68・69号棟(病院)

最終の68号棟 : 昭和33(1958) 鉄筋コンクリート造2階 隔離病棟
最終の69号棟 : 昭和33(1958) 鉄筋コンクリート造4階 端島病院
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 私が知り得ている端島の最も古い病院情報は、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、170頁>に記載がある 「明治32年7~12月のこととして、端島に第二病室1棟設置」 ですが、第二病室とありますので、実際の開始時点はもう少し早かったようです。ちなみに、高島まで範囲を広げると<毎日新聞(明治31年1月8日付け)>に記載されている「高島炭礦の沿革及現状(下)」の「▲衛生」の項にある「高島炭鑛は衛生上病者の治療に就て少しく誇る所あるが如し鑛夫の病者には重病なるのもは病室に入院せしめ軽病者は投薬を怠らざるは感ずべし目下一日の投薬患者は五六十人或は百人なりと患者の投薬は悉く無代価なり」が最も古い病院情報になります。


写真《長崎港外端島名勝 三菱病院》  <所有絵葉書>
 写真中央奥の横に長い建物が病院のようで、撮影時期は 昭和8年頃の先代校舎建設 よりも前の時期ではないかと思います。ちなみに、昭和一桁の終わりから昭和十年代の中頃に撮影されたと思われる 絵葉書《端島小学校並ニ稼働者住宅》 の左上の部分にも同じ形の建物が写っているようですが、 昭和32年4月火災時の病院建物 と見比べますと、こちらの建物とは形に違いがあるようなので、途中、建替か改修があったのではないかと思います。


写真《高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima)》 の部分拡大
 大正初期の頃の撮影と思われる絵葉書から、上段写真に写る病院と思われる建物があった場所周辺を切り抜きましたが、上記写真に写る病院と思われる建物は見受けられないようです。ちなみに、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十六』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三三五四頁」に記載の「社誌第二十三巻 大正五年 十二月二十五日 大正六年度各炭坑起業費」>の中には「端島病院改築費 一一、二九〇圓」の記載があります。


《昭和32年4月1日撮影  学校焼け落ち病院避難》
 <高比良勝義氏(元島民)撮影>

 昭和32年4月1日に焼失した病院の病床数としては、<『町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)』、昭和30年2月10日>に、端島隔離病舎28、高島砿業所端島病院35の記載があります。
 また、この時代の病院建物に関しましては、昭和32年4月1日に発生した端島小中学校・病院火災のページもご覧ください。


写真<写真は島の先輩より>
 病院裏側の光景です。メーデー時の光景ですが、多くの人々が集まっています。また、写真右端には、テニスコートのフェンスが見えています。

 <『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、123頁>には昭和33年3月8日のこととして「端島、新病院完成し診療を開始。」の記載があり、<『炭の光』、第99号、昭和33年4月1日>ではタイトルが「端島新病院完成」で「三月はじめに仮設病院の体育館より移転を始め、八日にはさっそく、真新しい設備により診療が開始された。一階、先づ玄関を入ると右側が事務室、受付があり、薬局、処置室、外科。二階は、内科、耳鼻科、歯科、婦人科、手術室。」や「三階は、院長室、研究室、衛生管理室、病室があり病室の数は、大部屋三、小部屋六、合計するとベッド数二十九台が備えられている。」等の記載があります。

 また、<『炭の光』、第91号、昭和32年8月8日>では「旧病院が焼失して以来、病院は体育館の中に仮住まいしていたこと」、「四階建となるため、建坪は前の病院のほぼ半分であること」や「病院の建築場所は埋立て地である為、地盤が非常に軟く、その上に四階建のコンクリートの建物を直接建てることは出来ない。そのため珍らしい方法で基礎工事を行つている。それは、先づ長さ約十米の十七インチパイプを地面に打ち込み、その後にパイプの中にコンクリートを打ち込みながら徐々にパイプだけを引き抜いて行く。するとパイプの中に打ち込まれたコンクリートが円柱形となるが、パイプを引き抜くと正確な円柱形がくづれて、廻りに凹凸の出来た棒状となる。この凹凸がしつくりと地盤に喰い入つて頑丈な基礎が出来る。その上に更に、普通の土台を造つて始めて基礎工事が完了したことになる。この方法はペデスタルといわれている。」との記載がありますが、病院が仮住まいしていた体育館とは51号棟が建つ前にあった 「砿業所武道場兼体育館」 のことと思います。

 なお、新病院の状況については<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、417頁>に、「昭和33年3月に鉄筋コンクリート造り4階建の新病院が完成し,病院長以下医師9名,薬剤師1名,看護婦14名を擁して面目を一新した。」や、昭和44年の病院の規模として「端島が一般病床32床,結核病床16床,伝染病床10床,計58床であり,医師4名,薬剤師1名,看護婦7名で医療に当り,端島で収容できない患者は,高島で処置が行われた。」の記載があり、昭和44年には昭和33年と比べて医師と看護婦の数が半減するなど厳しい状況に置かれていることが分かります。ちなみに、 昭和39年発生の坑内事故 以降の 人口減少 、昭和44年の 三菱鉱業株式会社からの独立による三菱高島炭砿株式会社発足 、昭和46年の 三菱従業員・ご家族の加入保険変更(三菱鉱業健康保険 → 政府管掌健康保険) など、端島病院にとって昭和40年代は厳しい状況の連続だったように思われます。


写真
<写真は島の先輩より>
 左写真ですが、病院玄関の光景かと思います。検診時の受付光景でしょうか。

写真<写真は島の先輩より>
 病院玄関から入って左に折れた廊下の先で、通常は外来の待合場所だった部分かと思います。検診時の視力検査の光景でしょうか。


写真 記載がある 三菱石炭鉱業(株) は昭和48年12月15日に発足した会社になりますので、その時に「三菱石炭鉱業(株)端島砿診療所」もできたものと思われます。
 


写真<左写真は、長崎市高島町に有る「端島模型」より>
 水色?の建物に外来及び一般病棟があり、その後ろが隔離病棟です。私事ですが、玄関扉に指を挟まれて怪我をしたり、別の怪我で入院した記憶もあります。
 ちなみに、病院前の広場には丸い花壇があったようですが、<『炭の光』、第168号、昭和39年4月17日>には、昨年の4月に園芸同好会が発足したことや、こんごの美化計画について「端島には花壇形式のものがないので、病院前の広場を花壇にして、みんなで楽しめる場所とするため、シーズンをひかえて、着々と準備中」」の記載があります。また、昭和40年代中頃の非常に短い期間ですが、広場にたくさんの資材が置かれていた時もあり、子どもたちのいい遊び場でした。


〔 三菱鉱業健康保険組合端島支部 〕

写真<三菱鉱業健康保険組合端島支部 昭和33年度健康賞>
 三菱鉱業健康保険組合端島支部は、島で三菱に勤務されていた方やそのご家族がお世話になった支部かと思いますが、その支部が昭和33年度に配布した健康賞の袋となるようです。
 ちなみに、A4程度の大きさの袋で上部にはチャックがあり、「三菱鉱業健康保険組合端島支部」の記載がある面の反対面には島のイラストが描かれていて、袋の内側に「昭和33年度健康賞」の記載があります。健康増進策の一環として配布されたものでしょうか?。
 なお、<『規約・規程・協定集』、三菱高島炭礦労働組合>に掲載されている『三菱健保政管移行に関する協定(昭和四十五年十二月十九日)』には「三菱鉱業健康保険組合は、昭和四十六年四月一日付を以て、三菱高島・三菱大夕張両社の各事業所を三菱鉱業健康保険組合より事業所削除し、両社各事業所は同日以降、政府管掌健康保険に加入するものとする。」との記載があり、閉山間際の頃は「三菱鉱業健康保険組合端島支部」は存在しなかったようです。


〔 閉山後の光景 〕

写真
<2004年撮影>

写真
<2017年撮影>


写真<2004年撮影>
 護岸の上から少し顔を出してるのが隔離病棟で、その後ろは67号棟になります。なお、現在(2018年)は復旧されていますが、この時は護岸の右端上部が壊れています。


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