26号棟

 最終の26号棟 : 昭和41(1966) プレハブ2階 下請作業員飯場(旧船頭長屋)
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 昭和41年(1966)建設、軽量鉄骨プレハブの2階建て下請飯場用住居である。その敷地が端島で最も早く人が住みついたと考えられている場所、旧船頭小屋(船見小屋とも言われる)の跡地である。十数メートルの高さで垂直に積みあげられた砂岩の擁壁には、端島の旧護岸では最も古い部分であり、何時の時代から人が定着したか不明であるが、明治23年、三菱が端島を買収する以前から旧鍋島藩の手で採炭が行われており、石炭の積出しや人荷の輸送に雇われていた艀(団平船ともいう)の船頭たちの長屋がそこに建てられていたといわれる。

<阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)p.668より>


 昭和初期にお生まれの島の先輩から、「島の統括者、権力のある人、いわゆる上層階級の人は島の上部に大きな家を建てて住んでいたと思う。社船夕顔丸が就航して、ここに船頭さん五人の世帯が住むようになったと考える。父母の話では以前は職員社宅だったとのことである。」とのお話を聞いたことがあります。


 また、<『炭の光』、第100号、昭和33年5月1日>には、永年勤続表彰(二十五年)を受けられた船夫2名のお話が掲載されていますので、下記に記事の一部を紹介させていただきます。

〇お二人とも入籍は昭和7年であること
〇昔はカンバ船は、どんな時化ても沖に繋で置いていたが、朝岸壁から飛び込んでそこまで泳いでゆき、漕いで来るということをしていたこと
〇昔の仕事(一部)は、

・夕顔丸の見張り番(香焼の方から来る夕顔丸を見ていて、高島に入ったら労務(今の勤労)に知らせに行き、それから三笛を鳴らす)
・清算金、郵便用事箱等の運搬、配達
・中の島で飼っていた牛や鶏の餌の運搬 等々


写真
<??代>
《 高島炭坑 高島二子島及ビ端島 》からの部分拡大
 30号棟が建つ前の光景のようです。写真中央の、山?、崖?の中腹にある建物の場所は、閉山時に26号棟があった場所と思います。また、島内からの撮影の こちら の写真でも、閉山時に26号棟があった場所に建物が見えています。

写真《 高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima) 》からの部分拡大
 閉山時に30号棟が建っていた場所周辺の拡大写真です。写真の中央には第三竪坑櫓と旧26号棟が並んで見えていますが、台風対策のためでしょうか?、旧26号棟の2階部分と岩礁の間には支え棒らしきものが見えているようです。ちなみに、 こちら の写真でも旧26号棟の2階部分と岩礁の間には支え棒らしきものが見えているようです。(参考: 9号棟の支え棒


写真<先代>
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 昭和33年頃の端島の光景ですが、30号棟の上の方に、木造の2階建て?が見えます。


写真
<最終>
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 30号棟の上に、白く2階建ての建物が見えますが、それが26号棟です。


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