《完成した端島小学校・中学校。7階の増築部分はまだ出来ていない。(昭和33年)》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
<『アサヒグラフ』、朝日新聞社、昭和32年9月22日発行、10・11頁>には、「二学期はじまる 日本一高い小学校」のタイトルで、「端島小学校の二学期は、新築成った新校舎、
六三制の学校としては日本一高い六階建てのモダン校舎ではじまった。」、「新校舎は実は一学期から使えるはずだった。以前の木造二階建てが手ぜまになって、新工事に取掛ったのは三十年末。ところがこの四月一日、完成まぎわに火事になり工事はやり直し。八月末にやっと教室が全部そろったのだ。」や「これで合併授業も解消して ゆっくり授業がうけられるようになった。」等の記載があります。
《キャンプファイヤー》 <写真は島の先輩より> こちらも6階建ての時の写真ですが、校舎の屋上から手前に向かって旗を結んでいる紐らしき物が見えます。
ちなみに、「昭和40年度 学校要覧 端島小中学校」には「昭和33年1月17日 6階建鉄筋コンクリート校舎完成」の記載があり、7階部分の増築については『高島町政三十年の歩み[町制施行30周年記念史]、高島町、昭和53年』に「36年5月に中学校5教室を増築」した旨の記載があって、<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員>さんからは「生徒増加に伴いS36年5月に7階部分を鉄骨モルタル造で増築しました。1階から3階迄が小学校、4階5階が中学校、6階に小中学校兼用の講堂と図書室、音楽室がありました。」の情報をいただいています。
<村里 榮 氏撮影> グランドには半円形が書かれたポートボールのコート2面がありますが、私にも、体育の時間に行った記憶があります。でも、この写真に写っている子ども達は、奥が女子のバレーで、手前は男子のサッカーのように思います。
なお、<『毎日グラフ』、毎日新聞社、昭和40年3月21日発行、通巻784号、15頁>に掲載されているグランドが写っている写真には「小・中学校共用の運動場 この土も2年に一度は船で運んでこなければならない。」の説明がありますが、土も少しずつ流失していたのでしょうか。グランドの護岸沿いにはコンクリの溝が走っていて、雨の日にはグランドから溝に土が混じり茶褐色と化した水が流れ込んでいました。(中の島側の護岸沿いにもあったかは記憶が確かではありませんが、野母崎側の護岸沿いにはありました。)
<写真は島の先輩より> 7階での撮影のようで、教室入口上の室名札には「3年B組」の記載があります。
(室名札に記載の担任名は消しています。) なお、私も3年の時はB組でしたが、残念?ながら普通教室で勉強した記憶はなく(理科室?での記憶は若干あります。)、遊んだことしか覚えなくて、写真手前に写る廊下では「ホッケー」のまねごとをして遊んだ記憶が残っています。
<写真は島の先輩より> 写真左下には、スチール製の机が1台だけ置かれ、その他は凡て木製の机のようですので、おそらくは閉山間際ではなく、閉山よりも少し早い時期の撮影のように思います。
なお、左写真においても、こちらの写真と同様に、入口付近にスチール製の机が1台だけ置かれているようですので、こちらの写真も同じ「3年B組」の写真かと思います。
《端島小中学校講堂》
<写真は、「高島町十年の歩み(町制施行10周年記念)」高島町役場(昭和33年)より>
出来たてほやほやの講堂です。朝早く登校して、勉強ではなく、講堂で友達とゴムボールを使ってソフトボール?をして遊んでいましたが、早朝なので貸切状態でした。
《 校 舎 配 置 図 》
<「昭和42年度 学校要覧 端島小中学校」掲載の図から一部変更して作成> |
<「昭和40年度 学校要覧 端島小中学校」掲載の図から一部変更して作成> |
昭和40年度では小中学校各学年2クラスですが、昭和42年度になりますと、中学校では2年と3年が3クラスになり、そのためでしょうか1年と3年の階が入れ替わっております。(昭和40年代の最後の方は3年が7階に戻っておりました。)また、小学校では1年が3クラスとなっております。 ちなみに、「昭和42年度 学校要覧 端島小中学校(一部修正)」において、黄色で塗っている箇所は、「昭和40年度 学校要覧 端島小中学校(一部修正)」から名称変更があっている部屋となります。 なお、「昭和42年度 学校要覧 端島小中学校」には、下記の記載がありました。
昭和40年4月1日
炭鉱事業縮小により児童生徒数激減、小学校12学級、中学校6学級となる。
昭和41年4月1日
三ツ瀬開坑により児童生徒の増加となり小学校13学級、中学校8学級開設
昭和42年5月1日
小学校1学級増 計14学級
なお、私には小学校の音楽室、図書室、理科室、視聴覚室の記憶は残ってなく、図にある音楽室や図書室は教室として使用した記憶が残っています。(43・44年頃、その時の私の学年は3クラスでした。)また、私が小学校1年生の時は1階の右端の教室で、入学時の適正試験の時は、その一つ手前の教室を使用したのを覚えています。(入学時の適正試験の教室を覚えているのはうまくいかなかったからです。いつの時代も私は頭が悪いようです。) |
|
《 階数別使用区分等 》
【 私の怪しげな記憶による使用区分ですが、昭和40年代前後半の配置が入り交じっているようです。上段の「校舎配置図」から少し変わっています。 】
階数等 | 使 用 区 分(学校海岸側から) |
7階 | うさぎ小屋・花壇?(屋外)/理科教室/家庭科教室/中学校3年生教室/便所 |
6階 | 音楽室/講堂/便所/図書室 |
5階 | 中学校2年生教室/便所/中学校1年生教室 |
4階 | 保健室/小学校5年生教室/小学校6年生教室/便所/教室 |
3階 | 小学校4年生教室/倉庫/天井部分にプラネタリウム/便所/小学校職員室/小中学校校長室/中学校職員室 |
2階 | 小学校3年生教室/花壇・温室(屋外)/便所/小学校2年生教室 |
1階 | 中学校技術科教室/小学校1年生教室/玄関/管理人住居/便所/小学校1年生教室
管理人さんのお子さんは登校が楽だなとうらやましく思った記憶があります。 また、校舎と体育館の間には小さな池があり、花も植えられてような記憶があります。 |
グ ラ ン ド | 〇50m走を行う時は距離を稼ぐために、ちどり荘近くの砂場付近から技術科教室前まで、四角いグランドを斜めに走っていました。 〇最後の頃は、中の島からの打ち上げでしたが、それまではグランドの中の島側の隅から花火を打ち上げていました。グランドのバックネット周辺で見ていると、まさに頭上での爆発で、その興奮は物凄いものがありました。確か、中の島で打ち上げるようになったのは、花火の燃えかすが原因で、怪我をした子どもがいたためだったと思います。 |
<端島小中学校の昭和40年度学校要覧および昭和42年度学校要覧より転記>
昭和40年度と42年度の欄にまたがって名前が書かれているクラブは、両方の年度に設置されていたクラブで、どちらか設置されていない年度がある場合は、該当年度欄に斜線を引いています。
昭和40年度の中学校には野球部もあったんですね。また、昭和42年には、文化クラブの数がかなり増えております。
《 規則・約束事 》
- さんばしや山道のかけ岸ぺきでは遊ばない。(昭和42年度 学校要覧 小学校児童行動様式より)
- アパートのろうかは走らない。(昭和42年度 学校要覧 小学校児童行動様式より)
- おふろは7時までにはいる。(昭和42年度 学校要覧 小学校児童行動様式より)
- 7時半よりあとはそとで遊ばない。(昭和42年度 学校要覧 小学校児童行動様式より)
- 小学校の高学年生になると、担任に申し出を行うことで子どもだけで高島まで行け、中学生になると自由に長崎へ出ることができました。(私のおぼろげな記憶より)
《 特徴・自慢 》
- 7階建ての高層小中学校(当初は6階)
- 昭和40年代の最後の頃から給食が開始され、給食配膳用に6階まで給食配膳用ワゴンしか乗らない小型エレベータが設けられていました(何度、乗り込もうかと思ったことか)6階から7階までは長い階段を人力運搬。ちなみに、小学校6年生の時は一週間単位の当番制で、1年生の給食のお手伝いに行った覚えがあります。
- 隣の65号棟9階と小中学校7階が同じ高さで、建物の間に、避難通路(通常時は使用出来ない。)が設けられていました。
長崎新聞(昭和49年2月27日)から抜粋させていただきました。
- 二十六日、端島小、中学校にて最後の卒業式があり、ヤマの歴史の寂しいひとコマを描き出した。
- 端島小、中学校(小学生数百九十七人、中学生数百十一人)で同日卒業式を迎えたのは中学生四十一人、小学生四十七人。小、中学校とも一学期には八十人いたが、一月十五日の閉山から再就職が決まった家の引っ越しが相次いだため、生徒数が約半分となり、寂しい卒業式。
- 授業は三月十六日まで続けられるが、授業が修了してから卒業式をしたら、ほとんどの生徒が出席できないためこの日に繰り上げた。
- 卒業式は小学校が午前九時から、中学校が同十一時から体育館であった。あいにく外は小雪が舞い、突風が吹き、生徒たちは寒さで震えながら式に臨んだ。
- 二十四、二十五日は一人もいなかったが、二十六日の卒業式を終えてから小学生三人、中学生九人が早速島を出て、千葉県、愛知県、長崎市、高島へとそれぞれ新天地へ向かった。
私も式には参加したのですが、加齢により、かなりの事を忘れ去ってしまっていて、はっきりと覚えているのは卒業式を繰り上げたことと(中学校卒業証書の日付は3月16日)、報道陣の多さに驚いたことだけです。