○野母商船等の1

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 このコーナーでは、昭和27年位購入の「つや丸・せい丸」を初代、36年就航の「つや丸・せい丸」を二代目、二代目の後継「つや丸・せい丸」を三代目と表記しています。


 野母商船(株)の関係者様に伺いましたところ、27年位に初代が就航したそうで、2隻の内の1隻は瀬戸内海で活躍していた元軍用船(銃の台座があった)で、また、どちらかの船は戦争時に揚子江で活躍したそうです。〔進水年月からどちらもつや丸のことではないかと思います。〕

 また、初代「せい丸」の乗組員だった方にも伺いましたところ、ドルフィン桟橋がない頃の端島上陸時には、夕顔丸と違い艀は使わずに、直接、船の2階から上陸桟橋に登っていたそうです。

 なお、昭和36年には二代目が就航しその名前を二代目に譲ることになりますが、初代「せい丸」は「第二せい丸」と名称変更し、その後も活躍していたようです。(つや丸については記憶なし。)また、その二代目「せい丸」も三代目の登場により「第二せい丸」を名乗っていたことがあるようです。ちなみに、三代目の「つや丸・せい丸」は端島閉山後の建造のため高島までの運航でした。


 野母商船「長崎~野母(高島)」航路 沿革  <『野母商船創業100周年記念誌』、野母商船株式会社、平成28年11月>より

1916(大正5年)創業者・村木清三郎氏により「野母電燈株式会社」設立(資本金八万円)
1919(大正8年)「長崎~野母」間に村木清三郎個人経営の「村木汽船部」が旅客定期航路事業を開始
1929(昭和4年)長崎県西彼杵郡時津村に「野母商船株式会社」設立
1945(昭和20年)軍の需要激増により「長崎~野母」航路に乗客が増加したため「青方~博多」航路を一時休航 「第八太古丸」を同航路に就航させる
「第八太古丸」「長信丸」「第二長信丸」「長清丸」及び本社が原爆により甚大なる被害を受け、各船とも修理箇所続出のため運行不能となるが、造船所も休止の為早急修理不可となる
造船所一部復旧のため船舶修理開始
1946(昭和21年)原爆による船舶被害、本社焼失、更に燃料油配給激減、修繕費、人件費の大幅増となり、経営不振となるのを防ぐためやむなく「長崎~野母」航路の運賃値上を行う
1947(昭和22年)「長崎~野母」航路は物価統制令による運賃値上を実施
1950(昭和25年)「長崎~野母」航路を海上運送法第三条の規定により定期航路事業免許申請
1952(昭和27年)「長崎~野母」航路に「つや丸(1)」が就航
「長崎~野母」航路に「せい丸(1)」が就航
1954(昭和29年)「長崎~野母」航路の「小ヶ倉」「蚊焼」「高浜」を抜港
1955(昭和30年)「長崎~野母」航路の寄港地へ新たに香焼島の「長浜」「馬手ヶ浦」を追加
1957(昭和32年)「長崎~野母」航路の寄港地に「向島」「小曽根」の二カ所」を追加
1958(昭和33年)「長崎~野母」航路の寄港地に「長浜」を追加
1959(昭和34年)「長崎~野母」航路の「馬手ヶ浦」を抜港
1961(昭和36年)「長崎~野母」航路の「土井首」を抜港
「長崎~野母」航路に「せい丸(2)、つや丸(2)」が就航
1962(昭和37年)三菱鉱業(株)が社船「夕顔丸」を廃止。「長崎~高島~端島」間は当社の運航のみとなる
漁業関係者の減少と陸上交通の発展により「長崎~野母」航路の「野母」を抜港
1964(昭和39年)「長崎~野母」航路を「長崎~高島」航路に名称変更
1970(昭和45年)「長崎~高島」航路の寄港地に「松が枝」を追加
1971(昭和46年)「長崎~高島」航路の起点を「長崎(元船)」に変更。「馬手ヶ浦」「松が枝」を抜港
「長崎~高島」航路の内「香焼町営深堀」抜港、寄港地「香焼」を土地名にあわせ「長浜」に変更
1974(昭和49年)端島炭坑 昭和49年1月15日の閉山に伴い「長崎~高島」航路の内「高島~端島」の運航が終了
「長崎~高島」航路の「小曽根」を抜港
「長崎~高島」航路は野母商船(株)より独立し「高島商船(株)」に於いて新免許申請を行うため廃止
1976(昭和51年)高島商船(株)と長崎汽船(株)が航路統合合併し、新会社「長崎汽船株式会社」となる
2016(平成28年)野母商船創業100周年


 「長崎~野母」航路への就航開始や端島への寄港開始時期については下記のとおりいろんな情報が存在していて、確定できるような新たな資料の発見等ができればと思っています。
 なお、端島寄港に関する確たる証拠にはなりえませんが、<『野母商船創業100周年記念誌』、野母商船株式会社、平成28年11月>の「歴代所有船」の一覧には、「端島丸」(進水年月:大正4年3月、主要航路:長崎-野母)の記載があり、名前から、もしかしたら端島に寄港していたのではないかと勝手な思いを巡らせています。ちなみに、九州汽船(株)の野母通いと称する船にも端島丸があったそうです。


●「長崎~野母」航路への就航開始(端島寄港についての情報は記載なし)
「野母商船創業100周年記念誌」・・・大正8年
「野母崎町郷土誌」・・・大正5年
●端島への寄港開始
「端島航路に詳しい方」・・・野母商船は終戦直後には運行しておらず、昭和20年代後半からと思う。
「野母崎町郷土誌」・・・昭和24年3月5日 野母商船が長崎~高島~端島~野母経由航路を就航
「長崎新聞 (昭和49年4月21日発行)」・・・大正5年
「三菱鉱業社史」・・・野母商船(大正8年以後長崎~高島~端島~野母航路を経営)
「島の先輩」方
 (いろんなご意見)
・・・
  • 戦前に走っていた商船は野母船と呼んでいて、船名は第00太古丸だったと思います。同型船が何隻もいました。(昭和23年には島を離れた先輩)
  • 野母船は、既に、昭和10年代には端島に寄港していた。(昭和十年代~二十年代半ばに島に住んでいた先輩)
  • 野母船は昭和24年から端島に寄港し、それ以前は端島に寄港しない野母航路の船であった。


〔 【 初 代 】 つ や 丸 ・ せ い 丸 〕

写真
<写真は、昭和33年高島町十年の歩みより>
 高島港の光景ですが、夕顔丸の手前に停船中の船は、もしかしたら、初代「つや丸」ではないでしょうか。ちなみに、創業者の妻「艶」より命名されたそうです。
 なお、船舶情報については下表をご覧ください。
区分総屯数進水年月
旅客
定員
主要航路
又は航路名
速力船齢
※152昭和4年12月91
長崎~野母
時津~鹿子前
※252.1681長崎-野母1032
※1
<『野母商船創業100周年記念誌』、野母商船株式会社、平成28年11月>の「歴代所有船」より
※2
<『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、97頁>の「(3) 長崎県旅客定期航路一覧表 (県南地区) (昭和36. 8. 1 現在)」より


写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 もしかしたら、初代ドルフィン桟橋に接岸しているのは、初代「つや丸」と思いますが如何でしょうか?。

写真
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
 船体部分を拡大してみました。「昭和33年高島町十年の歩み」に写るつや丸と同じ船型かと思います。


写真<写真は、長崎市歴史民俗資料館所蔵>
 桟橋に隠れ、船尾の船名が「せい」で切れてますが、煙突のマークと考え合わせると、野母商船の初代「せい丸」ではないでしょうか。
 なお、「せ」と「い」の間の小さな文字は「長」で、「い」の左側の文字は「崎」に見えます。創業者村木清三郎氏の「清(せい)」より命名されたそうです。
 なお、船舶情報については下表をご覧ください。
総屯数進水年月造船所
旅客定員
主要航路
50昭和25年9月松浦鉄工造船所82
長崎~野母
<『野母商船創業100周年記念誌』、野母商船株式会社、平成28年11月>の「歴代所有船」より


写真<写真は、「長崎グラフNO.2 昭和三十一年三月一日発行」より>
 野母商船(株)の広告記事に掲載されている写真で、初代の「せい丸」の姿ではないかと思いますが如何でしょうか?。ちなみに、広告には、「野母航路(快速) 長崎-土井首-深堀-香焼-高島-端島-野母」の記載があります。
 私は、この船には端島からは乗った覚えはありませんが、昭和40年代の初めぐらいでしょうか、この船が、長崎から香焼行きの船として使用されていた頃に乗った覚えがあります。なお、その時は二代目の「せい丸」が就航した後で、「第二せい丸」と呼ばれていたと思います。


〔 【 二 代 目 】 つ や 丸 ・ せ い 丸 〕

写真<写真は、「高島町政三十年の歩み 町制施行30周年記念史」より出典>
 端島閉山時に運行していた船です。高島港で二隻横付けで停泊している姿ですが、船首の鼻筋が、せい丸は下からほっそりと立ち上がっているようですが、つや丸では上に行くにつれて大きく広がっているように思えます。
 初代と二代目のせい丸の乗組員だった方から、二代目せい丸とつや丸は、就航直前の頃に、万国旗を付けて高島と端島を一周した旨の話しを聞いたことがありますので、もしかして、その時の写真でしょうか?。
 また、私の勘違いかも知れませんが、二代目「つや丸」と「せい丸」とでは船底の形に相違があり、せい丸が丸形でつや丸が箱形だったと聞いたような記憶があります。

 昭和40年代だったかと思いますが、二代目のつや丸・せい丸では、船首部分の左舷側にブーム?を設置し、乗組員の方が船首部分まで作業に来なくとも、操舵室からの操作で、ロープを渡したり、巻き取ったりすることができるようになりましたが、端島ではドルフィン桟橋が船首部分よりも高くブーム?の使用はできませんでした。
 また、同時期と思いますが、操船装置として当初は大きな舵輪を使用していたのが本当に小さな舵輪に変更となりました。また、機関の装置として当初は操舵室から機関室にある円形の指示盤?を動かし、機関室ではその指示盤?を見て、大小各1個のハンドルを操作し、前進・後進を行っていましたが改良後は操舵室からの操作のみで機関制御ができるようになりました。
 また、これらとは別の時期の改修かも知れませんが、船体外部の1階客室窓枠上部に配水管を設け配水管から水を出して窓を洗うようになったかと思います。(たぶん、三代目ではなく、二代目の船の窓だったと思うのですが・・・少し自信が・・・。)

 閉山後、かなりの年数が過ぎ私にはかなり曖昧な記憶しか残ってなく、もっと曖昧さが進む前に二代目の大まかな構造について船首側から記載させていただきます。
2階・・・操舵室、特別客室?、デッキ
1階・・・一般客室、各種小部屋のブロック(ブロックの右舷側には2階への階段、男子便所、洗面所、女子便所があり、左舷側には郵便物等の格納室、船底機関室への出入口(タラップ?)、乗組員の方の食事を作る部屋、プロパンガスのボンベ格納庫(木製?、製鉄?)、船底居住区兼倉庫への大きな出入口(リフト付き)、デッキ
船底・・・乗組員室用寝室(船首の形に沿って2段ベッドが2組?設置)、一般客室(客室後方の1階への階段部分は畳敷)、機関室、居住区兼倉庫(大きなリフトとかなり広い畳敷があり、畳敷では乗組員の方が食事もなされていたと思います。)


写真《つや丸》
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 昭和52年撮影、総トン数151トンで昭和36年建造。野母商船社長の母「艶」にちなんで命名されたとのこと。
 長崎新聞(昭和41年12月3日付け)には、「一五一.八一トン、最大四百五十馬力のディーゼルエンジンをそなえ、冷暖房完備。昭和三十六年十月広島の幸洋ドックで進水。全長二十九.九五メートル、幅六.二〇メートル、深さ二.五五メートル。定員は三百三十五人。乗り組み員は八人。最大速力十二ノットで平常速力十一ノット。同船と同じ日に進水した”せい丸”=一五一.一六トン=は姉妹船。」との記載があります。通常の運賃に加えて追加料金が必要な特別室が二階にありましたので、そこに冷房が備わっていたのでしょうか。


写真《せい丸》
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 総トン数151トン、昭和36年建造。野母商船社長の父「清三郎」にちなんで命名されたとのこと。定員335人
 長崎新聞(昭和41年12月18日付け)には、「昭和三十六年十月に進水、一五一.一六トン、ディーゼル四百五十馬力、速力一一ノット、乗り組み員は六人。海難救助を二回もしていて、海の記念日には表彰された。」との記載があります。


〔 大 時 化 時 〕

写真
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 三代目ドルフィンと二代目つや丸の姿です。「端島(軍艦島)」掲載の写真を見て頂くと良くわかりますが、船首や2階デッキには作業の様子を伺う乗組員の方がいらっしゃいます。ちなみに、大時化時に掲載の4枚の写真は同じ時の写真ではないかと思います。

写真<写真は島の先輩より>
 左写真でもそうですが、島とドルフィン桟橋を結ぶ橋にも波がかかっています。


写真
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 ドルフィン桟橋から石炭積込桟橋を望む方向の撮影です。

写真
<写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載>
 昔、使用していた石炭積込桟橋の基礎と島の間に位置するつや丸です。石炭積込桟橋の方からも人が向かっています。




〔 【 三 代 目 】 つ や 丸 ・ せ い 丸 〕

写真
<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 平成7年7月撮影に長崎港の大波止桟橋に停泊中の三代目つや丸です。この船、端島閉山後に建造されたため高島までの運航でしたが、煙突やエンジンが2個になり、若干のスピードアップと、一般客室にもエアコンが導入される等の特徴が有りました。
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数414>には、「つや丸、長崎汽船(公団共有)、総トン数225G/T、全長35.9×垂線間長32.5×型巾7.2×型深2.9、主機最大出力D500PS×2、航海速力11.5kt、旅客定員450名、、建造年1982年、建造所:長崎造船、長崎~神の島~伊王島~高島(補)」の各種データと「航海船橋甲板の後部が、今よりも若干短かったが、せい丸に合わせて延長された。」の記載があります。ちなみに、高島の後の「(補)」は、昭和63年度の国庫補助航路を示す記号とのことだそうです。


写真
<ハンドルネーム 端島支所下っぱ用務員さん投稿写真>
 平成10年の撮影だそうです。つや丸でしょうか?、せい丸でしょうか?。
 高島からの帰りのコバルトクィーンから撮ったそうで、小ヶ倉あたりの造船所?に係留されている時の光景です。ちなみに、「せい丸」は昭和59年8月26日に就航しているようです。
 <森田裕一、『日本客船総覧』、先川印刷(株)、1989年、頁数414>には、「せい丸」の説明として、「せい丸、長崎汽船(公団共有)、総トン数150G/T、全長35.9×垂線間長32.5×型巾7.2×型深2.9、主機最大出力D500PS×2、航海速力11.5kt、旅客定員480名、、建造年1984年、建造所:長崎造船、長崎~神の島~伊王島~高島(補)」の各種データと「つや丸と船体寸法は全く同じだが、総トン数が大きく異なる。これは国連において制定された測度に関する国際条約が我が国においても1982.7月に発効し、以後、建造される船の測度方法が変わったためである。」の記載があります。


〔 第 八 平 戸 口 丸 〕

写真《島時代の野母商船の定期客船》
<香焼町郷土誌編纂委員会編集「香焼町郷土誌」香焼町(平成3年)より許可を得て転載>
 香焼が埋立前の島時代の光景です。桟橋に接岸している第八平戸口丸に横付けしようとしている つや丸 or せい丸 が見えています。
 写真の光景がその時の光景かは分かりませんが、私の記憶の中には、端島を出発した二代目 つや丸 or せい丸 が香焼に到着した際に、燃料切れ? or 故障?のため航行できずに桟橋に接岸したままだった第八平戸口丸に、横付けしてロープでつなぎ、長崎まで2隻並んで航行したのを覚えています。たぶん、日曜日の出来事だったと思っています。
 余談になりますが、桟橋から島に上がったすぐの場所に、食堂があったような記憶もあります。


写真
<第1回JRP長崎「GEN」展会員様より>
 2006年9月に開催された写真展で会員のお一人様が、「遥かな軍艦島」をテーマに、閉山間際?の懐かしい光景を出展されていました。
 その時にHP掲載用としての頂いた写真の一枚ですが、ドルフィン桟橋に接岸しようとしている第八平戸口丸と思えます。おそらくは、つや丸、せい丸、どちらかのドック時か、突発の故障により代船として端島に来た時の光景と思いますが、昭和48・49年ぐらいの撮影とのことでした。
 ちなみに、第八平戸口丸は大きな舵輪にて操船されていました。舵輪の動きに合わせて、舵輪と舵とを結ぶ鎖が、操舵室から出た2階甲板部分にて動いていたことを覚えています。あと、乗組員の居住区は、船尾の船底部分にあり(2段?)ベッドが設置されていたように記憶しています。


写真<写真は、「長崎グラフNO.2 昭和三十一年三月一日発行」より>
 写真の説明には「出船入船で賑う平戸港の風景」とあります。第八平戸口丸は、昭和30年の進水ですが、この写真は昭和31年発行の本に掲載されているものですので、進水したての頃の姿のようです。


写真
<写真は、「船の雑誌第7号」[1978年・(株)至誠堂]より許可を得て掲載>
 写真の説明には、「総トン数141トン、昭和30年建造。46年の光景で、三菱造船所勤務者用の通勤船として運航中の第八平戸口丸。」とあります。晩年の姿のようです。


写真

写真
西海国立公園 九十九島-長崎 をむすぶ 海の特急》  <所有資料>
 西海橋らしき橋の下を航行しているのは、第八平戸口丸でしょうか。

写真<所有資料>
 長崎時津-佐世保鹿子前間の航路に従事していたようです。

写真<所有資料>
 第八平戸口丸について詳しい説明があります。
 当パンフレットには、「特別三等 5割増」、「二等 2倍」の文字がありましたので、当時の料金形態は3種類あったのでしょうか?。
 なお、この船ですが、進水は松浦造船のようです。また、平戸口運輸の所属として、平戸-田平間を運行していた時期もあるようです。

<所有資料>
 上記パンフレットとは別物で、御案内の紙面もあり、船名には、第八平戸口丸の他に、長信丸の記載もありました。
 また、<『長崎県と国鉄 昭和36年10月』、国鉄西部支社長崎出張所、昭和37年1月20日印刷、98頁>の「(3) 長崎県旅客定期航路一覧表 (県南地区) (昭和36. 8. 1 現在)」には、「経営者 野母商船(株)、航路名 時津-鹿子前、船名 平戸口丸、屯数 141.83、定員 494、速力 10、船齢 6、航行距離km 51.0、1日運行回数 1」の記載があります。


〔 運 行 時 間 〕

写真
《昭和43年 8月25日現在》
 <『高島町の歴史年表』、高島町教育委員会、平成15年3月31日発行、157・158頁>には、「昭和42年11月11日 野母商船,香焼埋立てに伴い外回りに航路変更。」のタイルにて、「香焼島と本土の埋立て工事(県の外港整備計画)に伴い運航が出来なくなり、外廻りとなり,新ダイヤ(直行便5往復)で運航。香焼埋立締切り式典が,43年2月3日に挙行され,完全に陸続きとなる。」の記載がありますので、時刻表データの時期を考えますと、左時刻表は香焼埋立締切後の時刻によるものとなります。
 原則、長崎-端島間の運行は、つや丸・せい丸の2隻体制ですが、長崎発19時40分発の使用船舶は第八平戸口丸で、平日は香焼止まりでしたが、休日のみ、高島経由で端島まで運行区間が延長され、折り返しは、高島に寄港せずに香焼までの運行でした。長崎始発の船は、その日は高島に泊まって翌日は高島始発になります。
 なお、記載の運賃は一般者の料金で、三菱鉱業株式会社高島砿業所一般従業員並びに家族は、会社の証明書を使用して、下段にある割引運賃で乗船することができてました。
 ちなみに、時刻表データには左の船便以外に、「長崎発香焼行 715、830、930、1030、1330、1720、1820」と「香焼発長崎行 640、755、855、955、1055、1355、1650、1745、1850」の記載もあります。
※昭和43年6月3日付けデータでは、長崎発香焼行として上記以外に「1620」の記載があります。


写真《昭和48年》
 全ての便が直行となっています。ちなみに、高島発7:00-端島7:30-高島7:50は、朝顔丸による運行で、メインの利用客は高島にあった高校へ登校する学生だったと思います。


〔 三菱鉱業株式会社高島砿業所一般従業員並びに家族の野母商船乗船料金 〕

写真

 夕顔丸等の社船廃止により、昭和37年4月以降、長崎-高島・端島間の航路は野母商船のみとなりましたが、同時期以降の運賃の推移について、三菱鉱業株式会社高島砿業所と三菱高島炭砿労働組合並びに三菱端島炭砿労働組合が取り交わした複数の協定書等からの転記により作成しました。私の見落としにより、記載漏れとなっている料金改訂があり得ますことをご容赦願います。
 長崎-端島間の運賃ですが、下請・商店の方など社外者の方は前段の「運行時間」表に記載のとおり、一般料金として昭和43年には150円・昭和48年では200円を支払っていましたが、三菱の一般従業員並びに家族の方は切符販売所の窓口に「乗船証明書」(三菱による従業員や家族であることの証明)を提示することで、最も高い時でも55円と格安な料金にて乗船できていました。ただ、昭和37年3月24日の協定書には、「通常日 長崎発最終便を除く全便」において表の料金取扱いを行う記載があり、通常日の長崎発最終便だけは三菱の一般従業員並びに家族の方も一般料金を支払っていたようです。

 なお、「一般従業員」との記載がありますので、職員の方は別に料金体系が設けられていたのでしょうか?。また、野母商船の料金ではありませんが、大正5年の料金については こちら を、昭和25年の料金については こちら をご覧ください。


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