○台風被災・50号棟付近(平成3年)

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写真
《三菱端島炭鉱(端島の外周)=1956(昭和31)年4月5日、長崎県高島町》
< 「西日本新聞社提供」(写真) 「許諾済」  フォトライブラリー >
 写真右側の護岸上に、在りし日の昭和館の壁面が写っております。波が穏やかな日はいいのですが、波が格段に荒い外海に位置する端島に、強い勢力の台風が来ると大変です。下の写真はその一例です。


写真《荒れ果てた軍艦島=1992(平成4)年6月18日、長崎県高島町》
< 「西日本新聞社提供」(写真) 「許諾済」  フォトライブラリー >
 1992(平成4)年で、島の上には重機が載っているようですので、前年の台風により崩壊した護岸の復旧工事に着手した頃の撮影ではないかと思っています。
 ほんの一部を残して昭和館は崩壊していますが、台風により護岸が崩壊し、海と島内を遮る物がなくなったため、荒波が直撃をしての崩壊ではないかと思いますが如何でしょうか?。
 このような自然災害は当然ながら閉山前にも何度も起こっており、その都度、復旧工事が行われていました。島の皆様方のご苦労は、さぞや大変だったものと拝察いたします。
 なお、昭和館倒壊後の光景については、《昭和館今昔》をご覧願います。ちなみに、1991(平成3)年には学校海岸の護岸も崩壊しているようです。


写真《三菱高島礦業所 端島坑西海岸》の部分拡大
 昭和一桁の前半頃の撮影と思われる絵葉書から、めがね付近から南部にかけてを部分拡大しました。
 南部の護岸の色と比べて、めがねから昭和館ぐらい迄の護岸の色は違っているようで、もしかしたら、大正14年に台風により壊された護岸の補修工事の関係でしょうか?。なお、昭和館の前ぐらいでは、護岸の色が上下で違っていますが、上段が昔の石垣による護岸で、下段は、石垣による護岸の海側にコンクリートの護岸を設けて厚みを増している時の光景と思います。
 ちなみに、48号棟や51号棟の前の護岸は、昭和30年代頃に厚みが増す補強が実施されています。


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