●「日本近代化の基礎過程 下」(2003年10月1日初版、中西洋著)より
書には、
長崎造船所における最初の'鉄船'とされる「夕顔丸」との記載があり、続いて以下の記載があります。鉄船の定義をどのようにとらえるかで長崎造船所における最初の鉄船の結果が違ってきますが、どちらにしても、日本最古の鉄船ではないようです。ちなみに、浚港丸は、「船骨ノ材料」は「鉄」、「船体ノ材料」は「鉄及び木」から成る鉄骨木皮船で、高島炭坑用に夕顔丸に引き続き建造された弥生丸も鉄骨木皮船だそうです。)
起工が明治18年11月24日,(・・途中略・・)長崎造船所はすでにこれ以前,自所用ランチ1隻〔鴛鴦丸〕と三池鉱山局注文の小蒸気船および浚渫船各1隻〔有明丸および浚港丸〕を新造していた(・・途中略・・)浚港丸と比べて船体はやや長くなった程度であるが,「船骨ノ材料」も「船体ノ材料」も「鉄」を用いて重量は4倍となり(・・途中略・・)
とはいえ,
'鉄船'建造そのものは、これが本邦初ではない。いま,輸入物品の組立といったものは別とすれば,明治17年2月キルビー商会が朝日丸〔・・詳細略・・〕を建造したのがその嚆先とされるが,(・・途中略・・)明治18年なかばの時点では,その経営を継承した海軍小野浜造船所が安治川丸〔・・詳細略・・〕を,工部省兵庫造船局が吉野川丸〔・・詳細略・・〕を建造中であった。
●三菱重工業(株)長崎造船所HP 三菱創業期コーナー(明治17年~35年頃)より
幕府直営の長崎製鉄所は、明治維新で官営長崎製鉄所となり工部省所管の長崎造船局と名称を改称した。そのころ三菱社は自家造船所経営の必要に迫られており、政府が民間に経営を委ねる方針を出した時、機を逸せず長崎造船所の貸与を願い出た。明治17年(1884)7月、三菱経営となり積極的な経営で本格的な造船所として発展していった。
明治18年(1885)には早くも鉄製の浚渫船を竣工させ、続いて当所で建設した最初の鉄製汽船「夕顔丸」を竣工させた。
別資料で、長崎造船所で建造された船舶一覧を見たら夕顔丸の船番は4でした。夕顔丸よりも古い船番の船の種類を見たら、種類は全てスチーム・ランチで総屯数は4~51屯と、かなり小型の船でした。夕顔丸は206屯で、種類は貨客船となっておりました。
●その他参考
以前、三菱重工HPにあった「三菱重工グラフ NO.140 2005 Winter」には、一號機物語として鉄製貨客船の項目があって、夕顔丸は『日本で初めて鉄製ボイラを装備した貨客船』との説明がありました。従いまして、夕顔丸の日本で最初の事項は、『日本で初めて鉄製ボイラを装備した貨客船』のようです。
※正確には、「日本初の軟鋼製ボイラ」とのことだそうです。
また、こちらも以前となりますが、三菱重工HPにあった「ウェブ版長崎ニュース4月号」では、「長船建造の名船・名艦」(夕顔丸)のページが設けられ、夕顔丸は、当所で最初の鉄製汽船として、また、イギリス人技師の設計による旨等が書かれています。
《夕顔丸進水》
| <「山高五郎著『図説 日の丸船隊史話』至誠堂刊」より許可を得て掲載> |
本写真は、昭和32年発行の「創業百年の長崎造船所」126ページにも掲載され、「明治20年、夕顔丸(S.4)進水当日」のタイトルで紹介されており、今まで、この写真は夕顔丸のものと思っていました。
ところが、平成20年1月発行の「長崎造船所 150年史」の冒頭で、この写真の右端部分の拡大版が掲載され、タイトルは「明治21年(1888)当所6番船「第三震天(200トン)」進水」となっています。150年目の真実でしょうか???。
<写真は2004年10月夕顔丸関係者より>
夕顔丸の関係者から、進水時の物として頂いた写真です。
そういえば、冒頭の「三菱重工グラフ」や「ウェブ版長崎ニュース」では、写真の大きさ等に相違はありますが、こちらの写真が使用されています。
<「山高五郎著『図説 日の丸船隊史話』至誠堂刊」より許可を得て掲載>
建造直後と思われる夕顔丸の図面です。当時の船橋は一層だったようです。
《三菱鑛業株式会社高島礦業所夕顔丸
昭和十二年八月端島海岸ニテ 》
<写真は2004年10月夕顔丸関係者より> 航行する夕顔丸が写っている左写真はボードに貼られておりますが、そのボードの裏には右写真のとおりタイトルが書かれています。
島の先輩からは、夕顔丸最後の頃となる昭和30年代の姿とは相違があり、その相違点としては、最後の頃の夕顔丸には、後甲板に二階を付け、操舵室の後に客室を設け、船体の両側面を二重にし補強と共に浮力を増したことで、その改修の時期はおそらく戦後との話を聞きました。
昭和20年7月か8月初めには、端島沖で、アメリカ・グラマン3機から機銃掃射を受けたことがあるそうですが、機銃掃射を受ける夕顔丸の姿は高島からも見え、汽缶に穴が開いた?時は、白煙が空高く舞い上がったとのことで、乗組員の中には帰らぬ人になった方もいらしゃったそうです。
その時の話として、修理のため長崎造船所にドック入していた時に夕顔丸は原爆の日(8月9日)を迎えたとの話を聞いたことがありますし、いや、そうではなく、原爆の日に夕顔丸は運航していたが、原爆投下が原因か、長崎港には入港出来ずに、香焼止まりであったとの話しも聞いたことがありますが、まだ、どちらの話が本当かは確認ができておりません。なお、<内田好之、『燃ゆる孤島
軍艦島22年間の思い出 』、株式会社文芸社、2016年3月、57頁>には、原爆が投下されて二週間が過ぎた時のこととして、「朝一番の連絡船 <夕顔丸> で出発した。船は長崎の港に着き、歩いた。」の記載があります。
ちなみに、夕顔丸の航路ついては、昭和18年ぐらいから高島始発となりますが、それまでは長崎始発で航路は長崎ー高島ー二子ー端島ー二子ー高島ー長崎だったそうです。(18年以前にも1度、高島始発となったことがあったそうですが、直ぐに長崎始発に戻ったそうです。)
●夕顔丸年表
夕顔丸建造から廃船までの歴史を一覧にしました。夕顔丸の所属先として、三菱合資会社・三菱商事・三菱鉱業の名前がでてきますが、三菱の変遷については、
https://www.mitsubishi.com/j/history/ (「三菱グループのポータルサイト」内の「三菱の歴史」) に詳しい情報が記載されています。
明治20年 3月 [中西洋著 日本近代化の基礎過程 下より] | 進水、岩崎弥之助は自ら式に列席。速力も試運転で 11 1/4 ノット を記録。以後極めて永く昭和期まで、長崎←→高島の曳船として活躍することになる。
弥之助は、さらに高島炭坑用にと、小蒸気船「弥生丸」の建造を命じている。 |
明治廿年四月十六日 [三菱社誌より] | 件名書(明治廿年四月十六日付けの船免状御下渡願の別紙)
船名:夕顔 、 定繋港:長崎縣肥前國長崎區長崎港 、 本船管轄廳:長崎縣
船ノ種類:汽船暗車 、 船體ノ材料:鐵
製造地名:長崎三菱造船所 、 製造年月:明治廿年四月
船主ノ名:高知縣土佐國土佐郡大手筋五百六十二番地 岩崎 久彌
總噸數:貳百六噸二四 、 公稱馬力:六拾馬力
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明治廿年四月廿五日 [三菱社誌より] | 明津丸 船長尾崎民實ヲ徒シテ夕顔船長ト爲ス
役名:夕顔船長
月給:八拾圓
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明治二十年四月是月 [三菱社誌より] | 長崎造船所ニ命シ汽船夕顔ヲ新造セシメ高島炭坑通信及曳船ニ充ツ船大サ貳百餘噸
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明治廿二年十二月廿二日 [三菱社誌より] | 一 汽船夕顔
右之汽船高島炭坑石炭運送船曳船ノ為毎日午前七時正午十二時ノ両度長崎高島往復航海仕度 且ツ中島ヘモ臨時航海致度候
高島炭坑事務所
瓜生 震
以下、<管理人>記載
中島って中ノ島のことでしょうか?。中ノ島炭坑は明治17年に三菱が払受けて明治26年が閉山ですので、臨時航海していても不思議ではないようです。なお端島は、三菱の買収が明治23年であるために記載がないのではないかと思います。 |
明治二十七年 [高島炭砿史より] | 三菱合資会社が発足すると同時に、同社長崎支店の所管となり、長崎~高島~端島間唯一の交通機関として日曜日1回、その他毎日3回あて運航されていた。 |
明治31年 [毎日新聞(明治31年1月8日付け)より] | 船名の記載はありませんが、「長崎港より高島、端島(高島の隣島にして目下盛に三菱社の採炭する所なり)の間に汽船をして二回の航海を為さしめ炭礦に於けるの需要物品及島内出入の人をして往復に便ならしむ」の記載があります。 |
明治三十一年度年報 [三菱社誌より] | 鋼製汽船ノ築造ハ明治二十年高島炭坑通信及曳船用ノ汽船夕顔號ヲ以テ其嚆矢トス
夕顔丸
種類:鐵製タグボート 、 總噸數:二〇六噸〇〇 、 實馬力:三三〇
起工年月:十八年十一月廿四日 、 竣工年月:廿年五月二十六日
注文主:三菱炭坑事務所 、 製造受負代價:三三、五五〇圓〇〇 <こちらもご覧願います。>
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彌生丸
種類:鐵骨木皮タグボート 、 總噸數:三八噸〇〇 、 實馬力:一〇〇
起工年月:二十年三月二日 、 竣工年月:二十年十一月十五日
注文主:三菱炭坑事務所 、 製造受負代價:一〇、〇〇〇円〇〇 <こちらもご覧願います。>
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明治34年3月28日 [三菱社誌より] | 豫備一等運轉士綾部信家ヲ夕顔丸船長ニ任ズ
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明治41年 [三菱社誌より] | 端島 夕顔丸便乗者待合所 暴風により潰滅 |
明治42年
| 航運会不況ニ際シ従来長崎支店夕顔丸乗組士官以下水火夫ニ対シ給料定額以外支給セシ所ノ士官金五圓、水火夫長金五圓五拾銭、水火夫金四圓五拾銭、船僕金参圓五拾銭ノ割増手当ヲ廃シ、更ニ従来ノ食糧士官金拾圓ヲ金拾貳圓、水火夫金貳圓五拾銭ヲ金四圓五拾銭ニ増額改定支給ス
以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十一』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、一一八七頁」の「社誌第十六巻 明治四十二年 十一月一日 夕顔丸乗組員割増手当廃止食糧増額」>より
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明治43年3月26日 [高島町の歴史年表より] | 14時30分頃、百間海岸で帆船3隻遭難の知らせに救助に向かうが、激浪に夕顔丸自体も舵を取られ座礁、船底の半を礫石中に突込み、翌日他の船により無事引降ろされ帰港する。
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明治44年8月15日 [三菱社誌より] | 長崎夕顔丸定繋浮桟橋延長 「炭坑舎」の項参照
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大正3年1月24日 | 社船夕顔丸自大正三年四月一日至大正四年三月三十一日軍事上ノ必要ニ際シ旅順鎮守府ニ於テ操業者乗組ノ儘傭上ノ予定ニテ予約請書及見積書提出ス、同船総噸数二百三十三噸三十六、一箇月賃金貳千圓ナリ
以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十三』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二〇〇五頁」の「社誌第二十一巻 大正三年 一月二十四日 夕顔丸傭上予約」>より
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大正4年1月13日 | 社船夕顔丸、高島丸、第二大城丸(以上長崎支店)、千鳥丸(譲渡手続中)、姫島丸(若松支店)、千鷹丸(高島炭坑)ヲ戦時事變ニ際シ命令次第御用船ニ應ズルノ請書ヲ佐世保海軍経理部ニ提出ス
以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十四』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、二四一八頁」の「社誌第二十二巻 大正四年 一月十三日 社船御用船ニ關シ請書提出」>より
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大正5年10月30日 [三菱社誌より] | 夕顔丸噸數輕減工事施工 長崎高島間定期航海船夕顔丸年年多額ノ損失トナリ居ル處同船總噸數僅ニ三噸弱超過ノ為上級船員乗組ヲ要スルコトモ其一原因ニ付定期検査施行ノ際金四百七拾五圓ノ豫算ヲ以テ噸數輕減工事を施工スルコトトス |
大正5年12月22日 | 長崎支店所属長崎高島間通航汽船夕顔丸有料便乗者ニ対シテ大正六年一月一日ヨリ通行税ヲ課スベキ旨長崎税務署ヨリ通達アリ、同支店ニ於テハ同船航行ノ主タル目的ハ高島炭坑ノ位置上運炭船曳船及坑用品其他積載上荷船ノ曳船等物資ノ集散ニ資シ居住者生活費ノ昻上ヲ防止スルト共ニ搭載郵便物ノ速達ヲ期シ便乞者ニ対シテハ少額ノ便乗料(高島二子島十銭端島十五銭)ヲ徴シ便宜便乗ヲ許セルモノニテ毎年約金七、八千圓宛ノ損失ヲ忍ビ決シテ営利ノ目的ヲ以テ航行セシメ居ラザル事情ヲ縷述シ異議ヲ留保シ置ケリ
以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十六』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三三三八頁」の「社誌第二十三巻 大正五年 十二月二十二日 夕顔丸有料便乗者ニ通行税賦課ノ件」>より
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大正6年1月24日 | 長崎及高島炭坑間往復ノ社船夕顔丸便乗者ニ対シ熊本税務監督署ノ意見ニ依リ、異議留保ノ儘通行税納付ノコトトス、右ニ付テハ同船ハ運送ヲ営業トスルモノニ非ズシテ便乗ヲ乞フ者ノ便ヲ圖リ特ニ便乗ヲ許セルモノニテ便乗料ハ船賃又ハ桟橋料ノ意味ナリトシ異議ヲ申立テタルモ官邊ノ意見ト一致セズ、炭坑部トモ打合ノ上納税ノコトニ決定ス
以上、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三六〇〇・三六〇一頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 一月二十四日 夕顔丸便乗者ニ係ル通行税ノ件」>より
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大正7年 [高島炭砿史より] | 三菱商事の発足に伴い、夕顔丸は同社長崎支店の所管となり、高島砿業所より焚料石炭(無料)及び補給金を受けて運航された。
以下、<財団法人 三菱経済研究所様>より
ただし、三菱商事社史にある三菱合資会社から引き継がれた15隻36,650屯の中には夕顔丸の名前は存在しません。
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大正8年 | 長崎市大浦の、通称炭坑社(三菱商事長崎支店)から高島炭鉱所属の夕顔丸に乗って、高島炭鉱本坑に着いた。
以上、<興梠友兼著、「忘れ得ぬ其日」、『石炭研究資料叢書』(九州大学 記録資料館 産業経済資料部門)、第27輯、2006年3月、30頁>より
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大正11年8月1日 [高島町の歴史年表より] 【一部内容修正】 | 大正10年12月18日進水の軍艦「土佐」はワシントン軍縮会議の結果建造中止となり、大正11年8月1日、夕顔丸他曳船4隻に曳航され伊王島北方で警備艦に引渡される。後日、「土佐」の縁の地、四国土佐沖で魚雷の実験標的となり海底深く沈んでいった。
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大正13年4月 [高島炭砿史より] | 従来三菱商事に委託していた石炭販売業務が、三菱鉱業の自営に切り替えられた際、夕顔丸は長崎支店の業務とともに三菱鉱業に引き継がれ、以後、高島砿業所で管理運営されることとなった。 |
昭和4年2月17日 [高島町の歴史年表より] | 18時頃、二子波止場沖合で夕顔丸より乗客40余名を艀船に収容したが、北の烈風で本船に強く衝突、その反動で傾斜転覆、付近の運搬船などが救助にあたるが不幸にして、婦人1名・幼男女3名の犠牲者がでる |
昭和6年 [”はしま”閉山記念特集号より] | 夕顔丸若松営業所より回送され以後社船として運航 |
昭和25年10月1日 [高島町の歴史年表より] | 運賃、従来2円を5円に、社外は30円となる。 |
昭和27年5月1日 [高島町の歴史年表より] | 海運局の通達により、従業員及びその家族の会社関係者以外の乗船を禁止。
|
昭和32年2月11日 [高島町の歴史年表より] | 夕顔丸、古希を迎え船上で祝賀式典を行う。 |
昭和37年3月31日 [高島炭砿史より] | 夕顔丸による長崎-高島・端島航路廃止 3月31日夕刻、夕顔丸は端島と高島を一周しながらお別れの汽笛を何回もならした。島民はアパートの窓や岸壁から誰もが手を振り、これを最後に廃船となる夕顔丸に限りない愛情と感謝の気持ちをこめて「さようなら」と言った。
|
昭和39年2月20日 [高島町の歴史年表より] | 夕顔丸、佐世保市佐藤造船所で解体される。 |
夕顔丸との関係が特に深い端島の先輩からは「夕顔丸が端島にやって来たのは昭和6年で、その前は北九州の若松にいた。」とのお話しを、夕顔丸との関係が特に深い高島の先輩からも「夕顔丸は最初から高島・端島に来ていたのではなく途中からやって来た。」とのお話しを伺ったことがあり、「昭和6年(1931) 夕顔丸若松営業所より回送され以後社船として運航」<”はしま”閉山記念特集号>との記載もあります。また、逆に、そうではなく当初から高島・端島航路に就航していたとのお話しをなされる端島の先輩もいらっしゃり、
「当初から長崎~高島~端島間の旅客船兼曳船として使用」<高島炭砿史>との記載もあって、就航開始時期については異なる情報が存在していますので、上段記載の「夕顔丸年表」などの情報から私なりに推測してみました。
明治20年4月是月として「長崎造船所ニ命シ汽船夕顔ヲ新造セシメ高島炭坑通信及曳船ニ充ツ船大サ貳百餘噸」<三菱社誌>との記載があるとおり夕顔丸は最初から高島炭坑用として建造されていて、
明治22年の「高島炭坑石炭運送船曳船ノ為毎日午前七時正午十二時ノ両度長崎高島往復航海仕度且ツ中島ヘモ臨時航海致度候」<三菱社誌>の記載には、三菱による端島炭坑買収は翌年の明治23年であるためか端島の名称は出てきませんが、高島と臨時で中島への航海は行われていて
との記載からも、夕顔丸は明治時代や大正時代にも高島・端島航路に就航していたことが分かります。
つきましては、端島への就航開始は高島と比べて若干のタイムラグはあるかと思われますが、夕顔丸は当初から高島・端島航路に就航していたと私は思っています。ただ、
外国船の長崎港出入時の曳船<高島炭砿史>、
遭難船救助<長崎新聞>、大正11年の戦艦土佐の曳航を行うなど、高島・端島航路以外の業務も行っていましたので、一時的に高島・端島航路から離れて若松営業所の業務を行い、その後、高島・端島航路に戻ってきた際には、従前の所属先ではなく、高島炭坑所属として運航されるようになったので、「昭和6年(1931) 夕顔丸若松営業所より回送され以後社船として運航」の記録が残ったのではないかと思っていますがいかがでしょうか?。ちなみに、時期に相違はありますが、<高島炭砿史>には大正13年4月のこととして
「夕顔丸は長崎支店の業務とともに三菱鉱業に引き継がれ、以後、高島砿業所で管理運営されることとなった。」の記載があり、こちらにも管理運営先が高島炭坑となった旨の記載があります。なお、私が把握できている範囲ではありますが、管理運営先が高島炭坑となる以前の夕顔丸の経歴については、注文主が三菱社三菱炭坑事務所で、三菱合資会社長崎支店、三菱商事長崎支店と繋がるようです。また、夕顔丸の経歴については
こちらもご覧ください。
以上、思うがままに記載をさせていただきましたが事実を知りたい一心での記載ですのでご容赦をお願いいたします。どなたか、ご存知の方がいらっしゃいましたらお教えいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
以下、戦後の夕顔丸等社船による長崎-高島・端島間の運航時間について記載いたします。なお、年代や季節によりましても運航時間には相違があるかと思います。まだまだ、情報は乏しいですがお許し願います。
- 第1便が午前6時半、第2便が午前11時、そして最終の第3便が午後4時に高島を出港し、端島を経て、ふたたび高島へ戻り、長崎港へのコースをとった。
<『軍艦島は生きている! 「廃墟」が語る人々の喜怒哀楽』、長崎文献社、2010年、44頁>より
- 午前9時30分、長崎からの2回目の船が着きます。新聞や郵便それに日用品などを積んでくる船ですが、 (以下省略しました。)
<NHK短編映画 緑なき島 (昭和30年11月17日 NHK総合で放送)>より
- 最後の便が三十一日午後四時二十分長崎市松ヶ枝町の同社さん橋から出港
<長崎新聞(昭和37年4月1日版)>より
- 長崎を7時発の便
<高島炭砿史>より