台風等被災・南部付近(大正14年)

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 このコーナーは、大正14年台風12号の南部海岸被災状況関連について記載しております。


写真
《 大正14年の台風で大破した南部海岸 》
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 写真左上の護岸が途切れているところが被害箇所です。その場所はまさに昭和31年崩壊の場所とほぼ同じ場所であると思います。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 こちらも、大正14年頃の光景かと思いますが、左写真の被害箇所には大波が打ち寄せています。なお、写真中段に長屋が3軒、縦に並んでいますが、その先(写真右端の四角い建物の左側部分)には、広い空き地があります。


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 こちらの写真では、上段写真の広い空き地の場所(島の先端部)には、3棟の建物が存在しているようです。その3棟の建物のうち右端の建物は、他の建物同様、瓦葺きの建物のようですが、真ん中と左端の建物は、他の建物と屋根の様子が違い、角度が緩い(平らに近い?)屋根となっているようです。
 3棟の建物の有無の違いを考えますと、上段写真より古い(前の)撮影かと思いますが、もしかしたら、こちらの写真は大正14年の台風被災その時の写真でしょうか?。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 こちらや左の写真では、建物群の右上には横に長い建物が二棟あるようですが、上段写真2枚では一棟しか見えていないようなので、一棟は流されてしまったのでしょうか?。
 なお、30号棟屋上の手摺り付近には多くの人々が写っていますが、大波見物は大正時代においてもあったようですね。
 また、30号棟屋上ですが、建物内側の空洞部分に沿って小屋のような建物が存在しているようです。


写真
《 大正14年(1925)台風によりこわされた南部護岸,向って右側が30号社宅 》
  <”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>

 一番上の写真に写る護岸の崩壊箇所を海側から見る光景ですが、この崩壊箇所とほぼ同じ場所は昭和31年にも崩壊します。なお、南部には上段写真にも写る平屋根の大きな建物が見えています。


写真<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 こちらの写真は南部の光景と思っていて、写真右端には3階建てぐらいの建物がありますが、3階建てぐらいの建物は、上段写真にはあって下段写真ではなくなっているようなので、こちらの写真は大正14年の台風被災前の光景ではないかと思いますが如何でしょうか?。
 なお、写真中央部の空き地では、お祭りの光景でしょうか?、大勢の人々がいらっしゃいます。また、空き地の地面には、よく見るとラインのようなものが見えますので、もしかしたらテニスコートのラインではないかと考えています。
2020/03/06  決定的な資料は見つかってなく誤りかも知れませんが、撮影時期を大正14年の台風被災後から被災前に変更しました。


写真絵葉書 《 三菱高島礦業所 端島坑東海岸 》 の部分拡大
 絵葉書の状況から昭和初期(遅くとも5年頃)の光景と思いますので、二段上の護岸崩壊時の写真から護岸復旧が完了した時点の写真と思います。
 ちなみに、二段上の護岸崩壊時の写真では島の左端に大きな建物が見えていますが、こちらの写真では大きな建物はなくなっています。


写真
《 大正14年(1925)台風被害跡の復旧工事、現在の坑木置場附近、右側のレンガ造りの建物が当時の三捲座 》
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>

 写真中央の木造家屋の前に、明治30年拡張時の護岸が塀として存在しています。
 また、その前の人々が大勢いる箇所はその後に拡張された場所ですが、写真左端の海と地面の境目を見ると、当時、この部分の護岸は他の護岸よりも一段低く、海面から地面までの高さしかありませんでした。時化の時は陸地を直接波が襲っていたと思います。
 なお、人々が大勢いる箇所ですが閉山の頃は坑木置場で、その場所については以下をご参照願います。



写真
 《 長崎港外端島風景 》  <所有絵葉書>
写真
<図版は、阿久井喜孝 他 編著『軍艦島実測調査資料集』東京電機大学出版局(1984)より許諾を得て転載し、左写真の説明用に黒以外の色で改変してます。>

※2018.3.25
   図版修正

 上段左側の絵葉書ですが、中央の櫓は二代目第二立坑初期バージョンで、その右手には、昭和10年11月、廃棄埋戻の第三立坑が写っています。従って、昭和一桁の中程から昭和10年にかけての写真と思います。なお、絵葉書左下の木造家屋前の塀は、上段右側の図版では青色の太線位の位置にあると思います。
 また、絵葉書右側下段には、図版の説明にもありますように、明治30年拡張時の高い護岸の海側に、その後に拡張された場所(閉山時の坑木置場等)が存在していますが、その部分の護岸は地面までの高さしかありません。




写真《三菱高島礦業所 端島坑東海岸》(部分)  <所有絵葉書>
 昭和初期(遅くとも5年頃)の撮影と思われるの絵葉書からの拡大です。写真中央の閉山の頃に坑木置場だった部分(旧第三竪坑巻座上屋南側周辺)ですが、護岸の高さは海面から地表までしかなく、閉山の頃や現在のように地表から上に延びる護岸はありませんので、時化の際はかなり波を被っていたのではないかと思います。ちにみに、 こちら の部分を沖合から見た光景になるかと思います。


写真<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 昭和31年被災時の当該場所ですが、明治30年拡張時護岸とその後に拡張された場所の護岸の高さが同じになっています。なお、同じ高さになった時期は不明ですが 昭和29年撮影の写真 では同じ高さで写っているようです。
 ちなみに、現在ですが、写真左端護岸の内側に第2見学広場から第3見学広場への通路があり、また、右端奥の古い護岸は転んだ状態で一部が残っているようです。


写真
<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 上段写真の右側部分を少し角度を変えての撮影のようですが、積まれている坑木の高さから同じ時期の撮影と思います。

写真<高比良勝義氏(元島民)撮影>
 同じく、上段写真の右側部分を拡大した写真になりますが、積まれている坑木の高さ等の違いから、撮影の時期は少し離れているように思います。


 

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