○めがね桟橋

*本HPの写真・図版等の転載・転用等を固く禁止します。

 昭和23年には端島を離れた先輩からは、南風泊港(南風が強い日に使用)として、戦前までは夕顔丸が来て艀を使用し乗り降りをしていたお話しを伺いました。
 また、昭和十年代から二十年代半ばかけて端島に住んでいらっしゃった先輩からは、台風の時に、ここから島に上がった記憶や野菜船の方が使用していた記憶があるとのお話しを伺いました。


写真
《潮が引けば海岸も子どもの遊び場》
  <写真は、「端島(軍艦島)」(平成16年)より、高島町教育委員会の許可を頂き転載>

 「めがね桟橋」出入口の先に、51号棟ではなく、昭和34年9月17日の台風14号で倒壊する砿業所武道場兼体育館らしき建物が見えるので、それ以前の写真と思いますが、階段の途中等にゴミが散乱しているようです。
 昭和40年代の中頃位は、めがねからゴミを捨てていたのを覚えていますが、当時も、ここから捨てていたのでしょうか?。

   参考:ボタ山・ボタ浜(西海岸)


内容《三菱高島礦業所 端島坑九階建社宅》の部分拡大
 16・17号棟が9階建てで、18~20号棟が6階建ての頃の日給が写っている絵葉書からの部分拡大ですが、画像の左上に、閉山間際の頃と変わらない「めがね桟橋」出入口の姿が見えています。
 また、「めがね桟橋」出入口の護岸上にはレールが敷かれているように思いますので、48、51号棟付近の護岸が大正14年に崩壊した際の復旧工事か、閉山時に59号棟から隔離病棟があった箇所の石積護岸の手前にコンクリート護岸を設ける工事の際の光景かと思いますが如何でしょうか?。もし、その考えが正しければ昭和初期の頃の撮影と思われます。


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