《三菱高島礦業所 端島坑西海岸》 <所有絵葉書> 第四竪坑櫓があり大正14年台風による日給前の護岸崩壊箇所が修復されているようです。また、閉山時の端島小中学校があった場所の埋め立ては昭和6年ですがその埋め立ては行われていないことを考えると、昭和の一桁前半頃の撮影と思われます。
ちなみに、閉山時に59号棟から隔離病棟があった箇所では石積護岸の手前にコンクリート護岸を設けている作業の途中のようで、閉山時に31号棟があった箇所の護岸も作業中のように思えます。
<出典:日本地理風俗大系(新光社・昭和5年発行)>
第四竪坑櫓があり、第二竪坑櫓は掘り下げ前の櫓で、第三竪坑櫓も見えています。また、島手前の右側にある防波堤付近ですが、二箇所、穴らしきものが見えます。
《三菱高島礦業所 端島坑東海岸》 <所有絵葉書>
上段写真から写真の右端をカットした光景の絵葉書のようです。
第四竪坑櫓があり第二竪坑櫓は「掘り下げ前」の櫓で、櫓的には大正末から昭和5年迄にかけての撮影になるかと思いますが、南部を見ますと、大正14年に南部の護岸が崩壊した際には南端に大きな建物がありましたが、その建物はなく護岸も崩壊していません。
ついては、護岸の復旧には数年を要すると考えると、大正14年台風による南部護岸崩壊から暫くして護岸が復旧した頃の撮影のようで、昭和初期(遅くとも5年頃)の撮影と思われます。
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載> 基礎工事が昭和8年頃の先代端島小中学校校舎(木造)が見え、
第二竪坑櫓は掘り下げ後の初期の形となっていて、昭和10年11月廃棄埋戻の第三竪坑がまだ存在しているので昭和9~10年にかけての写真ではないでしょうか?。
《長崎港外端島全景》
端島の状況から、上段の絵葉書とほぼ同時期の撮影ではないかと思います。
ちなみに、神社右下の大きな建物ですが、日給かどうかと悩んでいましたが、当該部分を拡大した
こちらの写真を見ますと、五十段の階段があった石積と当時の学校校舎の光景のようでしたので、日給ではないように思いましたが如何でしょうか?。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
第二・三・四竪坑櫓、製塩所、石炭積込桟橋、夕顔丸等が写っているかと思いますが、写真のタイトルには「端島海岸」とありました。
ちなみに、第二竪坑櫓は第二竪坑が掘り下げ後の姿で、まだ、第三竪坑櫓も残っていることから、2枚上の写真や上段の絵葉書とほぼ同時期の光景と思われます。
<出典:婦人之友第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)> 18・19号棟も9階建てになっているようです。
《端島坑全景 長崎要塞司令部検閲済》 <所有絵葉書>
第二立坑櫓は掘り下げ後の初期形のですが、第三立坑櫓の姿は見えません。また、絵葉書タイトルには「長崎要塞司令部検閲済」の記載がありますので、昭和10年代の撮影でしょうか?。
《昭和14年(1939)頃、南海上より見た端島。》
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
第二立坑櫓が二代目初期バージョンで、基礎の部分に鳥かごみたいなものが付いています。右下の写真と見比べますと、もしかしたら、この写真は、遅くとも昭和11年迄の撮影になるようです。
<出典:婦人之友第三十巻第十號(婦人之友社・昭和11年10月発行)>
婦人之友(S.11)の端島特集にある写真です。私には、上段写真と同じ写真に見えてしまいます。
<写真は島の先輩より>
昔の絵葉書のようです。写真には、昭和10年11月廃棄埋戻の第三竪坑櫓がみえないことや第二立坑櫓及び建物の様子から、昭和10年代中頃の撮影かと思いますが如何でしょうか。
また、閉山間際や現在は、南部護岸の手前には出っ張りや大きな岩がありますが、こちらの写真にはその姿を伺うことができません。もしかしたら、昔、実施されていた検閲で消されているのでしょうか?。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
閉山直前に焼失した24号棟があった場所には2階建ての建物が存在しているようなので、上段写真と同じ時期の撮影のようです。なお、撮影の方向も上段写真と同一のようですが、こちらの写真では、南部護岸の手前には出っ張りや大きな岩が存在しているようです。閉山間際は、南部にあったプールの排水の口があり、そこから、護岸の外に出ることができていました。
<写真は島の先輩より> 65号棟や25号棟の迷彩塗装は知っていましたが、日給社宅も迷彩塗装のように見えます。
<写真は島の先輩より> 最終となる2号棟の姿が見えるような気がしますが、第二竪坑櫓が改修前か改修後の姿かよく分かりません。
<出典 : 国土交通省「空中写真」、整理番号USA、コース番号M185、写真番号37、撮影年:1947(昭22)>昭和22年の端島の姿です。私には、下記事項が気になりました。
- 石炭積込桟橋が二基あるように見える。
- 配炭機桟橋が、第四立坑よりも学校側に延びているように見える。
- 病院や66号棟の屋上には斜線のような模様が見える。
- 65号棟は北側部分しかできていないように見える。また、屋上の中央には煙突らしきものが見えるようような気がする。なお、こちらの写真には中央の煙突はありません。
- 南部にはプールはなくグランドがあるように見えます。
<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
写真の説明として、下記事項が記載されています。
① 海水タンク ② 立坑の入口 ③ 神社
私には、下記事項が気になりました。
- 65号棟7階と56号棟の間に架かった連絡橋や65号棟4階と山道の間に架かった連絡橋の姿がない。
- 閉山の頃、山道の65号棟側にあった温室付近には違う建物がある。(別資料によると当時の火薬庫とのこと)
- 16号棟屋上の形態が閉山の頃と違う。(原っぱではなく、花壇が複数ある。)
- 17、18号棟屋上にも建物らしき姿が見える。
- 配炭機桟橋が第四立坑よりも学校側に延びていて、二坑口桟橋ならぬ四坑口桟橋らしきものがある。
<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
上段写真を拡大し中央部分を切り出してみました。
写真の一番下には五十段が写っていて、五十段を上り詰めた箇所からは、閉山の頃には56号棟を沿うように日給方向に向かう通路のみでしたが、昭和23年頃撮影のこの写真では、その通路以外にも56号棟と岩礁の間を通って神社方向に延びる階段があり、その階段を上り詰めた付近には柵に囲まれた広場らしきものが見えています。
僅かに残る閉山の頃の記憶によりますと、この階段は石積で少ししか残ってなく通行することはできずに、また、上り詰めた付近にも柵はなかったように思いますが、昭和10年にあった火災時の写真では
柵や三角の標識らしきものが写っていますので、昭和の最初の頃に使用された広場ではないかと思っています。
現在のところ情報は皆無ですので、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えいただけますよう、よろしくお願いいたします。
<出典:アサヒグラフ 1948 8月25日号(朝日新聞社東京本社・昭和23年発行)>
65号棟が、工事中の時の写真のようです。また、3階建ての24号棟らしき建物も見えるようです。
《昭和24年中ノ島より撮影した端島》<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
石炭積込桟橋が1基になっているようです。
<写真は島の先輩より>
22号棟の姿は見えておりますが、21号棟は工事が開始されたぐらいのようです。また、65号棟の屋上には幼稚園の姿が見えますので、昭和28年頃の撮影ではないかと思います。
<出典:家の光・第三十巻第八号(家の光協会・昭和二十九年七月一日発行)>
野母崎側からの光景で、昭和20年代最後の頃の島の姿です。3号棟や端島小中学校および病院は、まだ木造で、コンクリートの建物となる前の光景です。なお、山道から5号棟方向に向かう道の手摺り部分や石炭積込桟橋がある護岸の一部分では、やけに白さが目立っております。ちなみに、私の勝手な思いですが、石炭積込桟橋がある護岸の一部分は、
現在 でも、白さが目立っている箇所があるように思っております。
《端島上陸桟橋落成記念 昭和廿九年八月 西日本新聞社撮影》
<写真は島の先輩より> 西日本新聞が撮影された「端島全景(軍艦島)=1954(昭和29)年8月」〔西日本新聞社
フォトライブラリー〕の写真に「端島上陸桟橋落成記念」等の情報が付加されております。
写真の右上には、島民が待ちに待った、真新しい初代ドルフィン桟橋が写っております。なお、21号棟は完成しておりますが、まだ、閉山時の31号棟、51号棟、新65号棟等の姿は見えず、まだまだ、発展途中の端島の姿です。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
私の撮影技術のなさで写真が黒っぽくなって申し訳ありません。でもドルフィン桟橋の姿が初代のものであることや閉山時の3号棟が建っていないなど、年代的な特徴はお分かり頂けるのではないかと思います??。