〔 端島から望む光景 〕
《端島より中ノ島を望む》 <長崎歴史文化博物館蔵> 明治10年に試錐を開始し、明治12年に立坑開削に着手、明治16年に出炭開始、明治26年に坑内出水の増大により廃坑の中ノ島炭坑です。煙突から煙が出ているので操業時と考えますと明治26年以前の撮影かと思います。
中ノ島操業時には、護岸が設けられ、島には数多くの建物があったことがお分かり頂けるかと思います。
《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大1 上段写真において、煙が出ている煙突の右隣に煙が出ていない煙突がありますが、その煙突の右側の光景で、写真の左側にはボタ山、写真右側には長屋?らしき姿が見えます。なお、ボタ山と長屋の間には、壊れて護岸が存在しない場所や護岸の補修中のような部分がありますので、台風被災後の光景のようで、時期は不明ですが、もしかしたら、
明治14年の暴風激浪もその候補になるかと思います。
《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大2 上段写真において、山の部分の右側に櫓がありますが、その周辺の光景です。一番奥には櫓と煙突が、その手前には、割と大きい二階建ての建物が、写真手前の護岸には排水口らしき姿が見えております。
《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大3 上段写真における山の部分の左側の光景です。写真の右側では護岸が見えていますが、写真の中央付近には護岸の姿はなく、建物の基礎が露出して建物を支えている柱の姿が見えます。現在、この場所や岬の部分等の岩盤上には穴が多数存在しておりますが、その昔、建物を支えていた柱を収めていた穴ではないかと推測しています。
《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大4 山頂付近の光景です。数多くの建物が建っていますが、この場所は昭和37年に完成した公園がある場所のようです。
「 ( 《端島より中ノ島を望む》 <長崎歴史文化博物館蔵> ) と 現在の中ノ島の合成画像 」 <現在の姿の撮影とGIF動画作成:柿田清英氏>
この画像ファイルは、以前、柿田さんが作成され、昔の炭坑施設の位置特定等のためにと頂いた物です。長崎歴史文化博物館様と柿田さんのご関係者からのお許しを得て掲載しています。
〔 中ノ島の岬部分から望む光景 〕
《高島炭鉱中島写真》
| <写真は長崎市立博物館所蔵、許可を得て掲載、二次利用禁止です。> |
中の島の端島側光景で、向きとしては、岬の部分から、山の部分、中央部分を眺める光景になります。中央部分と岬の部分の境目付近には、護岸と同じ高さぐらいのボタ山とボタの投棄設備らしき姿が見えます。なお、ボタ山とボタの投棄設備らしき姿は、
「《端島より中ノ島を望む》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大1」の左端にも写っていますが、そちらの写真のボタ山は護岸から更に高く投棄設備と同じぐらいの高さとなっております。
〔 高島(下二子島)から望む光景 〕
《グラバー資料アルバムより》 <長崎歴史文化博物館蔵>
写真手前が下二子島で、上段中ほどの島が中ノ島、そして上段右端にある島が端島で、
こちらの写真とほぼ同じ構図の写真のようです。
また、同資料が収められているアルバムの最後には、「政商グラバーのコレクションから」と題された特集記事(1986年10月18日付「朝日新聞(夕刊)」)があり、この写真と思われる写真も掲載されていて、「高島炭砿
明治14年ごろ」として紹介されていました。
なお、撮影の地である高島の下二子島に関する明治の記録としましては、『高島炭砿史』三菱鉱業セメント(株)(1989)の209頁に、
- 明治9年 日本最初の金剛試錐73m(240尺)を実施したが、めぼしい炭層は見付からなかった。
- 明治17年 二子島借区が中ノ島とともに三菱に払下げられる。
- 明治19年 二子島の仮坑区券を返上
- 明治38年 鉱業用地として二子島全島を買収
とあり、撮影の頃の二子島は、まだ、炭坑の場所としては利用されていなかったようです。
《グラバー資料アルバムより》<長崎歴史文化博物館蔵>より拡大
(上段写真)の部分拡大版です。年代的に多少のずれはあるかも知れませんが、明治14年ごろの中ノ島の姿に、思わず興奮してしまいます。
なお、あくまでも個人的感想ではありますが、中ノ島炭坑は残念ながら「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産には含まれておりませんが、次ページ以降に示すように炭坑関連施設が今でも数多く残っており、構成資産に含まれていてもおかしくない場所と思っています。
〔 炭坑関係記録 〕
※左表データの明治23年までは、『三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、高島炭砿史、三菱鉱業セメント(株)、1989年、174頁』の「第6表 高島炭坑・中ノ島炭坑の利益推移」より引用 また、明治24年度以降は、『三菱鉱業セメント(株)高島炭砿史編纂委員会、高島炭砿史、179頁』の「第11表 明治24年~26年の高島炭坑・中ノ島炭坑・端島炭坑の利益」より引用
左二表は、三菱の組織上における中ノ島の位置づけを示すために引用させて頂きました。
上段の明治21年の組織図では、中ノ島主務として坑内作配役等と同列に位置づけられておりますが、下段の明治23年の組織図では、副坑長(中ノ島詰)となっております。
なお、『前川雅夫、炭坑誌-長崎県石炭史年表、葦書房、1990、79頁』の「長崎県勧業年報 明治16年版 工場表」には、
中ノ島(高浜村)・機関運転力60馬力、職工(男320女-)と、高島・機関運転力417馬力、職工(男2,065女20)の記載があります。明治23年には新立坑が開削される中ノ島ですが、最盛期の人員が何名ぐらいだったか興味が沸くところです。
〔 坑口数とその位置 〕
中ノ島炭坑の坑口数についは今まで2坑と書かれた資料しか知りませんでしたが、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集、長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、243頁>に掲載されている、九州大学所蔵の『山田義勇 1918 「髙嶋炭礦端島坑報告」別冊付図』の「坑口位置図」には「第一坑、第二坑、第三坑」の記載があります。
また、同頁には、『高島炭砿史』掲載の「坑口位置図」、長崎歴史文化博物館所蔵の『明治三十年第五課事務簿鉱山之部共六』による「坑口位置図」も併せて掲載されていて、今後明らかにすべき点として、坑口の数(2か所なのか、3か所なのか)と坑口の位置の解明が挙げられています。
なお、私としては3か所だったとした場合の坑口位置は下記のとおりと考えています。
| 第一坑 | 端島より見える場所で、現在、大穴がある場所の少し野母崎側の位置(冒頭の写真に写る箇所) |
| 第二坑 | 現在ある大穴の場所 |
| 第三坑 | 現在ある大穴よりも少し高島側に移動した場所付近 <『高島町の足跡』、平成16年12月高島町発行>には、その場所も穴のような跡があり、大穴の場所同様に周りを柵で囲まれているような写真が掲載されています。 |
〔 大穴の底の構造物 〕
<2012年撮影> 写真中段の中ほどにコンクリート柱による塀が見えています。
コンクリート柱による塀は昭和37年に中の島を公園化する際に、人が誤って落ちないようするための構造物と思っていましたが、
昭和22年の航空写真にも角ばった構造物が見えるようなので、かなり前から塀は存在していたように思います。
<2012年撮影> コンクリート柱による塀周辺の拡大です。塀の左手には石積も見えます。
コンクリート柱による塀の裏側に大穴が存在しますが、<パシフィックコンサルタンツ(株)編集 長崎市経済局文化観光部文化財課及び総務局世界遺産推進室監修、『史跡 高島炭鉱跡(高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭坑跡) 保存管理計画書』、長崎市教育委員会、2015年9月、245頁>では、大穴を上から覗き込む写真と、端島の第一竪坑坑口の図面を並んで掲載し、「明治19年(1886)に開坑した端島炭坑跡の第1竪坑の形状と類似した形状が確認できる。」との記載があります。ついては、大穴の底には、中ノ島炭坑の稼働時期から、明治初期の頃の坑口が現在も残っている可能性があり、それは私には大変な驚きです。
<2010年撮影> 手摺の先にある山の反対側に端島があります。ちなみに、穴の深さについては、中ノ島を非常に詳しく調べられていた方から測定時の話として、かなりの深さがあったことを伺っています。
《鉱山ノ部 明治30年5月~7月》(部分)
<長崎歴史文化博物館収蔵> 私の勘違いかも知れませんが、付属図の竪坑口の場所は、現在ある大穴の場所に相当するのではないかと思いますがいかがでしょうか?。ちなみに、「増區ニ係ル鑛區訂正願」からの中ノ島全体の拡大図は
こちらをご覧ください。
<2024年撮影> 端島上陸観光船からの光景ですが、高台の右端の箇所が大穴の底の構造物がある箇所になりますので、上段図面の竪坑口の位置と比較しながらご覧いただければと思います。
岸辺には、私が明治時代の炭坑施設と思っている
正方形の煉瓦構造物 や
長方形の煉瓦構造物 が転がっていますが、その場所は上段の図面でいえば民地との境目ぐらいになるのでしょうか?。そして、それらの場所も昔は埋め立てられていて高台の一部になっていたのいではないかと思いますがいかがでしょうか?。