100~200トン),団平船(30~50トン)計10隻以上を曳航し,物資輸送に活躍した。このような時は長崎を7時発の便が高島に10時着にもなり,定期時間を守れない定期船であった。
また,支那事変勃発に伴い昭和13年に夕顔丸は船員とともに徴発され,揚子江で上海~漢江間で兵員等の輸送に従事した。翌14年に夕顔丸は徴発解除になり,帰国の途についたところ,東支那海でまる2昼夜物凄い台風に遭遇し,激しい波浪に曝されたが,波浪を乗り切って帰島した。(・・途中略・・)
このようにして,夕顔丸は70年以上にわたって高島,端島航路の定期船,曳船として運行され,その間三菱重工長崎造船所の細心にわたる修理工事を受けて,通常30年といわれる船舶の寿命を遙かに超えて運航された。
<1989年三菱鉱業セメント(株)発行・高島炭砿史P412より引用>
夕顔丸廃船の模様は、昭和37年7月号「労働文化」に次の通り記されている。
さる3月31日夕刻、夕顔丸は端島と高島を一週しながらお別れの汽笛を何回もならした。島民はアパートの窓や岸壁から誰もが手を振り、これを最後に廃船となる夕顔丸に限りない愛情と感謝の気持ちをこめて「さようなら」といった。
<同じく、1989年三菱鉱業セメント(株)発行・高島炭砿史P412より引用>
この夕顔丸、昭和20年7月のある日端島沖で米グラマン3機の機銃掃射を受け、船体に数百発被弾、汽潅のパイプも数箇所被弾し、航行不能となり、長崎に曳航されたそうです。
<詳しくは高島石炭資料館でご覧下さい。>
三菱の長崎造船所は、船の建造と修理を営業品目にかかげている関係上、よく
遭難船救助の申し入れがあった。 (・・途中略・・) しかしまだ救助船の設備がなかったので、難船の通知があるたびに、長崎港外の高島炭鉱の通信船、夕顔丸を借用した。それでもまだ救助力不足の時は、同炭鉱の運搬船、初音丸に (・・途中略・・) 夕顔丸や初音丸をいつまでも借用しているわけにもいかず難船救助専用の強力な船の建造となった。そして明治三十四年に計画、翌年二月完成、大浦丸と命名した。 (・・途中略・・) 大正六年三月、日本海軍工業株式会社へ大浦丸を売却して、この事業を中止した。
<長崎新聞(昭和42年11月11日付)より>