○ボタ山・ボタ浜(西海岸)
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<”はしま”閉山記念特集号より、編集者の許可を得て掲載>
閉山間際は、31号棟を貫通する形で、ボタを海中投棄するためのベルトコンベアーが設けられていました。(実際は
ベルトコンベアーの方が31号棟よりも前から設置されていました。)
通常時は、ボタは溜まらずに波に流されていましたが、昭和40年前後の三ツ瀬区域への坑道掘削?時には発生した大量のボタが投棄され、流れきらずにボタ山やボタ浜ができました。
左写真はその頃の光景で、めがね桟橋付近から31号棟方向を望む光景ですが、ボタ浜が出来ていて、ボタ浜の先の護岸横(31号棟横)にはボタ山ができています。
なお、時代により規模は違いますが、昔の写真を見ますと、その時々でボタ浜は発生してようです。
48・50号棟にかけて・・・
昭和10年代初めから中頃?
48・50号棟にかけて・・・
昭和20年代半ば
学校グランド横・・・
昭和27年
学校グランド横・・・
昭和31年頃
31号棟から59・60・61号棟にかけて、学校グランド横・・・
昭和41年
上段写真の頃は、めがねの広場からゴミを捨てていました。ボタ浜がない時は、広場から落とされたゴミはそのまま海に落ちて、波に流されていましたが、ボタ浜ができて、ゴミはボタ浜上に溜まることとなり何らかの支障がでたようです。
それを解決するために、広場からボタ浜と海の境目付近まで足場を組んで、その上に、円形の筒を半分に割った溝のような構造物を載せた、斜めの高架橋のような構造物を設けました。そして、ボタ浜上から特殊な棒?を使って、高い場所にある溝のような構造物に載せられたゴミを広場から海まで押し出していたように思います。(かなりあやふやな記憶ですが、広場から見たボタ浜の大きさと、その作業の光景に驚いた記憶があります。)
なお、その後は、南部からゴミを捨てるようになりましたが、30号棟から南部にかけての坂道を、ウィンチ?(圧縮空気使用?)でゴミ車を引き上げて、南部プールの手前にあった排水路にゴミを捨て、水の力を利用して島外に放出していました。また、昭和48年2月には、その場所付近にごみ処理場が完成します。