○島構築・島姿 (昭和30年代~40年代 ??)
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《昭和30年頃の端島》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
《昭和33年頃の端島》
| <写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
掲載書では新65号棟の建築風景が伺えます。
<写真は、祖父・父が端島に住んでおられた方より>
病院が建築中の頃の撮影のようです。
<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)> 表海岸の65号棟から選炭機があった部分周辺の光景です。思いつきのまま、当時の特徴を記載させて頂きますと
- 「初代ドルフィン桟橋」の左側には、それまで使用されていた「上陸桟橋」が写っています。
- コンクリートの3号棟はまだ建設されておらず、木造の3・4号棟が写っています。
- 5・6号棟の形がよく分かります。
- 閉山時にあった「ドルシックナー」はまだ設けられていません。
- 貯炭場の左下部分には、閉山時にはなかった建物が見えています。
<出典:社会大観・第4号((株)世界文化社・昭和31年8月20日発行)>
写真上部の左端には、「初代ドルフィン桟橋」(昭和29年8月27日竣工、昭和31年8月16日台風にて流失)が写っていますので、撮影された時期はかなり限定されます。
思いつきのまま、当時の特徴を記載させて頂きますと
- 学校・病院の建物は、まだ、木造のままです。
- 学校校舎の横にあったプールの上にも、木造校舎が増築されています。
- 下の写真では、65号棟の屋上に木造の建物が見えますが、こちらでは見えておりません。
- 釜場から学校海岸まで、高架のレールが設けられています。
- ボタの浜の形が、昭和40年代初めの頃の姿と違っているように思います。
《昭和33年頃の端島・病院隔離病棟建築中》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
学校・病院がコンクリート製になっておりますが、学校は、まだ6階建てです(36年5月に7階に増築)。なお、左上の写真では、65号棟病院側屋上に建物はありませんが、こちらの写真では建物があります。また、3号棟の建物は建築中の時期の写真ではないかと思っております。
《昭和33年頃の端島・31号アパートが新築されて間もないころ》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
《昭和34年頃の端島 中ノ島より撮影。》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
学校校舎の7階増築部分が完成しているようですので、撮影はもう少し後になるようです。
(<高島町制30周年記念史編纂部会編集、『高島町政三十年の歩み[町制施行30周年記念史]』、高島町、昭和53年>には「36年5月に中学校5教室を増築した」との記載があり) また、この頃はグランド部分の護岸前にはテトラポットが設置されていないようです。
《昭和36年頃の端島 社船「夕顔丸」が見える。》
| <写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載 |
《昭和36年頃の端島》 | <写真・説明は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
三代目ドルフィン桟橋らしきものが見えます。
<昭和37年撮影>
| < 出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=556743 ) 1962/05/30(昭37)撮影写真から端島周辺の部分拡大を作成 > |
貯炭場ですが、後日、大型のドルシックナーができる場所には、その以前にあった沈殿池やコニカルタンクらしき施設が残っているように思われ、閉山の頃にはなかった第四竪坑櫓のすぐ南側の建物も残っているようです。しかし、閉山の頃にあった大きなドルシックナーと護岸の間となる場所には、昭和27年ぐらいの島の地図に記載がある綿打場、合宿、事務所の建物は消えているようで、貯炭場としては最終形に向かう頃の光景と思います。
また、新65号棟は完成していますが、65号棟中庭部分の建物はまだ残っていて、また、
9・10号棟も健在のようですが、学校グランドや隔離病棟横の護岸を守るための
テトラポットはまだ設置される前の状態で、島全体としても最終形に向かう頃の姿です。
<昭和41年撮影> | < 出典:国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」( https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=565508 ) 1966/07/05(昭41)撮影写真から端島周辺の部分拡大を作成 > |
通常、投棄されたボタは波で流れてしまい31号棟前にボタ浜はありませんでしたが、<山本ほか、「高島炭田三ツ瀬および端島沖海域の探査」、鉱山地質、第17巻第84号別刷、1967年、26・27・35・36・39頁>」の「39年8月・・・(途中略)・・・深部採掘区域を放棄せざるを得なくなり、その代わりとして三ツ瀬区域の開発は急進を迫られ、全力をあげて掘さくを急いだ結果、40年2月に零片零目貫で着炭し、直ちに採掘坑道の展開を行い10月から出炭を開始した」にあるように、昭和39年後半ぐらいから昭和40年10月ぐらいまでにかけては大量のボタが発生し、
31号棟から59・60・61号棟にかけてと
学校グランド横にボタ浜ができた時の写真です。また、31号棟前のボタ投棄ベルトコンベアー付近には黒く目立っている箇所がありますのでボタ山もできていると思われます。なお、<『毎日グラフ』、毎日新聞社、昭和40年3月21日発行、通巻784号、12・13頁>の島の全体写真では、できたばかりのような小さなボタ山と31号棟から51号棟にかけてまだ幅が狭いボタ浜があります。
ちなみに、この写真は昭和41年7月5日撮影で坑道掘削完了後になり大量のボタが出なくなった時の写真ですが、ボタ浜やボタ山は直ぐにはなくならなかったようで、特に学校グランド横のボタ浜は、<NPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫編集代表松本滋、『軍艦島の生活<1952/1970>住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』、株式会社創元社、2015年、88頁>の1970(昭和45)年撮影の写真においてもかなりの大きさを保っているようです。ちなみに、ボタ浜ができたのはこれが初めてではなく、規模に違いはありますが以前にもボタ浜があった時期はあります。
《昭和48年頃の端島》 | <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |
《昭和48年頃の端島》
| <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より高島町教育委員会の許可を頂き転載> |