○飲料水・製塩等

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

〔 飲料水を得る方法の変遷とその開始時期 〕

分かっている範囲で一覧を作成してみました。
飲料水を得る方法開 始 時 期終了時期
運搬船の使用(第一期) ---
蒸留水機の使用
  • 以下の高島での出来事が、端島においても同様であったかについては私には不明です。
    • 高島炭坑を譲受けて三菱が炭砿経営を開始したのちも,動力源の蒸気用ボイラーの水には坑内水や海水が使用されていた。また、生活水は対岸の蚊焼および深堀から船で運ばれてきたが,明治19年に伝染病対策のため飲料水は蒸留水に切り換えられた。
      明治19年6月の「高島炭坑事務長日誌抜要」には,次の通り記されている。
      四月七日汽鑵三個ヲ新設シ,飲用蒸留水ヲ得ルノ計画ヲナス。
      六月二日蒸留水器械落成シ,本日ヨリ下渡ス納屋ニハ坑夫百人ニ付十荷ツツ其他ノ雇人ヘハ望ミニヨリ下渡ス。但シ一荷八厘トス。
      <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント株式会社、1989、405頁>より
      ※管理人記載 これまでの記載により、高島は「蚊焼および深堀」から、端島は「脇津岬」から水を運んでいた時代があるようですが、「蚊焼・深堀・脇津岬」は江戸時代でいえば「佐嘉領」であった地域になるようです。また、単なる水源の事情かも知れませんが、端島に関しては目の前の高浜や野母崎からではなく、長崎半島の反対側の「脇津岬」から運んでいた理由が気になります。
    • 1886年(明治19)春.- 三菱高島,蒸留水器械を設置し一日平均6000ガロンの水を得る.
      <筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、田川郷土研究会、昭和48年11月30日、138頁>より
    • 明治40年の用水供給について「三菱合資会社高島炭坑解説書」は,次の通り記している。
      島内湧水乏シク普通用水ハ雨水及対岸地ヨリ供給シ,飲料トシテハ数台ノ汽罐ヲ装置シ海水ヲ蒸留シテ其需用ヲ充タシ而シテ汽罐用水ニハ凡テ海水ヲ使用ス
      <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、405頁>より
  • 明治24年(1891) 蒸留水機を設置し,各戸に飲料水配給(製塩も行う)
    <阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補板】』、東京電機大学出版局、2005、625頁>より
  • 端島ニ於ケル飲料トシテハ数臺ノ汽缶ヲ装置シ海水ヲ蒸留シテ其需用ヲ充タセリ而シテ汽缶用水ニハ海水ヲ使用ス
    <高島礦業所槪要(大正15年10月発行)>より
昭和10年
運搬船の使用(第二期)
  • 大正元年に高島炭坑は対岸の土井首村鹿尾川からの引水を利用し,同村に水源地及び濾過池から成る小規模な水道設備を設けて,この清水を団平船に積み,社船で曳いて高島,端島の飲料水および発電機用ボイラー用水に使用しはじめた。
    <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、405頁>より
    ※管理人記載 前記の<高島礦業所槪要(大正15年10月発行)>には「島内湧水ニ乏シク普通用水ハ雨水及海水ヲ使用シ高島、二子両島ニ於ケル飲料及汽缶用水トシテハ対岸土井首村鹿尾川水ヲ毎日水団平船(百噸積三隻・五十噸積一隻)ニテ運搬供給シ端島ニ於ケル飲料トシテハ数臺ノ汽缶ヲ装置シ海水ヲ蒸留シテ其需用ヲ充タセリ而シテ汽缶用水ニハ海水ヲ使用ス」となっていることから、高島・二子両島と端島では状況が違っていたようで、高島・二子両島では団平船の使用を開始しますが、この時に端島においては団平船の使用は開始しなかったのではないかと思っています。
  • 昭和7年(1932)給水船<三島丸>が進水し,1日1回の給水をするようになった.水源は長崎市南端より約4kmのところにある土井ノ首水源地で,端島までの距離約12kmを海上輸送した.これ以後3年間,飲料水は給水船と蒸留水機の2本立てで供給
    <阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、2005(第1版1984)、613頁>より
  • 昭和に入ると,高島では飲料水は専ら水船により供給されたが,端島では昭和10年に製塩工場が廃止されるまで,飲料水は水船と蒸留水の二本建で賄われた。昭和7年に清水運搬船として三島丸(320t積)が就航し,毎日,高島,端島に清水を供給するようになると,水事情はかなり緩和された。
    <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、405頁>より
  • タンク は七五○トンも水が入りわずかこれが二個にすぎない、一日平均の使用量は二八○トンという、一度”シケ”に会うとこの島の三〇〇の大世帯はどんなに苦しいことでしよう
    <長崎民友新聞(昭和24年4月6日付)>より
閉山まで
海底水道敷設後も、渇水により海底水道にて送水ができないときは水船を使用(※水源が違うため?)
海底水道の使用
  • 昭和32年(海底水道敷設後)から
閉山まで


写真《砿業所は、鹿尾川から土井首給水場まで導水管を敷設。(工期大正9年11月から大正10年7月まで。)朝顔丸などで飲料水を運搬。(昭和32年頃)》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 大正時代の高島のこととなりますが、<興梠友兼著、「忘れ得ぬ其日」、『石炭研究資料叢書』(九州大学 記録資料館 産業経済資料部門)、第27輯、2006年3月、37頁>には、大正8年から満3ケ年間高島にて生活された著者のご経験として、「高島炭鉱には全く清水の湧く所がなく、坑内水は悉く塩分が多くて使用に耐えなかったから、水船と称する団平船数艘を連結して、長崎から前記の夕顔丸に引かせて運んで居た。故に一寸でも時化(しけ)がすると船が運ばなくなるので、兼ねて各戸に設備してある天水桶に溜まった雨水を濾過して用いねば、お茶も飲めない状態となって居た。ボイラー用水は海水を其儘使用し、ボイラーで塩分の濃度の濃くなったものを一つのタンクに集め、茲で更に煮詰めて製塩をなし、二等塩として専売局に収めて居た。故に雨は時によると島の者には文字通慈雨となる事もあった。」との記載があり、飲料水に蒸留水を使用していた旨の記載はありませんが、大正の中頃過ぎまでは 高島の製塩工場 も稼働していたことや こちら では「蒸留水」を「飲料水」として使用していることの記載もありますので、高島においても大正の中頃過ぎまでは飲料水に蒸留水も使用されていたのではないかと思っています。
 ちなみに、<興梠友兼著、「忘れ得ぬ其日」、『石炭研究資料叢書』(九州大学 記録資料館 産業経済資料部門)、第27輯、38頁>には、坑道開鑿を行って対岸・野母半島の清水を運ぶ計画を著者が立案しますが五粁の坑道開鑿が問題となって断念した旨の記載があり、清水を得る大変さが伺われます。


〔 製塩事業の開始時期 〕

 開始時期には複数の候補があります。あくまでも私の憶測ですが、明治24年から製塩を行っていた場合は、島内で消費する分のみの製塩だったのではないかと思っています。

明治24年から「明治24年(1891) 蒸留水機を設置し、各戸に飲料水配給(製塩も行う)」
<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補板】』、東京電機大学出版局、2005、625頁>より
「明治24年(1891) 端島で製塩事業を行う」
<『端島 閉山記念特集』、昭和49年>より
明治38年から「従来高島端島ニ於テ飲用蒸留水製造ノ際、其汽罐排出ノ「ブロー、オフ」水ハ其容積ニ於テ約一割ノ鹽分ヲ含有スルヲ以テ蒸留水製造ノ副産物トシテ更ニ蒸留水製造用費消ノ蒸気温熱ヲ利用シ製鹽ヲ営ミ」(・・以下省略・・)
「當坑石炭採掘業の副産物として、去る明治卅七年十月より、製鹽業を開始せり」
<增訂再版日本炭礦誌>  ※明治卅七年は高島での開始時期と思われましたので、ここでは明治38年として整理させていただきました。


〔 蒸留水製造・製塩の各種情報 〕

  • もともと清水源のない高島,端島では,生活用水は対岸からの運搬水,天水のほか,衛生対策として,明治19年からは海水から蒸留水を採って飲料水としてきた。そこで,ボイラー給水に海水を使用した後,排水される濃厚鹹水を前熬蒸発させ,加熱蒸気の復水を飲料用蒸留水として得るとともに,塩を製造するという,一石二鳥の方策を実施した。明治37年11月には,百間崎に製塩工場を作り,38年には蛎瀬に,また端島にも工場を設置し,設備の拡張を続け,大正2年の二子坑開発に伴い,同7月には二子にも設置した。
    <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、284頁>より
  • 高島は飲料水を欠くの地なるが故に止むなく、炭鑛事務所が大なる蒸留機械を装置して高島炭礦の居住者をして悉く蒸留水を飲料に供する
    <毎日新聞(明治31年1月8日付け)>の「高島炭礦の沿革及現状(下)」より
  • 明治37年11月に高島で製塩工場が操業を開始した。これは,蒸気ボイラーに海水を使用しているため,その過程で濃鹹水が排出されるので,これを原料として,蒸気熱を加えて塩を製造したのである。この高島塩は専売局長崎収納所に納入され,長崎県を中心として九州一円に販売された。ちなみに,生産量は明治39年で高島,端島合計1,303tであった。また,製塩過程の副産物として蒸留水が出来たので,飲料水(一日当り十数tと推定)に使われた。
    <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、405頁>より
  • 従来高島端島ニ於テ飲用蒸留水製造ノ際、其汽罐排出ノ「ブロー、オフ」水ハ其容積ニ於テ約一割ノ鹽分ヲ含有スルヲ以テ蒸留水製造ノ副産物トシテ更ニ蒸留水製造用費消ノ蒸気温熱ヲ利用シ製鹽ヲ営ミ、以テ坑費節減ノ一助ニ供セントシ、先ズ予算金貳千五百圓ヲ以テ高島字百萬崎所在蒸留水用汽罐排出ノ鹹水一晝夜約百石ニ対シ製鹽ヲ試ミントシ、同所ニ一製鹽工場ヲ設置ス
    <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、七三五頁>に記載がある「社誌第十一巻 明治三十七年」の「十一月二十一日 高島炭坑字百萬崎ニ製鹽工場設置」より
  • 昨年高島炭坑飲用蒸留水製造ノ副産トシテ百萬崎工場ニ於テ製鹽事業ヲ開始ス、尋デ本年新規事業トシテ予算金六千九百圓ヲ以テ蛎瀬製鹽工場、予算金七千貳百圓ヲ以テ端島製鹽工場及貯鹽場ヲ設置スルコトトシ、又予算金三千五百圓ヲ以テ百萬崎製鹽工場ヲ拡張ス、斯クテ此等各工場ニ於ケル製鹽業ハ漸次其緒ニ就キ営業ノ見込亦略定マラントセルモ、尚現状装置ノ諸機械放散蒸気ノ利用ニ至リテハ僅ニ其少部分ニ止ルノミナラズ、汽罐排出鹹水ノ大部分ハ尚徒ニ放棄セラレ、実際製鹽量ハ遙ニ予算額ニ達セズ、加之製出ノ蒸留水ハ未ダ其必要量ヲ充シ得ザルノ状況ナルヲ以テ更ニ上記三工場ノ拡張ヲ計畫シ、三工場一日製鹽産出量合計約一萬七八千斤ニ達セシメントシ、百萬崎製鹽第一工場拡張予算費金四千六百圓、蛎瀬製鹽第二工場拡張予算費金八千三百五拾圓、端島製鹽第三工場拡張予算費金貳萬六千三百圓ヲ支出スルコトトス
    <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十』、七九九・八〇〇頁>に記載がある「社誌第十二巻 明治三十八年」の「六月二十三日 高島炭坑製鹽工場拡張」より
  • 工場別・各種費一覧  (4及び5の情報にて当初・拡張に伴う費用の一覧表を下表のとおり作成してみました。)
    区分細区分当初費用拡張費用再拡張費用備考
    高島百間崎製塩工場2,500圓3,500圓4,600圓10,600圓
    蛎瀬製塩工場6,900圓8,350圓---15,250圓
    端島端島製塩工場7,200圓26,300圓---33,500圓貯鹽場を含む


  • 高島・端島 製塩工場一覧
    区分細区分開始年月廃止年月廃  止  理  由
    高島百間崎製塩工場明治37年11月大正末か昭和初め蛎瀬坑廃坑のため石炭供給が難しくなる。
    蛎瀬製塩工場明治38年大正12年蛎瀬坑廃坑のため
    二子製塩工場大正7年大正10年3月
    • 発電用ボイラーに水管式採用が決まり,ボイラー給水は清水となり,海水使用減少に伴って濃厚鹹水も減少
    • 事業用地不足
    端島端島製塩工場明治38年昭和10年2月事業用地整理

    <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、284・285頁>より

    ※1<筑豊石炭礦業史年表編纂委員会、『筑豊石炭礦業史年表』、210頁>には「一九〇三年(明治三六) 三菱高島,製塩事業開始('06.2.5 製塩係設置).」の記載があります。
    ※2高島礦業所槪要(大正15年10月)には「蠣瀨坑ノ休止ト仝時ニ之ヲ廃止シ現今端島坑ニ於イテノミ製鹽ヲナセリ」があります。

  • 蛎瀬百間崎間飲用水管装置費 六、五〇〇・〇〇円
    <三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十六』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、3352~3356頁>に記載がある「社誌第二十三巻 大正五年 十二月二十五日 大正六年度各炭坑起業費」より
  • 製鹽事業
    • 本縣内各郡至る處行はれ八十五丁九反の鹽田と七十五の竈とを有し二萬一千三百三十一石を製す其茲に特記すべきは長崎製鹽株式會社及三菱製鹽所なり。
    • 三菱製鹽所は高島端島に之を設く、高島端島は由來同三菱會社經營の炭坑ありて事務員、職工、工夫の居住するに拘はらず天水の外一滴の飮料水をだに得ること難き孤島なるが故に壯大なる蒸滊機關を装置し海水を蒸溜して之に充て客年之と共に製鹽の計畫を爲したり。然れども之が爲めに別に汽力を增大する必要なく、誠に一擧兩得事業にして甚だ有利なり、されば將來益整頓するに至らば一箇年約千三百萬斤の食鹽を產出すべき豫定なりといふ。
    <第二回關西九州府縣聯合水産共進會 長崎縣協賛會、『長崎縣紀要』、明治40年、129・130頁)>より
  • 製塩方法等
    <高野江基太郎 著『日本炭砿誌』,筑豊石炭鉱業組合事務所,明44.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2385876/1/116 コマ番号116 九六頁 (参照 2024-06-04)>の「製鹽事業」に詳しい記載があります。                                     
  • 當坑ハ島内湧水ニ乏シキヲ以テ去ル明治卅七年十月ヨリ飮料水トシテ「ランカシヤー」、汽罐ニヨリ海水ヲ蒸溜シテ之ヲ用ヒ其副産物トシテ製鹽業ヲ開始シ各島ニ工場ヲ設ケタリシガ蠣瀨坑ノ休止ト仝時ニ之レヲ廢止シ現今端島坑ニ於テノミ製鹽ヲナセリ
    <高島礦業所槪要(大正15年10月)>より


写真《大正時代の家庭用飲料水配給風景》
  <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
 写真中央上段には30号棟、そして右上には26号棟(旧船頭長屋)の姿が見えているようです。
 ちなみに、<高浜尋常高等小学校編纂、『西彼杵郡高濱村郷土誌』、高浜尋常高等小学校、大正七年九月>には、端島の製塩業には十四人の従業員がいることが書かれています。


〔 明治中期から昭和初期における汽缶(ボイラー)の設置台数並びに種類 〕

高島と端島における汽缶(ボイラー)の設置台数並びに種類等について、知り得ている範囲の情報を以下に記載させていただきます。

汽鑵三個ヲ新設シ,飲用蒸留水ヲ得ルノ計画ヲナス
<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、405頁>の「明治19年6月の「高島炭坑事務長日誌抜要」」より
※なお、上記個数は飲用蒸留水用汽鑵の個数で、動力源の蒸気用ボイラーの個数は含まれていません。詳しくは こちら をご覧ください。
ランカシャー形ノモノ六基
<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、123頁>の「高島炭坑来翰(明治24年分)」に記載がある「端島炭坑第壱回報告」の「器械ノ部」の「汽缶」より
※記載には六基の状態が書かれています。
明治卅七年十月ヨリ飮料水トシテ「ランカシヤー」、汽罐ニヨリ海水ヲ蒸溜シテ之ヲ用ヒ其副産物トシテ製鹽業ヲ開始
<高島礦業所槪要(大正15年10月)>より
 ※明治卅七年は高島百間崎製塩工場での開始時期であり、端島製塩工場での開始は明治38年です。
汽鑵は「ランカシヤー」式にして石炭を燃用す、高島に於て十四臺、端島に於て十六臺を設置す。
<高野江基太郎、『增訂再版日本炭礦誌』、明治44年、第二編94頁>より
明治44年からは,ランカシャー汽缶より熱効率が良く,高圧が得られる バブコック&ウィスコック水管式汽缶(蒸留水を使用)の使用を開始した。
<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、211頁>の「二子発電所」の記載より
https://doi.org/10.11508/shigentosozai1885.31.358
 【日本鑛業會誌 / 31 巻 (1915) 363 号/ p.358-371】
   『 高島炭坑現況 』
 ・論文ファイルの頁数367~368には「汽罐」の設置台数並びに種類等について記載があります。
 ・論文ファイルの頁数370~371には「蒸留水」を「飲料水」として使用していることの記載があります。
大正4年10月26日付けで,交流発電設備が仮使用認可を受けたが,500kW2台であった。その仕様は, ボイラー2台(ネスドラム水管式加熱器付) ,タービン2台(パーソンス式,740馬力),発電機2台(3相交流式,60Hz,500kW)である。
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、281頁>の「二子発電所」の記載より
二子坑 「ネスドラム」、「スターリング」、「バブコツク」水管式  一〇臺
端島坑 「ランカシャー」式                     九臺
<高島礦業所槪要(大正15年10月)>の發電設備にある「汽罐」より
端島では,ボイラーはランカシャー型のままで経過した。
<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、281頁>より


〔 蒸留水製造・製塩の施設情報 〕

  昭和10・11年頃に撮影されたと思われる写真 と、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集、長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、78頁>に掲載されている「実習報文調査坑外図等における歴史的変遷図(昭和3年)」とを見比べながら、蒸留水や塩の製造に関連があった「汽鑵場・ 製塩倉庫(旧発電所) 製塩工場 」(蒸留水・塩の製造が廃止された後に取り壊され、閉山までは存在せず。)の配置状況について思いを巡らせてみましたので、間違いなどございましたらご教示をいただけましたら幸いです。
 なお、写真2点の方向関係ですが、写真の手前(下)が第二竪坑櫓周辺の場所で、写真奥(上)が第四竪坑櫓周辺の場所となります。また、大きな煉瓦造りの建物を基準に、写真の垂直方向の配置を調整していますので配置が凸凹になっていることをお許し願います。


写真
写真1
《端島製塩工場と煙突。端島での製塩事業は、明治38年から昭和10年2月まで続けられた。》
<写真・説明は、平成16年1月15日発行の「端島(軍艦島)」より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
写真
写真2
《三坑櫓より四坑を望む》
<写真は島の先輩より>
 非常に小さな文字もあり私の読み間違いがあるかも知れませんが、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集、長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、78頁>に掲載されている「実習報文調査坑外図等における歴史的変遷図(昭和3年)」では、「汽鑵場」、「製塩倉庫」、「製塩工場」の施設が並んで描かれていて、「汽鑵場」の横に煙突と思われる構造物が描かれています。ついては、それらの位置から写真1・2に写る施設等について想像した内容を記載させていただきます。
<写真1>
 大きな煉瓦造の建物が「製塩倉庫」で、その手前が「汽鑵場」跡、大きな煙突が「汽鑵場」の煙突と思われます。
<写真2>
 大きな煉瓦造の建物が「製塩倉庫」で、その手前の空地は「汽鑵場」を取り壊した跡のように思われます。なお、変遷図では「製塩倉庫」の裏側に 「製塩工場」 が位置しています。
<写真1・2>
 「汽鑵場」や「製塩倉庫」が廃止された後の光景で、「汽鑵場」の建物が「製塩倉庫」よりも一足先に解体された時の光景と思います。


 「汽鑵場」や「製塩倉庫」が稼働していた頃の光景は下段絵葉書の光景かと思いますが、元島民の方からは、規模は不明ですが後年は65号棟の近くに「釜場」があった旨のお話を伺っています。
 ちなみに、「汽鑵場」や「製塩倉庫」及び「製塩工場」があった場所の後日の光景は こちらの写真 のコニカルタンクや浮選室及び沈殿池の場所やその周辺部分になるかと思いますが、「汽鑵場」等の跡地はコニカルタンクや浮選室及び沈殿池の場所にも転用されたことなり、そのことは<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、285頁>の「端島においては,その後も続けられ,昭和10年2月に至って,ようやく,事業用地整理のため,製塩事業は廃止された。」に記載の「事業用地整理」の具体的内容になり得るかと思います。


写真《 (長崎港外)端島炭坑全景 All-view of Hajima Colliery Nagasaki. 》
<所有絵葉書・建物の位置を示すために矢印を付記しています。>
 写真1・2とは反対方向からとなる撮影で、写真1・2とは反対に、「汽鑵場」などの上に第三竪坑櫓があり、「煙突」の位置から考えて、黄色の矢印の先にある建物が「汽鑵場」で、赤色の矢印の先にある建物が「製塩倉庫」となるかと思います。


写真《長崎港外端島ノ風景》  <所有絵葉書>
 貯炭場より第三竪坑櫓方向を望む光景です。絵葉書右端には「煙突」が見えていますので、その周辺が「汽鑵場」などの周辺箇所になろうかと思います。

 なお、「長崎市 史跡 高島炭鉱跡 保存管理計画書」の77頁に掲載されている「実習報文調査坑外図等における歴史的変遷図(大正10年)」では、図面1の「製塩倉庫」の場所には「発電所」との記載があり、「製塩倉庫」の場所には、その昔、「発電所」があったようです。ちなみに、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、280・281頁>に「明治43年3月,直流550V,300kW2台(常用1,予備1)が運転を開始した。これは,既設の電灯用発電所と別位置の東南海岸に設けられ,ここに電灯用発電設備も集約移設された。」の記載がありますが、私としてはこの地の発電所が東南海岸に設けられた発電所と思っていて、最後については<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、282頁>に「大正7年4月にはモーター全部の交流切替えが,翌5月,昼間点灯の交流切替えが終了した。海底ケーブルは負荷の増加と故障等もあり,端島閉山時点で9回線まで増えた。端島発電所は予備ケーブルの敷設後大正9年11月,廃止されている。」となるかと思います。(電気関係の情報についてはこちらもご覧ください。)

 余談になりますが、端島について勉強をしていると不明な事項がたくさん出てきて、その一つに「自動焚炭機」があり、私には用途や設置場所が分かっていません。具体的には、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十二』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、一八四二頁~」の「社誌第二十巻 大正二年 各炭坑大正三年分起業」」に記載されている「端島矢野式自動焚炭機新設費 一九、一五〇・〇〇円」ですが、30号棟の決算額が47,570.74円ですのでかなりの高額な機器となるようです。
 ちなみに、<通商産業大臣官房調査統計部石炭統計課監修、『石炭の事典(1954)』、石炭経済研究所、昭和29年、164頁」に掲載されている「手焚」の説明には、「スコップを用い人力で石炭等の燃料を燃焼室内に投入し焚焼せしめる方法をいう。」の記載がありますので、「自動焚炭機」とは「自動で石炭等の燃料を燃焼室内に投入し焚焼できる機械」になるのでしょうか?。もし、そうしますと、「汽鑵場」に設置される可能性も大きいかと思いますがいかがでしょうか?。


写真「《三菱高島礦業所 端島坑新竪坑》  <所有絵葉書>」の部分拡大
 第四竪坑櫓を望む光景です。2箇所の朱書きの矢印の先にある「湯気が立ち昇っている四角い構造物」は、もしかしたら「製塩工場」の設備ではないかと思いますがいかがでしょうか?。
 また、黄色の矢印の先ですが、岩礁に沿って木の柵が設けられ通路として利用されているようです。このような通路は写真1の「煙突」の左側にも確認ができますが、地面の上に直接設けられた通路ではなく、岩礁から張り出すように設けられた通路のように思えます。(昭和の最後の頃は、地面の上に通路が設けられてレールも引かれていたように思います。)
 なお、写真左上にある櫓が第四竪坑櫓で、櫓の最も下の部分には白くて横に長い構造物が見えていますが、第四竪坑にて揚炭を行っていた頃の設備と思います。ちなみに、揚炭を行っていた第二竪坑櫓にも同様の設備で二坑口桟橋と呼ばれる設備がありました。


〔 水船 〕

写真<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
 写真の説明には「雨はいくら降っても真水の需要を満足させない 長崎から定期船が飲料水を運ぶ 七五○トン入りのタンク二基に 毎朝各階の主婦が水汲みに集まる」との記載がありますが、七五○トン入りのタンク二基は閉山時に体育館があった付近にありました。
 ちなみに、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、68頁>には65号棟の中庭を撮影した2枚の写真が掲載されていますが、1952年撮影の写真では「玄関前に水ガメ(水道がなかった)、洗面器、七輪が並んでいる。上部には消火用の手桶が並べられている。」の説明がありますが、1970年撮影の写真では「この時には水道が普及して水ガメや消火桶は姿を消している。」に説明が変更となっていますので、65号棟の水道は後付けだったことが伺えます。なお、消火用の手桶の姿形は、左写真の手桶とよく似ているようです。


《 昭和初期の水事情 》

  • 島で使ふ飲料水は全部対岸の野母半島から水船に積んで運んで来なくてはならないのです。
  • それを一度タンクに入れて、方々に設けられた口から桶二杯二斗を一銭五厘とかの値で売るのです。
  • ポンプで吸上げた海水は島の頂上のタンクから鉄管を伝って全島にあまねく廻つているのです。
  • 海水は無料なのですから鑛夫の家庭では洗濯や掃除はもとより食器洗ひ、お米とぎまでも海水を使つているさうです。
  • 何より恐ろしいのは海が荒れて水船が島につくことが出来ない場合です。タンクの水だけでも全島の一週間の飲料水はあるとのことですが、ひどい荒れがつづいたらありあまる海水に囲まれながら飲料水がなくなることもあり得るのです。
  • 荒れはじめると真先に海水に代わるのはお風呂ださうです。
<『婦人之友』、婦人之友社、昭和11年発行>より

  • 社宅街の要所に給水場を設置,一定時間を限り一日一回水桶により各戸に給水する。
  • 職員社宅には,定雇女夫請負で配水する。労務者はほとんど自力で運搬する。
  • 水代・・・清水1荷-5厘 配達料-1銭。(1荷は,水桶2個で,16荷で約1tである。)
  • 清水風呂,海水風呂を一日置きに行う。上がり湯の設備があり海水風呂の際も,上がり湯のみは清水である。
<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、43頁>の「1937年 昭和12年 この頃の水事情」より(記載内容は高島のことですが、端島も高島とはそうは違わないかと思い記載してます。)

  • 1937年発行「三菱高島砿業所案内」からの記載として「清水不足のため労務者浴場は隔日に潮風呂。」
<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、145頁>より

  • 土井首から水船で運び、タンクに貯水して各家庭に配給する。波浪荒く航海がとだえても5日間は給水できるように設備してある。
<『長崎縣新誌』、昭和28年8月発行>より


〔 貯水槽 (山頂) 〕

写真
<2013年撮影>
 ドルフィン桟橋側からの光景ですが、山頂にあるのが貯水槽です。この貯水槽の右端の部分は戦後になってからの建築のようですが、それ以外の部分は、昔の絵葉書等を見ますと大正後年の建築のようです。ちなみに、昭和16年頃の光景は こちら の写真をご覧ください。
 島の先輩からは、海底水道がない頃は、貯水槽には海水のみを貯めていたことや、最後の頃は、海水と清水を貯水しており、清水の貯水割合は、おそらく貯水槽の三分の一程度ではなかったかとのことです。また、清水については、貯水槽というよりも高架水槽的な役割を持っていたことをお伺いしております。

 海水の使用例については以下の記録をご覧ください。
大正5年 30号棟における物洗場と便所における海水の使用
昭和初期 洗濯、掃除、食器洗い、お米とぎ、風呂に海水の使用


写真<2013年撮影>
 貯水槽部分の拡大です。

写真<2010年撮影>
 反対側の外海側からの撮影になります。


写真<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
 貯水槽を上から見た光景で、給水管から水が流れ出ています。
 写真の説明には、「狭い小さい島だから伝染病が最大の敵 したがつて清潔が重んじられる ふんだんにある海水がこのポンプで汲みあげられ便所 下水の清掃用となる」とあります。また、昭和20年代後半の島の地図を見ますと、貯水槽の場所には「海水タンク」の名称が記載されています。
 なお、余談ではありますが、写真右上の貯水槽の先に写る石炭積込桟橋ですが、この時点で、既に一基になっています。

《上水道数値比較》
区 分
【昭和32年頃】
高島海底水道の概要
【昭和48年頃】
町勢要覧<昭和48年4月>
配水池
容量  450屯
1,000㎥ 1池 、 25㎥ 1池
予備タンク
容量 2.500屯
---
 上記表ですが、昭和に入ってからの貯水関係の数値を記載しました。私の勝手な想像ですが、昭和32年頃の「予備タンク 容量2.500屯」については第四竪坑捲座の横にあった清水タンクと学校校舎南側にあった清水タンク二基の計三基による数値と思っていて、昭和48年頃の「配水池 1,000㎥ 1池」については、第四竪坑捲座の横にあった清水タンクの数値と思っています。
 なお、山頂にある貯水槽の容量については、昭和32年頃の「配水池 容量450屯」と昭和48年頃の「配水池 容量25㎥」のどちからが該当するのではないかと悩んでいますが、格段に数字が違い過ぎますので山頂にある貯水槽の容量は分かっていません。どなたか、ご存じの方がいらっしゃいましたらお教え願います。


〔 清水タンク (学校南側) 〕

《昭和32年4月3日時点》  <高比良勝義氏(元島民)撮影>
 学校校舎の建築中の光景ですが、学校校舎の南側に、大きな丸い清水タンクの姿を二基見ることができます。以下に情報を記載いたします。
  • アサヒグラフ(1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年))には、「七五○トン入りのタンク二基」の記載があります。
 ちなみに、清水タンクがある場所は昭和6年埋立ての場所にかかっているようで、また、 「三菱高島砿業所1937年第2立坑完成記念ハガキ」 と思われる絵はがきにもその姿が登場していることから、清水タンクは埋立直後からあるように思われますが、昭和10年には島での蒸留水製造が終わりますので、時化による清水運搬船欠航の対応策として清水タンクが設けられたのでしょうか?。


〔 清水タンク (四坑捲座の東側) 〕

写真3枚は、昭和31年の台風被災時の資材倉庫周辺の光景です。


写真
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 地盤の土砂が流失して資材倉庫の周辺は海と化しています。写真中央の先に写る四角い構造物が清水タンクですが、島の先輩によりますと、ここの清水タンクは、海底水道を布設するにあたり、その関連施設として設けたのではないかとのお話しをお伺いしました。

写真
《【昭和32年1月27日】》
  <高比良勝義氏(元島民)撮影>
 左写真の拡大版になります。清水タンクの構造がよくお分かりいただけるかと思います。

写真
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 写真左中段の構造物が清水タンクです。タンクの高さがお分かりいただけるかと思います。



〔 海底水道 〕

写真
《高島海底水道の概要》  <長崎歴史文化博物館蔵>
 左の書籍は、長崎県と高島町による発行の「高島海底水道の概要」で、掲載されている高島町長の挨拶文には概ね以下の内容が記載されています。
  • 書かれた日付が、昭和三十二年一月九日であること。
  • 現在、高島島民の飲料水は、長崎から船舶によって輸送されているが、荒天による航行不能、船舶の修理等の制約により、年間平均一日千二百屯に過ぎず、これを一人当りに割当てると五十立を下回ること。
  • 総工費三億一千万、昭和三十年度より三ケ年の計画の下に本事業が着工され、一万七千の高島島民の待望久しき宿願が叶い、誠に感激に堪えないこと。
  • 本事業完成の暁には一日の総水量五千屯、十年後の人口二万人として、工業用水八百屯を使っても、一人当り二百立となり、中都市並の飲料水が確保されること。


写真
《高島海底水道の概要》
<長崎歴史文化博物館蔵>
 水源位置については、長崎県西彼杵郡三和町為石字小田で、取水については、為石川の表流水、為石川の伏流水(浅井戸)、深井戸水との記載があります。
 また、海底送水管については以下の記載がありますが、2本の送水管は同仕様ではなく相違があるようです。

端島行送水管
    1本 アスフアルトジュート 2重巻、     モルタルライニング 厚15mm
    1本 アスフアルトグラスフアイバー 1重巻  モルタルライニング 厚15mm
  内径150mm 肉厚5.0mm

写真 《高島海底水道の概要》
<長崎歴史文化博物館蔵>


写真
《高島海底水道の概要》
<長崎歴史文化博物館蔵>

写真《高島海底水道の概要》
<長崎歴史文化博物館蔵>
 海底管布設工法については、「陸上で長さ550mの管条を必要本数丈準備し、パイプヤードの上に並べ先づ第1本目を海中に引込む、次に第2本目を此の末尾に熔接し、更に550m引出し次々と管条を接続し乍ら管頭を上陸地点に導き所定の位置に設定後、管内に水を入れ且所定の防護を施す。」とあります。


写真
《高島海底水道の概要》
<長崎歴史文化博物館蔵>
 写真のタイトルは、「水船による清水の運搬状況」となっています。端島の写真ではなく、高島の写真で、小学校ぐらいから二子方向を望む光景かと思います。


写真《昭和31年5月23日、日本最初の「海底水道」の起工式が行われ、昭和32年4月4日、最大難関の岳路←→高島間5km、岳路←→端島間6.5kmの海底水道管敷設工事が開始され、昭和32年10月に完成。同年10月13日に盛大に完工式が挙行された。》
(写真・・・三和町岳路からいよいよ海底へ水道管が引き出され、最大の難関工事の始まりである。)
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 <三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、785頁>には、「工事実施に当って最も重要な問題は海底管の敷設であった。その工法としては技術的に海面曳航法,海底曳航法,海面接続法,海底接合法の方法があったが,高島,端島の場合は次の理由により海底曳航法すなわち陸上でパイプを接合し,海底を這わせて引ずり出していく方法を採用することとなった。」や「そして陸上より進水させたパイプは,海上曳航船により海底を這わせて曳航され,海底に敷設された。」の記載があります。


写真
<島の先輩より>
端島へのパイプ布設が終わった旨の記事が書かれています。

写真平成18年3月時点の為石浄水場の光景です


 海底水道が完成しても、夏場の渇水期には、朝顔丸が本来の用途である清水運搬船に戻り活躍する時もありました。また40年代には、二隻の自衛隊らしき艦船にお世話になった想い出もあります。一隻は、フェリーと言うか、揚陸艦と言うか、中が広く貯水設備(タンク車??)を載せた船で、もう一隻の警備艇?と対で端島に来たと思います。警備艇?は学校海岸の直ぐ前まで近づいて停泊し、学校海岸と船の間には板が渡されて警備艇?に歩いて乗船できました。その時に、警備艇?のマストに登った記憶があります。


 町勢要覧(長崎県高島町・昭和48年4月)の25ページには、「給水制限の状況」と題して下記の記載がありました。端島や高島等の注記はありませんが、おそらくは、端島・高島とも同じ状況ではなかったかと思います。

年次\月4月5月6月7月8月9月10月11月12月1月2月3月
昭和41年281853
  422715313031143
  43212858
  44172830312027154
  452631261396
  4631262912105


写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載。>
 島内配水管系統図です。海底水道取込口の位置や島内の配管状況が分かります。

写真《高島町上水道一般平面図》
<図版は、町勢要覧昭和48年4月より高島町の許可を得て転載>


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