護   岸

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 端島は小さな岩礁(山)の島であり、本来の岩礁(山)だけでは広さが不足するために、護岸を設け内側を埋め立てて施設や建物を設けていました。ついては端島にとって護岸は不可欠で基盤的な構造物であり、雑学的ですが護岸について記載していきたいと思います。


〔 護岸の被災箇所別一覧 〕  ※被災時期別の台風等被災状況については こちら をご覧ください。

写真
《 南部付近 》

明治38年(1905年)
南部、西部が破壊されています。
大正14年
かなり大きな被害だったようです。
昭和31年
まさに大正14年被災時と同じ箇所が崩壊。崩壊により1897年(明治30年)拡張時の護岸が見えます?。
平成3年
残念ながら護岸崩壊時の写真を持ち合わせておりません。
平成18年
護岸上部のみの崩壊で済みました。


写真
《 30・31号棟付近 》

昭和31年
南部の少し北側になります。
平成3年
残念ながら護岸崩壊時の写真を持ち合わせておりません。


写真
《 50号棟(昭和館)付近 》

昭和31年
昭和館(映画館)正面広場の被害光景です。
昭和34年
昭和館(映画館)内部の被害光景です。
平成3年
昭和館が倒壊した時ではないかと思います。
令和2年(2020年)
公民館の裏の護岸が一部倒壊しました。


写真
《 資材倉庫付近 》

昭和31年
島の東側、長崎(野母崎)半島側の崩壊です。崩壊により1897年(明治30年)拡張時の護岸が見えます?。


写真
《 ちどり荘付近 》

昭和31年
昭和32年4月1日には復旧していたようです。


写真
《 学校海岸付近 》

平成3年
学校海岸付近の護岸(左写真の赤丸の部分)が崩壊し、校舎下やグランドの土砂が波に削り取られて海と化した台風被害です。その時は校舎の基礎が露出し、校舎のかなりの部分が海面上にありました。


写真
《 48、51号棟付近 》

大正14年
閉山時の48、51号棟が建つ前の出来事です。



〔 関連情報 〕

以下、明治時代、大正時代の護岸関係情報です。
  • <端島炭坑ニ関スル報告書 : 大隈大蔵卿宛>  <リンク先 : 「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」>
    明治九年の文書です。波除ケ石垣についての記載があります。
  • 端島海岸石垣根巻及修理費 五、〇〇〇圓
    <以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十二』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、1842・1843頁」の「社誌第二十巻 大正二年 各炭坑大正三年分起業」より>
  • 端島西海岸石垣根巻工事費 一八、〇〇〇圓
    <以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十四』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、2563~2565頁」の「社誌第二十二巻 大正四年 八月二十一日 各炭坑起業」より>
    ※<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3774~3777頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 二子海岸石垣築造外竣工」には、「端島ノ部」として「西海岸石垣根巻工事費 竣工年月日:大正6年12月30日打切 決算金額:11,503円98」の記載があります。>
  • 端島南岸鐵筋「コンクリート」突起工事費 一四、〇〇〇円
    <以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十三』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、2052~2054頁>の「社誌第二十一巻 大正三年 高島炭坑起業費追加認許」より>
    ※<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十七』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3774~3777頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 二子海岸石垣築造外竣工」>の中には、「端島ノ部」として「南岸鐵筋「コンクリート」突堤工事 竣工年月日:大正6年12月31日打切 決算金額:10,564円13」の記載があります。


〔 南側護岸 〕

写真《高島炭坑 高島二子島及ビ端島》(部分)
  <所有絵葉書>

 大正初期の頃の撮影と思っている絵葉書からの部分拡大で、南側からの島の光景となりますが、護岸の色が場所によって薄かったり濃かったりと斑模様となっているようです。その原因は、あくまでも私案ですが、護岸の一部分が崩壊している時か、復旧後間もない頃の光景ではないかと思いますがいかがでしょうか?。下表に記載の護岸の一部分が崩壊している時や復旧後間もない頃の光景を見ますと、当該箇所は周りの護岸とは色が違っていて斑模様の原因になり得るのではないかと思いました。

場所崩壊時復旧後間もない頃場所崩壊時復旧後間もない頃
公民館付近護岸 こちら こちら 南部付近護岸 こちら こちら
隔離病付近護岸 こちら こちら 48・51号棟付近護岸 こちら こちら


写真<比較写真 2023年撮影>
 上段絵葉書の撮影場所や撮影方向を特定するために、2023年の光景を比較掲載してみました。正確な撮影場所や撮影方向ではなくて申し訳ありませんが、絵葉書の護岸にある斑模様の箇所がある程度は特定できるのではないかと思っていて、次なる思いを巡らせています。


 なお、大正初期の頃の撮影と思っている絵葉書との関連性は不明ですが、<三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、八一二~八一四頁>には「社誌第十二巻 明治三十八年」として 「八月八日 高島炭坑暴風被害」 の項目があって「怒濤襲来ノ為海岸数ケ所ノ石垣ヲ崩壊シ、数時間ニシテ数十棟ノ坑夫納屋転倒流失」の記載があり、『”はしま” 閉山記念特集号』、昭和49年>の 「端島礦年表」 でも「明治38年(1905) 台風により南部、西部が破壊され社宅38戸が流失」の記載があります。また、 他の時期にも台風被災の記録 が残っています。


〔 南部から隔離病棟裏にかけての光景 〕

写真 《三菱高島礦業所端島全景》(部分)  <所有絵葉書>
  日給前の護岸が崩壊 しているようなので、大正14年(1925)台風被災時の撮影と思っている絵葉書からの端島部分の拡大です。なお、タイトルに違いはありますが こちら の絵葉書と同じ写真ではないかと思っています。


写真←<2020年撮影>
 南部西端の護岸です。護岸の海面すれすれの部分は石積護岸で、その上にコンクリート護岸が載っていますが、上に行くほど内側にくぼんでいるようです。ちなみに、写真右端に坂道がありますが、閉山間際の頃に端島で過ごされた方には懐かしい光景ではないでしょうか?。


写真<写真は島の先輩より>
 閉山時に31号棟が建っていた箇所の護岸面から南部を望む光景で、写真の左上にはボタ捨てベルトコンベアーの先端が見えていますが、おそらくは昭和30年前後と思います。
 また、南部の護岸ですが、石積護岸の外側にはコンクリート護岸が階段状にできていて、その手前の護岸は石積護岸のみとなっているようです。

写真 現在の南部の外海側護岸です。左写真の階段状護岸の箇所と同じ箇所かどうかは分かりませんが、コンクリート護岸の繋ぎ目が階段状になっています。また、写真左下の部分ですが、表面のコンクリートが剥がれ落ちているのか石積護岸が見えています。


写真 30号棟手前の護岸ですが、中央部分には新しい護岸が重ねて造られています。左写真のような潮の状態では何の違和感もありませんが、割と潮が引いた下段写真のような時には護岸の根元部分がオーバーハング?していて、とても違和感を感じます。もしかしたら、基礎の石が一部なくなっているのでしょうか?。

写真


写真
 公民館の裏の護岸です。この部分には石積護岸が隠れているのかどうかは分かりませんが、無数のひびが見えていて護岸の崩壊が危惧されます。なお、令和2年(2020年)にこの箇所の護岸が一部倒壊しますが、その時の写真は こちら を、護岸補修時の写真は こちら を、護岸補修完了時の光景は こちら をご覧ください。

写真←<2020年撮影>
 昭和館と公民館付近の護岸の光景です。
 左写真とほぼ同じ場所ですが、こちらの写真の撮影時の方が潮が引いているのか、左写真では見えていない石積護岸が見えています。


写真《三菱高島礦業所 端島坑西海岸》(部分)  <所有絵葉書>
 昭和初期の頃の撮影と思っている絵葉書からの端島部分の拡大です。南部の方はどうなっているかは分かりませんが、閉山時に隔離病棟から31号棟があった部分では石積護岸の手前にコンクリート護岸を設けている工事の光景に思えます。


写真《三菱高島礦業所 端島坑西海岸》(部分)  <所有絵葉書>
 上段の絵葉書を更に部分拡大してみました。日給や閉山時の59~61号棟の前の護岸はほぼ上まで真新しい護岸になっているようですが、それよりも北側(手前)の石積護岸の箇所では表面に段々状にコンクリート護岸を設けている様子が伺えます。
 また、写真左端の閉山時に隔離病棟があった付近ですが、その昔にあった、くぼみ状の「すべり」が見えています。


写真←<2020年撮影>
 めがね付近の光景です。


写真
←<2020年撮影>
 隔離病棟裏側の光景です。真新しいコンクリートの護岸は平成になってから補修された箇所ですが、補修前の状態は こちら の写真をご覧ください。

写真←<2020年撮影>
 啓明寮裏側の護岸です。石積の護岸が見えています。ちなみに、この段の左右二枚の写真に写る箇所の昔の姿は、下段写真中央付近の光景になります。


〔 隔離病棟裏の光景 〕

写真 大正初期の撮影と思われる《高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima)》の絵葉書から閉山時に隔離病棟があった付近の拡大です。こちらの写真でもくぼみ状の「すべり」が見えますが、石積護岸の切れ目部分を見ますと、護岸はかなり薄く、また、島内の建物も見えています。


写真 2019年撮影の写真で隔離病棟付近の写真になります。石積護岸に加えコンクリート護岸による補強が行われていますが、写真を眺めていると、護岸上部の石積護岸の形が上段写真と同じようにように見えてきて、くぼみ状の「すべり」があった箇所が想像できます。
 ちなみに、この場所を島内から見た写真はこちらになるかと思いますが、写真左上の箇所に石積護岸と石積護岸に挟まれた薄いコンクリート壁があります。おそらくは、くぼみを塞ぐ際は薄いコンクリート壁を使用したのではないかと思います。


写真 上段写真に写る左右の石積護岸の内、右側の石積護岸部分の拡大ですが、石積護岸をコンクリート護岸にてサンドイッチ状に補強していることが分かります。
 島の護岸の中で、昔の石積護岸が残る箇所は概ねこのような形になっているようです。


〔 病院から石炭積込桟橋にかけての光景 〕

写真 《高島炭坑(Takashima Colliery)  端島(Hashima)》(部分)
  <所有絵葉書>

 大正初期の頃の撮影と思っている絵葉書からの端島部分の拡大です。閉山の頃の小中学校や資材倉庫があった場所はまだ海の中です。


写真 大正初期の撮影と思われる絵葉書 《高島炭坑(Takashima Colierry)  端島(Hashima)》  <所有絵葉書> より、病院から石炭積込桟橋にかけての部分拡大です。昭和6年埋立とされる場所がない光景ですが、護岸の手前にはボタ浜が存在しています。時期は不明ですが、このボタ浜は 用度ン浜 と呼ばれて荷揚げが行われていた時期があるそうで、黄色の矢印で示した箇所には、ボタ浜から護岸上に向かって何らかの構造物が見えています。


写真 大正13年かそれよりも少し前の撮影と思われる絵葉書《 (長崎港外)端島金比羅神社ヨリ双子高島ヲ望ム Futago Takashima From Kompira Shrine, Hajima. 》  <所有絵葉書>からの部分拡大で、場所的には上段の部分拡大写真にて黄色の矢印で示した箇所周辺を、閉山時に3号棟があった場所付近から撮影した光景のように思います。
 また、こちらにも黄色の矢印を付しましたが、矢印の先にはボタ浜(おそらくは 用度ン浜 )から護岸上に延びる構造物が存在しているようで、もしかしたら用度ン浜で荷揚げした荷物を護岸上に移動させるための構造物と思いますがいかがでしょうか?。
 なお、上段写真に写るボタ浜は護岸直後から高低差が少なく平らな姿に感じますが、こちらの写真のボタ浜では護岸の横(黄色の矢印の下の部分)に、ボタによる堤と思しき構造物が存在しているようで、もしかしたら次なる埋立拡張の準備が始まっているのではないかと思えますがいかがでしょうか?。
 ちなみに、建物群の最上段には、昭和初期にあった木造建築の病院に似ている建物が写っているようにも思えます。


写真 《(長崎港外)端島金比羅神社ヨリ双子高島ヲ望ム Futago Takashima From Kompira Shrine, Hajima.》  <所有絵葉書>を更に部分拡大しました。
 黄色の矢印の先には、2本の細い線が平行に配置されているようですが、もしかしたらレールのような構造物でしょうか?。
 なお、拙HPに掲載させていただいている 《長崎端島炭坑》<『華の長崎』長崎文献社刊(ブライアン・バークガフニ氏蔵)より許可を得て掲載> の絵葉書に写っている護岸の右端部分には足場のような構造物が見えていますが、レールのような構造物の関連構造物ではないかと思い悩んでいます。


写真
←<2020年撮影>
 昭和6年埋立とされる場所の護岸で、閉山の頃にあった石炭積込桟橋の右側の光景です。

写真←<2020年撮影>
 閉山の頃にあった石炭積込桟橋のすぐ左側の光景です。昔の石炭積込桟橋の基礎と思われる柱?が4本見えています。


〔 ドルフィン桟橋付近の光景 〕

写真

写真
←<2012年撮影>
 ドルフィン桟橋からの撮影ですが、昭和6年埋立とされる場所の護岸になるかと思います。なお、私見ですが、昭和6年埋立とされる場所の護岸は、他の場所の護岸と違って非常に薄くできているのではないかと思っています。

写真←<2012年撮影>
 左側上段写真の箇所を、ほぼ真上から撮影しました。

←<2012年撮影>
 上段写真の箇所よりも学校寄りの光景です。


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