このページについては、柿田さんがお亡くなりなる直前に、柿田さんから情報をいただいた興味深い場所について掲載いたしております。
<2010年10月撮影>
その昔、上陸するための桟橋があった箇所から、少し、高島の方に行った場所となります。この時は引き潮で、水際にある大きな岩まで歩いて行けましたが、引き潮でない時は、水に濡れないと歩いて行けない場所となっております。こちらから見たところ、水際の大きな岩は普通の岩にしか見えません。
今回掲載の「穴や階段」及び「石積」が、明治期の炭坑があった頃の施設であったらいいのにと思いながら歩き回りました。中ノ島は、閉山となった後も、公園等建設により手が加わっておりますし、それ以外にも手が加えられた可能性もあります。ついては、これらの施設は閉山後のものかもしれませんが、少しずつでもいいので、分かっていけばと思い掲載いたしました。
<2010年撮影> 上段写真の水際にある、一番左側の大きな岩ですが、岩の上には変な穴と階段らしき構造がありました。もう少し引いて岩全体を写したかったのですが、引くと海に落ちるので撮影を諦めました。
<2010年撮影> 真上から見た光景ですが、この穴は何の用途に使われていたのでしょうか?。穴の海側は細長い溝のような構造となっています。
<2010年撮影> 岩の側面を上から見たところです。岩の側面に沿って人工的と思える段のような構造が設けられています。
<2010年撮影> 左の写真の場所を側面から見てみました。大きな岩の中央部にある段のような構造がお分かり頂けますでしょうか?。
《 柿田 清英 氏 撮影 》 < 関係者の許可を得て掲載 >
現在はお亡くなりになられていますが、写真集『崩れゆく記憶 端島炭鉱閉山18年目の記録』の著者等として有名な柿田さんの撮影で、以前、拙HPの掲示版に投稿いただいた写真です。関係者様よりご許可をいただきまして、掲載させていただいております。
柿田さんは泳ぎが得意で、このように海上からの撮影もなされておりました。
上段にある「岩の上には変な穴と階段らしき構造がある」大きな岩を海上から撮影したものですが、海上での撮影なので、十分に引いて撮影することができ、大きな岩の様子が一目で分かります。
私が、中ノ島に、のめり込んでいくきっかけの写真の中の一枚でもあります。
《 柿田 清英 氏 撮影 》 < 関係者の許可を得て掲載 > 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版に投稿いただいた写真です。上段写真に写る大きな岩の反対側(島側)の光景です。ちなみに、大きな岩は中段中程に写る大きな岩で、写真右端に写る大きな岩の左の左になります。
少し高いところからの撮影のようで、私には普通の光景のようにしか見えませんが、柿田さんには、昔の構造物の跡が残っているものと感じられたようです。
《 柿田 清英 氏 撮影及びGIF動画作成 》
< 関係者の許可を得て掲載 > 以前、柿田さんに、拙HPの掲示版に投稿いただいたGIF動画です。柿田さんが感じられた、昔の構造物について色を塗って示されています。
その一つとして、「ピンク色部分は、護岸の一部の印象がありますが、それにしては低すぎるので不自然に感じます。」を挙げられておられましたが、その護岸は、本GIF動画の下にある写真に写る石積のことのようです。なお、写真中段から下方に向かって2本の溝らしき構造物が延びていますが、2019年にNHKにて放映された横島の海底に沈んだ護岸からも、このような溝らしき構造物が延びているようでした。
<2010年撮影> 変な穴と階段らしき構造を持つ岩から、野母崎方向の光景です。写真中央にある大きな岩の側面にも段のような構造が見えます。また、左下の海面付近にはGIF動画のところで説明があった「ピンク色部分の護岸」が見えています。
<2010年撮影> 今回撮影した石積のうち、最も、野母崎寄りの場所です。こちらの石積を構成している石は、綺麗な四角形をしていて配置も綺麗に並んでいます。
<2010年撮影> 上段左写真に写る石積を、上段写真とは反対側から撮影した光景と思います。
<2010年撮影> 上の写真と下の写真の中間の場所になります。
上や下の写真にある石積を構成している石の海側の面は凸凹がなく綺麗な形に配置されていますが、こちらの石積の海側の面には凸凹を感じます。
<2010年撮影> 大きな岩場付近から島の方を見た光景です。大きな岩がある場所の位置が大まかにお分かり頂けますでしょうか?。ちなみに、中段、右端に白く小さく写っている部分が高島になります。
<2010年撮影> 最も、高島寄りの場所になります。
こちらの石積ですが、手前にある「大きな岩」に向かって少し曲がっています。
また、こちらの「大きな岩」にも穴が開いていますが、穴の形は上から二段目にある穴の形と若干違うようです。なお、こちらも穴の海側は細長い溝のような構造となっています。
<独立行政法人国立公文書館所蔵 公文附属の図・一九八号 長崎県下中ノ島炭坑ノ図> 長崎県下中ノ島炭坑ノ図から、このページで紹介している場所付近を抜き出しました。
図はあくまでも計画図であり完成した時の図ではありませんが、図にはかなり長い石積のようなものが描かれていて、現在残っている石積みは明治時代に設けられた可能性が高いのではないかと思っています。
また、埋め立ては図の左から中央にかけての範囲のようで、図の右端にある瀬の部分は埋め立てが計画なされていないようですが、
明治14年ごろとされる中ノ島写真の拡大が可能な写真を目を凝らして見ますと埋め立ての状態は図と同様の状態のようですので、その点は計画図のとおりに埋め立てが行われたのではないかと思います。
なお、拡大が可能な写真では、埋め立てが行われていない部分には壁のようなものが存在しているようですが、もしかしたら、
このような壁が存在していたのではないか思っています。