閉山・総員退艦への変遷

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 始点をどこに置くかはいろんな候補があるかと思いますが、先ず第一歩としては以下のとおり作成してみましたので、ご覧いただけましたら幸いです。

〔 上層開発工事疎水卸中止水没 〕


〔 自然発火(8片以深水没,深部放棄) 〕



〔 三菱高島炭砿株式会社 発足 〕

写真<写真は島の先輩より>
 <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント株式会社、1989、425頁>には、「昭和44年10月1日,三菱高島炭砿は営業を開始した。同月13日,高島において新会社発足式典が行われた」との記載がありますので、写真の光景は高島で昭和44年10月13日の光景ではないかと思います。

 三菱高島炭砿株式会社の概要としては、<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、424頁>に掲載されている「協定書」に「三菱鉱業株式会社と全国三菱炭砿労働組合連合会及び端島労働組合とは,石炭生産部門の独立に関し,下記のとおり協定する。」や「新会社として,高島砿業所(二子坑,端島砿)及び鯰田炭砿を継承する三菱高島炭砿株式会社並びに大夕張砿業所(大夕張鉄道を含みメタノールを除く)及び南大夕張開発事務所を継承する三菱大夕張炭砿株式会社を,夫々発足させるものとする。」などの記載があって、三菱高島炭砿株式会社には高島、端島のみではなく鯰田炭砿も含まれています。

 ちなみに、<三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、420頁>には「第4次石炭政策」として「再建可能と見込まれる企業には約850億円の再建交付金(第2次肩代わり)を交付し,助成の手を差し伸べる一方,第4次政策の枠内で生き残れない企業には,「企業ぐるみ閉山」を促す特別閉山交付金制度を設け,撤退を促した。この結果,昭和44年に入り,大手石炭会社の明治鉱業,杵島炭砿,麻生産業が相次いで会社を解散し,45年には雄別炭砿が企業ぐるみ閉山した。
 一方,三菱鉱業はこの時点で石炭生産部門を分離した。」の記載があって、石炭業界は益々厳しい状況に置かれることとなります。

 また、三菱高島炭砿株式会社発足後の昭和46年4月には、島で三菱に勤務されていた方やそのご家族が加入されていた健康保険が「三菱鉱業健康保険」から「政府管掌健康保険」に変更となり、福利厚生面においても状況変化が起こってますが、その概要については こちら をご覧ください。



〔 端島沖掘進中止に関する協定 〕

  • 次期稼行区域として昭和40年度から開発に着手し,探炭坑道掘進中の端島沖区域は,調査の結果炭層が深度1,200m以深に賦存し,到底稼行の対象となり得ないことが判明した。そこで45年3月その区域の開発を断念した。
  • 同年9月17日に妥結し,この結果端島は現稼行区域の三ツ瀬区域の残存炭量約200万tを有利採掘して閉山するとの基本路線が確定した。
以上、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント(株)、昭和51年、918頁>より

  • 昭和43年10月から端島沖で海上ボーリングを実施して調査した結果,目的としていた上八尺層着炭予想深度は,-1,000m以深と想定されるに至り,将来有望と目されていた端島沖区域の開発は,一転して絶望となった。
  • 昭和45年9月17日,端島労組との間に「端島沖掘進中止に関する協定」が締結された。
  • この協定の趣旨は「端島の砿命に自ら限界が見通される状況となり,現稼行の三ツ瀬区域の残炭量を有利稼行して閉山することとなるが,それまでの間は,会社側は人員の確保,労働条件の維持向上,職場環境・福利厚生設備の充実に努める。一方,組合側は計画出炭・責任原価の達成に協力する」ことを協定したものであった。
以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、445頁>より

  • 1970年は端島労組にとって、まさに激動の年であったといえる。7月1日会社に対し要求書を提出し、「閉山の予告」・「閉山時退職条件の保証」等を獲得
以上、<端島労働機関紙『はしま』、昭和46年1月1日>より

 時期は未定ですが、遂に端島炭砿の閉山が決定します。なお、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、445頁>には「この交渉の中で最も問題となったのは人員の確保であった。実際に会社はその後閉山が噂される中で,周辺の閉山炭砿から必要最小限度の優秀な直接員を採用」の記載がありますが、私には昭和40年代中頃ぐらいからか他の炭砿閉山により端島に移ってこられた方々がいらっしゃったことは記憶に残っています。でも、その端島も昭和49年に閉山となり、その方々にとっては短い間に二度の閉山をご経験なされて、大変なご苦労の連続だったのではないかと拝察いたします。



〔 砿命問題報告会 〕

写真<写真は島の先輩より>

写真<写真は島の先輩より>


  • 昭和47年11月11日三菱高島炭砿社は臨時経営協議会を開催し、今後の採掘計画について説明したが、一方労組も残炭量および今後の採掘計画等を検討し、48年12月より49年2月ごろまでの間が閉山の時期と考えられる旨の組合見解を発表し、閉山は今後の予定事項となった。
以上、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、918・919頁>より

  • 会社に対し砿命の限界を明らかにする様に要求してきたが言明なし、組合独自の判断によって炭量を推定し、(昭和47年)11月25・26日に砿命報告会を開催
以上、<端島労働機関紙『はしま』、昭和48年1月1日>より



〔 閉山交渉 〕

  • 三菱高島炭砿が発足してから4年を経た昭和48年9月に,会社は 三ツ瀬区域の切羽が海底下120m に近付き,安全に採掘しうる炭量が枯渇して砿命が尽きたと判断したので,同月7日臨時経営協議会を開催し,その席上社長が労組に対し,明くる49年1月中に端島砿を閉山,従業員全員を解雇したい旨提案した。

  • 昭和48年9月17日,会社は労組と団体交渉に入り,連日交渉を行なったが,その後,交渉をいったん中止し,労組陳情団が上京して通産省,労働省に陳情,さらに三菱鉱業セメント本店に社長を訪問し,閉山条件に親会社の配慮を訴えた。
     かくして,昭和48年10月12日閉山交渉は円満裡に解決したが,対労組合意の主要点は次の通りであった。
    (1) 端島砿は昭和49年1月15日をもって閉山し,同日付けをもって従業員を全員解雇する。
    (2) ※記載を省略しました。
    (3) ※記載を省略しました。

以上、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、446頁>より

 遂に、閉山の時期が決定します。ちなみに、私の記憶の中にある閉山を意識した時期は 昭和48年4月頃 のことです。


[ その後の動き ]
 <三菱鉱業セメント株式会社高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、445頁>に掲載の「第25表 出炭・人員・能率の推移」における年度欄の最後は「48(48/4~48/12)」とあって、表の最後には「(注)49年1月は撤収作業のみを行った。」との記載がありますので、端島砿最後の出炭は昭和48年末となるようです。ちなみに、<加地英夫著、『私の軍艦島記 端島に生まれ育ち閉山まで働いた記録』、(株)長崎文献社、2015年、226頁>には、昭和48年のこととして「12月12日(水)撤収作業がはじまり、工作課の仕上工場は坑内外のすべてのモーターの倉庫になってしまった。」との記載があって、昭和48年には撤収作業も始まっているようです。



〔 端島砿閉山式 〕

写真《三菱石炭鉱業株式会社 高島砿業所端島砿 閉山式》  <写真は島の先輩より>
 写真の垂れ幕や当該写真のタイトルには「三菱石炭鉱業株式会社」との記載がありますが、<三菱鉱業セメント(株)総務部社史編纂室、『三菱鉱業社史』、946頁>には「昭和48年12月15日三菱大夕張炭砿,三菱高島炭砿の両社は合併し,三菱石炭鉱業株式会社として新発足した。」との記載があり、新発足したての会社による式典だったようです。

 <『長崎新聞(第9816号)』、昭和49年1月16日、朝刊9面>に掲載の「三菱石炭鉱業株式会社 高島砿業所端島砿 閉山式」の記事では、社長のあいさつには「創業以来、最上質の原料炭を出炭。戦前、戦後を通じてわが国の経済発展の原動力となってきた。だが保安上、採掘できるスミを掘り尽くした。天寿を全うしたとはいえ断腸の思いだ」の発言があって、端島労組組合長のあいさつには「炭鉱の閉山旋風の中で黒字のまま閉山するのは端島だけだ。」の発言があったことの記載があり、端島砿は黒字経営のままで天寿を全うしたことが分かりますが、そのことは当時の端島島民にとって非常に誇り高きことだったかと思います。なお、黒字経営や天寿を全うすることができた要因については、 軍艦島デジタルミュージアム に掲載の 島民コラム「随筆 私の端島」 にて、「 端島炭(原料炭) と石油及び輸入原料炭」をキーワードした説明がなされていますので、よろしければご覧ください。

 ちなみに、当日の様子としては<『週刊朝日』、朝日新聞社、昭和49年2月1日発行、通巻2885号、11・12頁>に、「閉山式の15日,式に先立ち端島小・中学校の校庭で同校の生徒が 「サヨナラ ハシマ」 の人文字を描き,閉山を惜しんだ。」、「閉山式はたんたんと行われた。しかし,閉山で職を失う約800人のうち,再就職先が決まっているのは,130人余り。出席した従業員,家族の顔には,将来に対する不安がにじんでいた。」や「閉山式のあと,同じ会場で子どもたちを集めたサヨナラパーティーが開かれた。お姉さん,お兄さんの指導で歌う子どもたちの表情はあどけなく,それが閉山の哀しみを誘った。」などの記載があります。


[ 端島砿閉山式と総員退艦完了の間の出来事 ]



〔 総員退艦完了 〕

 長崎新聞(昭和49年4月21日 日曜日)には「二十日午後四時五十分、端島発高島経由長崎行きを最後に五十八年間続いた高島-端島航路は閉鎖され、軍艦島は同日最終便で全員”総退艦”」や「五十八年間の間に代わった船は二十隻」等の記載があります。
 また、その時の光景としては、<雜賀雄二、『軍艦島 眠りのなかの覚醒』、(株)淡交社、2003年5月8日再版、129頁>に、「4月20日(土) 雨」の日のこととして、「船上の人たちにしっかりと握られている色とりどりの紙テープの片方は、見送る者のいなくなった桟橋の鉄柱に、何重にも結びつけられていた。」や「汽笛を何度も何度も鳴らし続けながら、船は島を回り始めた。最後の島の姿を見ようと、人たちは左の甲板に押し寄せて、船は転覆するほど傾いた。」、「一周すると、「せい丸」は高島に向かってゆっくりと進んでいった。蛍の光は、まだ流れていた。」等の記載があります。

 ちなみに、私の退艦は最後の方でしたが、多くの離島する方々を見送っている内にかなり不安な気持ちとなって、退艦ができた時にはほっとしたのを覚えています。なお、島を出てから暫くは端島の夢をよく見ましたが、何と上空から島を眺める夢で、南部の大部分は海面下に没し建物等がどうにか海面から出ている夢もありました。今思えば、近くに住んでいながら、最終便に乗船しなかったことが悔やまれてなりません。


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