私が知り得ている端島の最も古い病院情報は、<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、三菱鉱業セメント(株)、1989年、170頁>に記載がある
「明治32年7~12月のこととして、端島に第二病室1棟設置」 ですが、第二病室とありますので、実際の開始時点はもう少し早かったようです。
《長崎港外端島名勝 三菱病院》 <所有絵葉書> 写真中央奥の横に長い建物が病院のようで、撮影時期は
昭和8年頃の先代校舎建設 よりも前の時期ではないかと思います。ちなみに、昭和一桁の終わりから昭和十年代の中頃に撮影されたと思われる
絵葉書《端島小学校並ニ稼働者住宅》 の左上の部分にも同じ形の建物が写っているようですが、
昭和32年4月火災時の病院建物 と見比べますと、こちらの建物とは形に違いがあるようなので、途中、建替か改修があったのではないかと思います。
《高島炭坑(Takashima Colierry) 端島(Hashima)》 の部分拡大 大正初期の頃の撮影と思われる絵葉書から、上段写真に写る病院と思われる建物があった場所周辺を切り抜きましたが、上記写真に写る病院と思われる建物は見受けられないようです。ちなみに、<「三菱社誌刊行会、『三菱社誌 二十六』、財団法人 東京大学出版会、昭和五十五年復刊、三三五四頁」に記載の「社誌第二十三巻 大正五年 十二月二十五日 大正六年度各炭坑起業費」>の中には「端島病院改築費 一一、二九〇圓」の記載があります。
《昭和32年4月1日撮影 学校焼け落ち病院避難》
<高比良勝義氏(元島民)撮影> 昭和32年4月1日に焼失した病院の病床数としては、<『町村を廃し町を設置することについての申請書 (関係町村 西彼杵郡高島町、西彼杵郡高浜村)』、昭和30年2月10日>に、端島隔離病舎28、高島砿業所端島病院35の記載があります。
また、この時代の病院建物に関しましては、
昭和32年4月1日に発生した端島小中学校・病院火災のページもご覧ください。
<左写真は、長崎市高島町にある「端島模型」より> 上段掲載の木造病院が焼失したため新たに建設された病院です。水色?の建物に外来及び一般病棟があり、その後ろが隔離病棟です。私事ですが、玄関扉に指を挟まれて怪我をしたり、別の怪我で入院した記憶もあります。なお、
病院前の広場には丸い花壇があり、また、昭和40年代中頃の非常に短い期間ですが、広場にたくさんの資材が置かれていた時は資材を遊具にして、子どもたちのいい遊び場となっていました。
なお、<『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日、123頁>には昭和33年3月8日のこととして「端島、新病院完成し診療を開始。」の記載があり、運営状況については<三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、『高島炭砿史』、417頁>に「昭和33年3月に鉄筋コンクリート造り4階建の新病院が完成し,病院長以下医師9名,薬剤師1名,看護婦14名を擁して面目を一新した。」や、昭和44年の病院の規模として「端島が一般病床32床,結核病床16床,伝染病床10床,計58床であり,医師4名,薬剤師1名,看護婦7名で医療に当り,端島で収容できない患者は,高島で処置が行われた。」の記載があって、昭和44年には昭和33年と比べて医師と看護婦の数が半減するなど厳しい状況に置かれていることが分かりますが、
昭和39年発生の坑内事故 以降の
人口減少 、昭和44年の
三菱鉱業株式会社からの独立による三菱高島炭砿株式会社発足 、昭和46年の
三菱従業員・ご家族の加入保険変更(三菱鉱業健康保険 → 政府管掌健康保険) など、端島病院にとって昭和40年代は厳しい状況の連続だったように思われます。
記載がある
三菱石炭鉱業(株) は昭和48年12月15日に発足した会社になりますので、その時に「三菱石炭鉱業(株)端島砿診療所」もできたものと思われます。
〔 三菱鉱業健康保険組合端島支部 〕
<三菱鉱業健康保険組合端島支部 昭和33年度健康賞> 三菱鉱業健康保険組合端島支部は、島で三菱に勤務されていた方やそのご家族がお世話になった支部かと思いますが、その支部が昭和33年度に配布した健康賞の袋となるようです。
ちなみに、A4程度の大きさの袋で上部にはチャックがあり、「三菱鉱業健康保険組合端島支部」の記載がある面の反対面には島のイラストが描かれていて、袋の内側に「昭和33年度健康賞」の記載があります。健康増進策の一環として配布されたものでしょうか?。
なお、<『規約・規程・協定集』、三菱高島炭礦労働組合>に掲載されている『三菱健保政管移行に関する協定(昭和四十五年十二月十九日)』には「三菱鉱業健康保険組合は、昭和四十六年四月一日付を以て、三菱高島・三菱大夕張両社の各事業所を三菱鉱業健康保険組合より事業所削除し、両社各事業所は同日以降、政府管掌健康保険に加入するものとする。」との記載があり、閉山間際の頃は「三菱鉱業健康保険組合端島支部」は存在しなかったようです。