《三菱高島礦業所-端島坑鳥瞰》
| <前川雅夫 編著『炭坑誌-長崎県石炭史年表』葦書房(1990)より編著者及び発行所の許可を受け掲載> |
昭和10年代初めの光景ではないかと思います。南部には広場があり、閉山時に隔離病棟があった付近の護岸は凹んでいます。
島の先輩によりますと、その凹み部分には階段状の「すべり」があったそうで、その沖合に、夕顔丸、村雨丸が停泊して、艀で連絡していたそうです。
先輩の年代を考えると、上陸桟橋(クレーン式)(大正11年)が完成している時のお話しかと思えますので階段状の「すべり」が常時使用されていたかは不明でしたが、別の島の先輩より表海岸の桟橋が使用できないときにこちらを使用していたことを伺いました。また、昭和10年代初めにお生まれで「めがね桟橋」の使用をご存じの先輩や、その方よりも若干早く生まれた先輩はこちらの桟橋をご存じありませんでしたので、後年の階段状の「すべり」はメインの場所ではなかったようです。