〔 第四立坑 [深さ(m)370 大きさ(m)6.0φ 煉瓦巻] 〕
| 深さ、大きさは<三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編集、『三菱鉱業社史』、三菱鉱業セメント株式会社、昭和51年、712頁>より |
大正6年:準備試錐
大正7年10月:立坑開削係設置
大正8年2月:中断していた開削工事再開
大正13年11月:掘削工事終了
大正14年5月:完成
<以上、『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)p269,272より引用>
大正6年6月8日 端島新竪坑開鑿準備試錐費 5,550円
<以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 27』、財団法人 東京大学出版会、昭和55年復刊、3678頁」の「社誌第二十四巻 大正六年 高島炭坑臨時起業費承認」より>
大正7年1月 高島炭坑端島新竪坑開鑿準備試錐工事ハ前年十月ヨリ開始シ同年末ノ工程四百五十呎ノ處本年一月進尺四百九十一尺八吋ニシテ胡麻五尺層ニ着炭シタリ
<以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 29』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、4349頁」の「社誌第29巻 大正七年 是月(一月中) 端島新竪坑着炭」より>
端島新竪坑開鑿準備試錐費 起工年月日:大正6年7月12日 竣工年月日:大正7年4月30日 決算金額:4,580円85
<以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 29』、財団法人 東京大学出版会、昭和56年復刊、4466頁」の「社誌第二十五巻 大正七年 高島炭坑海底送電線敷設竣工外竣工起業」より>
昭和四年一月五日午前五時半三菱鑛業株式會社高島礦業所端島第四坑三片ヨリ出水シ死傷並行衛不明者七名ヲ出ス
<以上、「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 35』、財団法人 東京大学出版会、昭和57年復刊、237頁」の「社誌 昭和四年 一月五日 端島第四坑出水」より>
《大正10年(1921)第四堅坑開削工事の仮櫓》
<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
大正15年10月の高島礦業所概要には、「第一坑内出火ノタメ満水セシメタルニヨリ爾来第二第三両堅坑ニヨリ採掘ヲ営ミタリシガ去ル大正三年三月新ニ発見シタル十二尺炭層ノミヲ採掘スルニ一日壹千噸ヲ出炭スルト仮定シ約廿有余年ノ長年月ヲ要ス然ルニ仝島ニ於ケル従来ノ設備ニテハ此ノ任ニ堪ヘザルヲ以テ去ル大正八年十月該炭層ニ達スル新堅坑(深サ一,一六六尺、圓径二十尺)ノ開削ニ着手シ、大正十四年五月廿一日ヨリ本坑ノ使用ヲ開始セリ尚ホ将来ハ本堅坑ヲ二千尺迄掘進スベキ計画アリ」と記載されています。
堅坑の掘り下げは、第二堅坑のみが実施されたと思いますが、第四堅坑も第二堅坑に引き続き掘り下げる予定があったのでしょうか。それとも掘り下げが、第四堅坑から第二堅坑に変更されたのでしょうか。
《 (長崎港外)端島表海岸 Omote Sea-shore Hajima, Nagasaki. 》の部分拡大
絵葉書の上段左側にある竪坑櫓を拡大しましたが、左写真の《大正10年(1921)第四堅坑開削工事の仮櫓》と同じ形のように思われます。
〔 第 四 竪 坑 櫓 今 昔 〕
《長崎港外端島名勝 新捲機械》 <所有絵葉書> 遠くに、第三立坑櫓が見えます。
《左絵葉書の部分拡大》 左の絵葉書より、櫓の基礎部分を拡大しました。
写真左端の中段にある炭車の姿がお分かりいただけますでしょうか?。二坑口桟橋と同じような施設があるようです。
<2013年撮影> <長崎市の特別の許可を得て撮影> 上段絵葉書
《長崎港外端島名勝 新捲機械》の対比写真を撮ろうと思いましたが、今では、櫓の基礎しか残っておらず、私の能力では、このような写真しか撮影できませんでした。ちなみに、この写真の先の方には、その昔、第二立坑櫓もありました。
<2013年撮影>
<長崎市の特別の許可を得て撮影> 櫓基礎の後ろには、四坑捲座上屋や小中学校校舎が写っています。
<2013年撮影>
<長崎市の特別の許可を得て撮影> 山道に向かっての撮影です。櫓基礎の奥付近が「排気塔」があった場所と思います。
《東洋一を誇る竪坑やぐらと石炭積み込み=1950(昭和25)年5月、長崎県高島町端島》
< 「西日本新聞社提供」(写真) 「許諾済」 フォトライブラリー > 昭和20年代中頃の第四竪坑櫓とその周辺の光景です。
写真右端には、真っ直ぐ縦に延びる第四竪坑櫓があり、写真中央には櫓を支える斜めの支柱があり、その間の地上部分には、炭車を昇降させるための設備らしきものが見えていますが、昭和40年代には、すぐ下の右側の写真(写真の右下)にあるように、竪坑櫓の西側(山側)に当該設備はありました。また、こちらの写真では、炭車を昇降させるための設備らしきものの右側にはかなり幅がある真っ直ぐな設備が横たわって見えますが、昭和40年代にはその姿はないようです。
あと、こちらの写真では、積込桟橋の左側に二階建ての木造家屋が見えていますが、昭和40年代にはコンクリートの平屋になっています。
最後に、貯炭場の配炭機桟橋ですが、昭和40年代の頃には積込桟橋の手前までしか設けられていませんでしたが、この頃は積込桟橋を越えて資材倉庫の方に延びています。ついては、昭和25年以降も、いろんな設備の変更が行われたようです。
《冬の排気塔 s32.1.27》
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 排気塔から白い湯気のようなものが出ています。
<村里 榮 氏撮影> 第四立坑櫓や櫓周辺の炭鉱施設の様子を覗うことができます。なお、右端に縦に細長く写っているのは山道です。
<村里 榮 氏撮影> 第四立坑櫓の基礎周辺の光景です。写真上段の中央には硬を荷揚げしていたクレーンが写っています。また、写真右下の部分ですが、この部分は段差があったので、炭車を昇降させるための昇降機の設備が写っています。
なお、写真下段の中央には「排気塔」の姿も見えています。