14号棟

 最終の14号棟 : 昭和16(1941) 鉄筋コンクリート造5階 職員社宅(中央社宅)
*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 このページでは、大正初期に建っていた3・4・13・14及び15号棟については建物名称の頭に「旧」の文字を付して旧3・旧4・旧13・旧14及び旧15号棟と表記し、昭和時代に建て替えが行われた3・13及び14号棟ではそのままの建物名称で表記しています。

〔 14号棟今昔 〕

写真《長崎港外三菱端島炭坑五階屋社宅》  <昔の絵葉書より 提供受絵葉書>
 大正初期頃の絵葉書と思われ、絵葉書中央の建物が旧14号棟(五階屋社宅)で、旧14号棟の右下隣が旧13号棟、左隣が旧15号棟、絵葉書の左端が端島神社で、日給はまだ建築されていない頃の光景となります。
 ちなみに、旧14号棟の建築については、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、518頁>の「大正2年(1913)端島に5階建社宅落成」や<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.620>の「明治末年(1910年ころ),旧14号棟が建てられた.木造5階建ての陸屋根で,屋上庭園を有していた.」の記載があります。


写真<2013年撮影>  <長崎市の特別の許可を得て撮影>
 閉山の頃は、高層の建物が数多くあり、上段の絵葉書と同様に14号棟と建物が載っている擁壁を同時に見るには、このように、20号棟と21号棟の間から見るしかないようです。
 私としては、端島の高台にある建物群が載っている擁壁も、注目すべき構造物の一つではないかと思っています。


写真<高島炭鉱模型>(部分)
 長崎市のグラバー園に設置されている「高島炭鉱模型」の部分写真になります。
 模型の説明によりますと「原作は明治42年作」とあり、旧14号棟が建築される前の光景となるようです。
 左写真では、黄色の丸い枠で囲まれた部分が、大正初期に旧13、旧14、旧15号棟があった場所になるかと思いますが、それらの場所には建物が3棟並んでいますので、明治時代には既に現在の規模の擁壁が構築されていたのではないかと思います。




〔 先代・旧14号棟 〕

写真《端島坑外実測図〔部分〕 (大正十年度 高島炭礦端島坑 実習調査報告書附図)》
  <九州工業大学附属図書館所蔵>

 旧14号棟周辺の図です。図の中央が旧14号棟で、右側には小さな建物を一つ挟んで旧13号棟、上段には左側が旧3号棟で右側が旧4号棟、そして、左側には旧15号棟が建っています。
 私としては、旧14号棟は30号棟建築の際にモデルとなった建物の一つではないかと思っていて、その理由は以下のとおりです。
  • 細長い構造物で区切られてはいますが、旧14号棟の建物内側には30号棟と同様に空間部分があること。
  • 双方とも上から見た建物の形がほぼ正方形をしていること。
  • 双方とも建物脇の岩礁等への連絡通路(30号棟の連絡通路はこちら)が設けられていること。


 また、旧14号棟に付随した連絡通路については、以下の3箇所に設置されていたのではないかと思っています。
  • 旧14号棟の右側(南側)の箇所(下段に掲載の絵葉書や古写真に連絡通路らしき姿が写っています。)
  • 旧14号棟の左側(北側)で旧15号棟との間に描かれている縦や横の2本組の線の箇所
  • 旧14号棟内側にある空間部分を区切っている細長い構造物の箇所(あくまでも個人的感想で想像を膨らませ過ぎかも知れませんが、細長い構造物は建物周囲の住居部分と比べると格段に細く、建物左側(北側)の連絡通路らしき構造物と同じぐらいの幅であることがその理由です。)
 もし、上記の3箇所に連絡通路が設置されていたとしたら、旧4号棟附近からは、旧14号棟右側(南側)の連絡通路から旧14号棟内に入って、建物内側にある空間部分を区切っている細長い構造物の連絡通路を通り、最後は建物左側(北側)の連絡通路から旧15号棟付近へと、往来ができていたように思います。
 ちなみに、連絡通路の構造等については、<阿久井喜孝 他、『軍艦島実測調査資料集【追補版】』、東京電機大学出版局、1984、418・419頁>の図版5-55~57も大変参考になるかと思います。(※ 図版5-57では旧15号棟は描かれていないようですが、昔の写真によれば、旧15号棟は大正の末頃に姿を消しているようなので、図版5-57はその後の状態の図であるように思います。)


写真絵葉書《長崎港外三菱端島炭坑五階屋社宅》の部分拡大
  <昔の絵葉書より 提供受絵葉書>

 冒頭の絵葉書から旧14号棟部分を抜き出しました。階数としては最上階の5階が完成しているようですが、下段写真に写る屋上への通路や屋上の手摺が見えないようで、また、建物正面(西側)全体と右側(南側)の一部に設けられた足場の規模から、まだ、建物は完成しておらずに落成直前の光景ではないかと思っています。
 ちなみに、建物3~5階の右側には岩礁側(旧3・旧4号棟側)との連絡通路が見えていますが、現在、51号棟と日給間などのいわゆる「空中廊下」の先駆けになる構造物ではないかと思います。


写真絵葉書《長崎港外三菱高島礦業所 端島坑 (九階建社宅方面)》の部分拡大
 5階建ての大きな建物が旧14号棟ですが、こちらの絵葉書でも、建物3~5階の南側には岩礁側(旧3・旧4号棟側)との連絡通路が見えています。また、上段の絵葉書では確認することができない「屋上への通路」(建物右上の隅)や屋上の手摺を確認することができます。
 ちなみに、<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.620>には「我が国最初の屋上庭園(1910年ころ)」のタイトルに続いて、「明治末年(1910年ころ),旧14号棟が建てられた.木造5階建ての陸屋根で,屋上庭園を有していた.」や「古い三菱石炭鉱業高島砿業所施設課にあった記録によると<屋上ハ花卉ノ栽培場ニ充ツ>とあり,当時の写真にも,それらしいものが屋上にみられる.」との記載があり、旧14号棟の屋上には日給の屋上よりも先に緑があったことが伺えます。
 また、<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.620>には「柱梁は木造で,スラブはコンクリート造の建築だった.」との記載もあり、部分的ではありますがコンクリートも使用されていたようです。


写真《端島旧五階家および九階建一部》
  <写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>

 写真中央の19号棟は9階建てと増築が完了していますが、写真右側の14号棟は建て替え前の姿ですので昭和10年前後頃の光景になるかと思います。旧五階家が旧14号棟で、九階建が日給のことかと思いますが、この頃は、旧14号棟よりも後に建った5階建ての25号棟を新五階と呼んでいたそうで、同じ五階建てを「新」と「旧」で呼び分けていたそうです。
 なお、旧14号棟の右端には建物と岩礁側(旧3・旧4号棟側)との連絡通路の接続箇所があって空間部分となっているようですが、よく見ると、5階にある空間の先には建物の反対側が見えているような気がするのに、4階の空間では暗くなっていて何も見えていません。ついては、5階と4階の空間の先の構造には何らかの違いがあるように思っています。


写真絵葉書《長崎港外三菱端島炭坑五階屋社宅》の部分拡大
  <昔の絵葉書より 提供受絵葉書>

 旧14号棟の南側から延びる連絡通路と岩礁上にある連絡通路の接続箇所の光景です。旧4号棟の下には右側に延びる2本の連絡通路が見えていますが、閉山の頃には5号棟前を通って上風呂等に向かう1本の連絡通路しかなかったように思います。


〔 最終・14号棟 〕

写真<左写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より>
 新しい14号棟は角度を変えて建てられたため、建物の中央から右側(13号棟側)では擁壁と建物の間に若干の空地ができています。


写真《昭和32年第28回メーデー ビルの谷間をデモ行進》
  <写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 右側の建物が14号棟東側の光景となります。また、写真左側には、擁壁と擁壁上の建物が見えていますが、鉄筋コンクリート造4階の3号棟(昭和34年完成)が建つ前の光景で、昔の地図を見ますと、奥の建物が旧4号棟で、手前の建物が旧3号棟となるようです。

写真<所有写真>
 昭和20年代中頃と思われる写真です。右端にある5階建ての大きな建物が新しい14号棟です。


写真<写真は島の先輩より>
 昭和40年代の光景ではないかと思います。14号棟の南側にあった崖?の上で、大人の方が作業をしていますが、もしかしたら植樹のための作業でしょうか?。
 ちなみに、崖下には、13号棟、14号棟及び21号棟からの通路が交差している三叉路が見えています。


〔 閉山後の光景 〕

写真


写真<2018年撮影>
 中央の建物が14号棟で、上部には水色の3号棟が、下部には48号棟と21号棟が写っています。


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